第26話 三善結生子(大学院学生)[1]

 「さて、結生子ゆきこちゃん、レポートはできたの?」

ときかれてから「来た!」と思っても、遅い。

 ふつうに、無表情に

「いえ。まだですけど」

と答える。

 千菜美ちなみ先生は、黙って、わざと上目づかいで、じっ、と結生子を見た。

 一時期はこの視線が何よりも怖かったものだが、もう慣れた。

 いま千菜美先生の研究室ではいちばん上の学年の学生が結生子だ。ほかにこの教室に属する大学院生がいないので、修士課程一年でもいちばん上になる。

 年齢だけなら、社会人学生の白壁しらかべ瑠里るりさんが結生子より上だが。

 そんなことで、結生子がレポートを出してしまわないことには、後輩が安心して平気でレポートを遅らせる。

 締切まではまだ間があるのだが。

 つまり、これからその岡下おかしたに行くから、その前に仕上げなさい、ということだ。

 続けて先生は言う。

 「あ。杏樹あんじゅちゃんと仁子じんこちゃんの卒論計画書の査読さどくもお願いね」

 おいっ!

 自分でやってるんじゃなかったのか?

 「あの?」

 「なに?」

 千菜美先生はまたわざと上目づかいで見返す。

 「わたし、まだ修士しゅうし課程一年なんですけど」

 「うん。それがどうしたの?」

 「卒論計画の査読なんて……」

 「まあまあまあ。結生子ちゃんはもう卒論は終わったでしょ? 書いたことあるんでしょ?」

 またオバサンみたいな、あるいは、ねた少女みたいな……。

 「それは、書きましたけど」

 書いた。

 それで、審査のときに、この千菜美先生にめちゃくちゃにいじめられた。ほかの学生は、指導している先生以外の先生にむちゃなつっこみを入れられて自分の先生に守ってもらうという話だったのに、結生子は自分の先生にしつこくしつこく問い詰められた。審査に入っていた発達心理学の先生が

大藤おおふじ先生。時間をもう二十分もオーバーしてますから、このへんで」

と言ってくれなければ、問題点・疑問点の指摘はあと二時間は続いただろう。

 実際、卒業が決まってから三時間ぐらいその続きをやられたのだけれど。

 「それだったら、自分に自信を持って、杏樹ちゃんと仁子ちゃんの、直せばいいじゃないの」

 だから、そんなのでどうやって自信を持てと……?

 しかも、いま学部四年生の森戸もりと杏樹の研究テーマは明治の元老院げんろういんとか、いずみ仁子は北関東の古墳文化とかのはずで、ぜんぜんわからないんですけど!

 だいたい、日本に「元老院」なんていう議会だか合議ごうぎ機関だかがあったことなんか、杏樹ちゃんの研究計画発表をきくまで知らなかった。北関東の古墳だって、それは北関東にだって古墳ぐらいあるよね、という程度のことしかわからない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る