第22話 三善結生子(大学院学生)[1]

 ほんとうに思うとおりにはならない……。

 このレポートは昨日の夜じゅうに書き上げて持って来るつもりだった。

 ところが、昨日の夜は、隣の部屋のぼうやがかんだかい声できゃあきゃあ話してよく笑う女の子を連れて帰ったらしく、その二人が夜の早いうちから明けがたまでお楽しみを繰り返した。

 建物は新しいけれど家賃が安いだけあって隣の部屋の音は筒抜けだ。とてもレポートを書くどころではなかった。

 まあ、いいけどね……。

 五年前の自分を考えると、そういうのを非難できる立場じゃないから。

 もうちょっといい家に引っ越すかなぁ?

 おカネはあるんだから……。

 そんなことで寝不足なのだが、中世荘園しょうえんの史料集を読むのは終わりにできそうだ。レポートに書く内容もだいたい考えた。

 それで、三善結生子は、本や抜き刷りや史料やフォルダーを並べた向こうでサンドイッチを食べている先生のほうに顔を上げた。

 サンドイッチといっても、コンビニで買ってきたサンドイッチではない。駅前の通称「満梨まりさんの店」の、それより百円ぐらい高いサンドイッチでもない。食パンの表面を軽く焦がし、でもパンの柔らかさや粘りはそのままの、そしてもちろんはさんである具材ぐざいまで気配りの行き届いた自家製だ。

 作ったのは、明珠めいしゅ女学館じょがっかん大学児童福祉学部日本史研究室の大藤おおふじ千菜美ちなみ教授――つまり、いま食べている本人だ。

 結生子ゆきこもさっき同じものを一パックもらって食べた。

 寝るひまもないほどの仕事を抱えて、しかもおしゃれにも気を配って、なんでそんな手の込んだ料理を作っている時間があるのだろう……?

 いまこの先生はこの研究室でただ一人の教員だ。

 だから「日本史」と名のつくものはなんでもカバーしないといけない。

 しかも、この先生はいろんなところに知り合いがいるらしく、そこから持ち込まれた相談事はぜんぶ引き受けてしまう。遠くの県とかはともかく、近くの県から相談が来ると、できるかぎり「お呼びとあらば即参上!」を実践じっせん中だ。まったく、どこのヒーローなんだ?

 しかも、そうやって転がりこんできたものを自分で納得するまで自分で調べる。それで、最近ではもう何が専門なのかよくわからない。

 ほんとうの研究分野は中世荘園で、ゼミでも中世荘園の文書を地道じみちに読んでいる。でも、先週は古墳時代の横穴おうけつ古墳の調査に行っていたし、その前は昭和の戦争のころの高射こうしゃほうの跡を調べに行っていた。

 もっとも、この先生が中世荘園の研究だけしていたならば、自分はこの先生と知り合うこともなかった。いまもあの悪夢のような日々から脱出できないでいたのかも知れない。

 あれって、悪夢だったのかな、と、ぼんやり考える。

 日本史をやっているので、昔の人はああいう生きかたを「苦界くがいに沈む」とか「苦海くがいに沈む」とか言った、という余計よけいな知恵がついている。

 でも、それなりに楽しんだけどな。

 それに貴重な経験だった。

 あの村の友だちのだれ一人経験していない生きかただ。

 いままで自分を教えたどの先生も、二度と会いたくないあの親も、経験していない。

 電話が鳴った。

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