第32話 三善結生子(大学院学生)[3]

 先生が続けて言う。

 「それにどうせ出てないわよ一次史料には」

 もう……!

 学生がそんなことを言うと、先生は

「ねえ一次史料に出てないってどうやって調べたの? 出てないってことは一次史料ぜんぶ当たってからじゃないと言えないことなんだけど、ぜんぶ調べたの? 調べてないならどうしてそんなこと言うの?」

言う。

 で、自分では、それか?

 まあいいけど。

 それをきくのは先生の仕事であって、指導を受けている修士一年の学生の仕事ではない。

 その先生が続ける。

 「市史ししのほうはわたしが確かめるから」

 「はあっ?」

 いっしょに手分けして読んでくれるんじゃないの?

 「早くして! いつ博子ひろこさんからお呼びがかかるかわからないんだから」

 「はあ……」

 その『向洋こうよう史話しわ』という聞き書き集は、一冊が八百ページとかある本の二冊組みで、そこにさらに二段組みでぎっしりと活字が並んでいる。

 ここの研究室が持っているのは、岡平おかだいら旧家きゅうかから譲ってもらったもので、明治三十五年、一九〇二年の版だ。紙は茶色になっていて、表紙びょうしは取れかけている。下手に扱うとページがごそっとはずれてしまうこともある。国会図書館にもない貴重書だ。

 そこから、永遠ようおんの火事の資料、って……。

 これこそ、いちどスキャンして、キーワード検索をかけられるようにしておくべきだな。

 そんなことを言ったら、その仕事が結生子ゆきこに降ってくるから言わないけれど。

 「明治に近いほうから探してね」

 先生が声をかけた。

 「もしあれが火事の跡なら、永遠寺に力のある時代だったらちゃんと後始末してるはずだから。後始末もしないでそのまま残ってるんだとしたら、その場所が永遠寺のものでなくなるすぐ前のこと、もしかすると、永遠寺の土地でなくなってからのものかも知れないから」

 「はい」

 すなおに従う。

 後ろから探したほうが資料が出てきやすいかどうか、結生子にはわからない。

 でも、先生の言うとおりにしておいたほうがいい。

 たまに言われたとおりにやっても、

「もう何やってるの結生子ちゃん? いくらわたしがそう言ったからってそんなのではだめでしょう? 少し考えればわかることでしょう?」

なんて言われることもあるが。

 もう慣れた。

 なんにしても、この先生が自分を「苦界くがい」とかいうところから「救って」くれたのだ。

 つまり、中世の人にとっての仏様のような存在だ。

 感謝は、しなければならない。

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