(56) 裂け目-10
真っ黒に塗り潰された、闇の中に沈んでいる。
初めて意識が戻った時、何が何だか分からなかった。
見えるものは何もない。覆い尽くされた闇の中で、全てが無になった様にすら感じる。まるで意識だけが存在している様な感覚の中で、混濁した意識に私は抗い続けていた。
「安心したまえ。君の心臓は、まだ動き続けているよ」
囁く様なその声は、柔らかで優しく、どこか包容力すら感じる温かみを持っている。私は周囲を見渡して捜してみたが、それらしい人物は見当たらない。声は確かに聞こえたが、声の主は居なかった。
「────テ・オ・ショコラ様、いかがなさいますか」
儚げで、何処か幼気さの残る少女の声が響き渡る。
そして声の流れが響く闇の底に身を浸し、何か得体の知れないものがすぐ傍までやってきた。更に目を凝らして見ていくと、妖艶な色気を持つ魔女と、繊細な容姿を持つ魔女が闇の中から浮かび上がる。闇の中から来た魔女達の目は鋭く、じっと私を見詰めていた。
「見たところ何ものでもあるまい、そう悪意を向けるものでもないだろう」
そう言葉を放つ妖艶な魔女、テ・オ・ショコラは、黒い薄手のスプリットヘムローブに身を包む。柔らかい生地には神秘的な刺繍が施され、前立てには穴が開いた金属製の輪が並ぶ。裾にはサイドスリットが加えられ、見えないようでいて視線を引く足元には手抜きの無いショートブーツがちらりと覗いた。顔はフードで覆われていて良く見えなかったが、透明感のある長いアッシュゴールドの髪が華やかでとても印象的だった。
一方の魔女は透き通る青い瞳の中に、簡単に人を寄せ付けない、毅然とした雰囲気が漂っている。しなやかで雪のように真っ白い髪は左右両側で束ねられ、頭頂部でそれぞれ丸く纏め上げられる。髪の結び目には細めのリボンが巻き付けられており、可愛らしさは残るも絶妙な加減が心を付く。淡い青を基調とするリトルドレスは宮廷の王妃を思わせる様で、豪華爛漫で印象的な配色だった。
私はゆっくりと引き摺り込まれていく様な錯覚を覚えながら、闇の中に問い掛ける。
「"裂け目"の深層には、畏怖や恐怖が居座ると聞いています。────貴女達がそうとは思えませんが、此処は深淵では無いのでしょうか」
「その解釈が正解かは分からないが、察しの通り、此処は"裂け目"の表層に過ぎないよ。迷い込んでしまったのだろうが、早々に立ち去る事を推奨しよう。────カシュカシュもそれで構わないだろう?」
魔女、テ・オ・ショコラは問い掛けに応じた後、後ろに控える魔女、カシュカシュに視線を投げ掛ける。
「恐らくはお母さまの神秘に当てられたのでしょうが、貴女が招かれざるものである事に変わりありません。────それに、余り家を踏み荒らされてしまっては、気分の良いものではないでしょう」
カシュカシュは思い遣りすら感じられない氷の様な瞳で、視線をぶつけ続けている。
疑問は多く尽きなかったが、今問題にすべきはそれらの動向ではないだろう。彼女達と一切の関りを持たない私が何か言える状況でもなく、続く言葉を頭の中で考え進めた時だった。
────ぞわりと背筋が粟立つ恐怖、吐き気を催す程の嫌悪感と、深い悲しみと激しい憤り。言葉にならない感情の揺さ振りに、重苦しい気持ちが辛く、そして胸に圧し掛かる。
私は涙している事に自分でも気付かないまま、ただ茫然とその場に立ち尽くしていた。
得体の知れないその何かは、心の奥深くに潜り込み、残って離れていかなかった。
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