第9話

 リリこと高梨璃々花リリカは両親を憎み、自らを育てた母体でもある宗教団体を、そして宗教という存在そのものも憎んでいた。理由は単純で、彼女の両親が教祖となり運営している宗教法人には真の意味で人を救う力がないと理解してしまったから。何よりも大切な病気の弟を助けることができなかったため。その時から、自分の呼び名を璃々花からリリに変えたのだ。両親の知らない彼女の決意の表れとして。


 幼い時には、多くの信者から慕われる両親を遠目に尊敬していた。だが弟の件をきっかけに自分で考え、実は全てがまやかしだと看過してしまったとき、それまでの思慕は深さに応じて時間を経ると共に憎悪に転換した。

 ただ、その気持ちを公言するほどにはリリは社交的ではなく、気持ちを知られるほど無自覚でもなかった。むしろ、幼いながらも自分を取り囲む状況を十分に理解できてしまうほどに聡明であったため、自らの仄暗い感情を覆い隠すことが容易にできてしまった。一方で、こうした優秀過ぎる頭脳は宗教団体内でもすぐに知れ渡り、リリの思いとは裏腹に次の信仰対象として密かな人気すら集めてしまっていたのだが。


 だからこそ、彼女は自分の進路として医学部を目指した。まやかしでない力を求めて。その背景にあるのは、救えなかった弟を救うための力を得るため。それが代償行為かもしれないことは彼女自身十分理解していた。ただ、それでもよかったのだ。実際彼女の人並外れた頭脳なら、ストレートでこの国最高峰の大学医学部ですら入学が可能だっただろう。だが残念ながらそれは実現しなかった。理由は単純。リリの持つ力が小さかったから。

 リリを宗教団体の次代のカリスマとして擁立することを企図する信者たちは、リリがこの両親の出生地であり宗教団体の聖地であるこの場所に留まることを欲した。離れた地の大学に進学し、宗教から離れて研究に集中することを望まなかったのである。最終的には、宗教団体を支援する一部の有力信者が地方大学を強く推し、跡を継がせたい両親も同様に上京を認めなかった。実際、当時のリリ自身も大学名に特に拘りがあったわけではなかったこともあり、勧められるままにこの地にあるK大医学部に進学した。単純に、自分が自らの目指す目標に最短で進める場所を選ぼうとした結果。そして、医学部という道を選択する上では両親からの経済的な援助は必須だったことが止めとなった。親から離れて一人で暮らすことは、リリの性格では困難を過ぎて不可能であった。どんなに頭脳明晰であっても、社交性の低い彼女に取って選択の余地はなかったのだ。


 だが、少なくとも少しの望みを抱いて進んだ地元大学の医学部ではあるが、進学して初めてわかることがある。地方大学には有力大学とは異なるだけの理由もあったことに。再生医療を志したが主流の研究は有力大学に握られており、資金面や設備面で地方大学では協力者であることが精々だと気付いてしまった。もちろん、それでも多少はできることはあるだろう。あるいは、道を変えれば新たなチャレンジも掴めるかもしれない。だが、両新も支援者も彼女が研究に邁進することは望んでいない。東京には行けるかもしれないが、その時には宗教者としての道しかなかった。結果として、自分の望む道のりの遠さに絶望してしまい、妥協として地方都市で医者と宗教者の両立を選択せざるを得なかった。それが、自分の願望の残り火であることを自覚していたとしても。


 ところがである。未来を見失いかけていたある時、突然彼がリリの目の前に現れたのだ。その時の衝撃は今でも鮮明に思い出せる。彼の登場により、諦めさせかけていた閉塞感は一気に打破されてしまった。まさかの、全ての万能薬にもなる素体。偶然とはいえ、本来出たくもなかった病院の飲み会に強引に連れ出されたことが、一転リリの人生を根底から覆すような素晴らしい出会いにつながったのだ。医学の道を目指すために仮面をかぶったまま宗教家の一面も持つリリだが、当然のごとく神の存在など信じていない。そんな彼女ではあったが、この時ばかりは神様に感謝を捧げたくなった。

 そんな中で、多少なりともシンパシーを感じていた看護師のサキが面白いプロジェクトを持ちかけてきた。リリは聡明ではあったが、行動力にはやや欠けているとを自覚している。だからこそ、サキという存在は自分に不足する部分を補完してくれる最適の存在であると理解していた。本当の意味で友達と言えるかどうかはわからない。だが、少なくともこの時点では仲間であった。


 ただ彼の血液という貴重な万能薬、サキはそれを「ポーション」と呼んでいるが、それは素晴らしい性能を誇っていたが、同時に予想以上に難解でかつ厄介な存在だった。何しろ、成分どころか重量すらも測定できない。分離も結合もしない。ただ、時間経過と共に突如普通の血液に戻り二度と復活しない。こんな奇妙で不自然な存在は論理をもって理解することが出来ない。それこそ神がかり的かつ神秘的な存在である。リリは自分のことを論理的でかつ理知的であると自認してきたが、それだけに自分の常識を根底から破壊されてしまうほどのショックを受けていた。

 それでもすぐに自分の目的を思い出し、分析よりも活用、過程よりも結果の方がずっと重要であると本質的に理解した。実際、サキから紹介されたものではあるが多くの患者が諦めていた症状から立ち直っていく姿は、医療者としての自分にとって誇らしいものでもあった。誇りと悩み。この一年間、その二つがリリの中でせめぎ合ってきたのである。


 宗教施設内に作った自分のための研究室内で、上手く行かない実験のことをしばらく忘れ、過去に浸っていた丁度その時である。


「巫女様、急いでお逃げ下さい!! 建物内に賊が押し入ってきました。早くこちらに!!」


 いつも側仕えをしてくれている信者数名の切羽詰まった声が部屋の外から聞こえてきた。鍵をかけた研究室の扉を回そうとしている。彼らはリリというよりは【光の巫女】の忠実な部下ではあるが、もちろん一般人に過ぎない。強引な拉致者に対抗できる力も機転もない。ただ、こうしたことが起こる可能性は、既にずいぶん前からサキに口うるさく言われてきた。だから、リリも取るべき手段はわかっていた。


 実は、リリの宗教施設内にある研究室には秘密の抜け道が用意されている。これは両親が今の施設を造ったときに設けられたもの。元々は両親のための休養室となるはずだった部屋を、リリが東大進学を諦めるのと引き替えに自分の研究室とした場所。なぜこんな抜け道があるのかは知らないが、その存在を父親から教えられた場所。すなわち、信者たちでもその存在は知らない通路である。部屋内には隠し扉があり、誰も知らない通路が廊下と部屋の間に設けられている。抜け出る先は、地下を通って建物の外に出ていくものである。建物内でリリを探しているとすれば、捕まらない可能性も高いだろう。


 リリは、素早い動きで必要な道具をまとめてカバンに入れると、そっと誰も知らないはずの秘密の通路に飛び込んだ。時間をかければ、この秘密の通路も気づかれてしまうだろう。だから、施設内で自分を探している間に逃げてしまいたい。地下の薄暗い通路を小走りに駆けながら急いだ。



「高梨璃々花リリカさんですよね。お待ちしておりました。さあ、私たちと一緒に来ていただきましょうか」


 だが、秘密だったはずの通路を抜けた先には、リリも知っている大御所議員、森迫の秘書である柏木が数名の部下を従えて待ち構えていた。宗教施設の建物から少し離れた敷地内の倉庫につながっていた出口を出たところで、その存在に気づき踵を返そうとしたが部下の一人にあっさりと捕まってしまう。残念ながら、リリは運動神経には全く自信がないのだ。


「……あなたは」

「はい、以前にもご挨拶をさせていただきましたが森迫議員の秘書をしております柏木と申します」


 柏木は丁寧にお辞儀をする。その所作は洗練されており、自信に揺らぎはない。ただ、その眼光は鋭い。


「……一体、私に何の用?」

「そうですね。そろそろあなたたちの秘密を教えていただこうということになったのですよ。おや? その顔は、私がこの場所を何故知っているのかということでしょうか? 実はね、私どもはこの建物の設計図まで入手していましてね。さすがに建設会社の倉庫に密かに残っていた図面の証拠隠滅まではされなかったようですね」

「……」

「あなたが会話を苦手としていることは承知しています。そうそう。大人しくしていただければ、もちろん手荒には扱いません。ただ、あなたが私たちの質問にきちんと答えていただけるのであれば、ですがね」

「……奇跡に、どんな説明が必要?」

「私どもも奇跡とやらには大変興味がありますが、それ以上に奇跡の仕掛けに興味を持っていましてね。奇跡を奇跡たり得らせるのは希少性だとは思いますよ。でも、世界を広げれば希少性を担保したままで、もっと多くの活用が可能です。特に私どもならそれをもっと有効に活用できるのです。現状のあなたたちの方法ではあまりに非効率的過ぎる」


「……奇跡はこの場所だから可能」

「そうですね。そういう設定だとは知っていますが、奇跡がここ以外でも行われたことを私たちが知っていたとすれば、どう答えられますか?」

「……」

「実は、私どもは東京大学の伊野先生と結構深いつながりがありましてね。そう、気づいたとは思いますが、かつてあなたが所属されていた研究室ですよ。そこにあなたが一年と少し前、忍び込まれたことも防犯カメラの画像から確認済みです」

「……」

「人ではなくマウスですが、酷い癌化をさせたマウスが突然完治したという話を伊野先生から聞きつけましてね。伊野先生も興奮しすぎて、詳しい事情を聞き出すのに時間がかかってしまいましたが、それはいいでしょう。兎に角、あなたが奇跡の儀式を始めたのはその少し後から。森迫先生の件では大変お世話になり感謝もしているのですが、それとは少々話のレベルが異なりまして。この奇跡はあなたたちが扱うには重要過ぎるし危険すぎる」

「……」

「だからこそ、私たちはあなた方と一緒に奇跡を活用したいと考えていましてね」

「……それで私を捕まえる?」

「捕まえるとは心外ですね。お願いに来たんですよ。ただ、予想以上にあなたを取り巻く信者の方々が騒がれてしまったのは、私どもの不徳の致す限りで全くお恥ずかしいです」

「……心にもない」

「いえ。これは、誠心誠意、私どもの善意によるものですよ」


「……善人は、こんなことはしない」

「そうですね。確かに私たちは善人ではありません。ですが、あなたを活用しようという気持ちは紛れもなく善意からのものですよ。世界中のこの奇跡を求める人のためになる」

「……サキは?」

「彼女ですか。あなたと一緒に来ていただく予定ですよ。そんなに心配しないでください。あなたたちの安全は私たちが確保します」

「……サキに会わせて」

「いいでしょう。大人しく付いて来ていただけるのであれば、お会いしていただくのもやぶさかではありません」

「……あと、みんなには手出しをしないで」

「あなたが仰っているのは、この施設の信者の方々ですか? はい、これもあなたが大人しく従っていただけるのであれば、当然のことです」

「……わかった」



  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



 俺は、所轄の警察署から県警本部にすぐに移送された。だが、いきなり取り調べという訳でもなさそうで、一時的なのかどうかはわからないが留置場に一晩放置されている。元々でっち上げの罪状であり、どこかで俺の力を利用しようという動きが見えてくるということは予想している。持ち物は全て没収され携帯すらないが、俺にまで辿り着いたということはサキもリリも同様の状況に置かれているだろう。俺と同じように警察を使ったのか、あるいは別の方法かはわからないが、どこかの権力者が俺たちの力に気づき、取り込もうとしているのは間違いないだろう。連絡を取りたいが、簡単ではないかもしれない。

 どちらにしても、ここからは奇跡と呼ばれた儀式の秘密を暴こうという流れになるはずである。心の準備はしている。しかし、正直なところ俺にまで辿り着いたというのはかなり驚いていた。サキが窓口、リリが儀式担当であり、この二人が狙われるのはわからなくはない。仮に俺とサキとのつながりを辿られたとしても、奇跡の秘密に容易にはたどり着けはしないだろうと予想していた。


 だが、俺を逮捕した刑事だと思うが、彼は俺の回復能力を間違いなく確かめに来ていた。俺の腕に爪を立て、その傷が即座に治癒するのを間違いなく見ただろう。だが、他の警官たちはそれを知っているようには感じなかった。つまり、あの刑事一人が直接何らかの命令を受けて動いているということ。

 逆に言えば、警察における一人か複数かはわからないが誰かのために動かされている、手先になっていると考えたほうがいいだろう。一方で、この話を広げたくないだろうから、動いている人の数はそれほど多くないはずである。俺の力を手に入れようと考えるのであれば、秘密裏に運びたいであろうことも容易に予想できる。だとすれば、長らく警察署に留めるよりは何らかの方法で別の場所に移されるであろう。だが、それならばなぜ警察という手段を用いたのかがわからない。


 ただ、俺にとっては少々の拘束は苦にはなるほどではなかった。あの日、変な光、いや一般的な常識では説明できない何かが俺の体をすり抜けたときから、俺は体調を崩すということがなくなった。それは即ち、俺の血液が俺の体を常に最適な状態に保ち続けているということ。更には、サキのアドバイスに従い俺が独自に行った実験結果がある。あくまでペットショップで買ってきた小さな動物実験ではあるが、切断した足ですら回復できるということを知った。さすがに頭を失うと回復しなかったが、即死以外ならなんとかできるのではないかと思っている。もちろん、傷のレベルに応じて必要な血液の量が変わるので絶対ということは言えないが、驚異的な回復力を持っていることは大きなアドバンテージである。

 本来なら、こんなところに拘置される前に逃亡すべきであったかもしれない。だが、日常を守りたいという気持ちがあったこと、更には警察に捕まることを全く想定していなかったために、会社に来られた時には対応できなかった。だが、ここまで来てしまえば腹はくくった。なら、拘束されたことで悲観する必要はない。逃げ出すチャンスを常に探り続けるだけである。

 県警本部の留置場に一人放り込まれていた俺の前に、あの刑事がやってきた。確か薮内という名前だったはずである。


「梶田さん、私はあんたを決して逃がしはしない。きちんと裁きを受けさせる」


「いきなり何を言っているんですか。無実の人間を冤罪でこんなところに押し込めておいて」


「私にはどうしても許せないものがある。それが、あんたらのように口先で他人の人生を滅茶苦茶にするやつだ。特に、病気で弱った人間を狙うという最低なやつのことを私は許せない」

「病気?」

「まあ、今は知らないふりをしていておいて結構ですよ。でも、これからじっくりと問い詰めていきますから」


 そういうと、梶田は満足したかのように立ち去って行った。何か変だ。あの刑事は俺のことを単純に奇跡の対象として捕まえたわけではないのだろうか。俺の肌に爪を立てた行為は、それを確かめるためではなかったのか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

そのポーション、危険につき 桂慈朗 @kei_jirou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ