第2話

 目が覚めると、そこは知らない天井と、窓が見えた。


 もちろん異世界転生などしていないし、死んでもいないと思う。部屋の感じから、少なくとも中世の欧州ではないことは確実だ。俺の持つ常識と目に入る情報から判断すれば、どこかの病室の様だ。おそらくは現代社会の比較的規模の大きな病院だろう。当然である。

 俺が寝ているのは何人部屋かわからないが窓側のベッド。窓から見える山には新芽が広がっている。鮮やかな緑がまぶしいほどだ。室内はよく空調が聞いているのか少し暖かい。病院なら、入院患者が薄着の病院着だから当然のことかもしれないが。


「あっ、梶田さん。目を覚まされました?」


 若い女性の声が聞こえる。看護師なんだろうが、意識がまだはっきりしない。昨日狭い路地に強引に入り込んだためか、首が右に向いたまま固まっている。特に痛みはないが、そのままの体勢で寝ていたみたいである。少しして、ようやく意識がはっきりとしてきた。気を失う前の気持ち悪さは噓のように消えている。

 だが、なぜ俺がここにいるのかを含め、様々な情報は知っておきたい。名前が知られているということは、おそらくではあるがポケットに入っていた名刺かあるいは社員証を見られたということだろう。ひょっとすると、既に会社にも連絡が行っているかもしれない。だが、まずはどれだけ経過したのかから聞いておこう。本人確認などが簡単に行われたあと、担当の看護師に早速聞いてみた。


「すいません、今何時ですか?」


 看護師さんが言うには、既に土曜日の昼らしい。昨晩の件から半日以上が経過しているようだ。ここは繁華街から少し離れた俺も知っている市民病院。どうやら、あのあと騒ぎで多くの人が集まったらしく、現場に残された俺を警察が救急車を呼びこの病院に運んだらしい。チンピラの話が出ないということは、人が集まってきたために逃げて行ったということだろう。

 変に固定されている首を元の位置に戻しながら、ベッドの上で体を起こす。


「寝たままでも大丈夫ですよ」

「いや、特に大丈夫そうなので」

「気分はいかがですか?」

「ちょっと、変な感じに首が固まっているみたいです」

「ふふ、そうみたいですね」


 俺の視界に入ってきた看護師さんは、にこやかに笑っている。昨晩の俺のことをどの程度知っているのかわからないが、何だかとても楽しそうだ。何か個人的に良いことでもあったのだろうか。あるいはそういう性格か。小柄でショートカットの髪型、ぱっと見た感じは年齢も俺と同じかやや若いくらい。名札には「飯田」と書かれている。

 良く見ると、手のあちこちにガーゼが貼り付けられている。傷でもあったのだろうか。確かに、狭いところを強引に進んだのだから、傷だらけであってもおかしくはない。ただ、傷の方も痛みはないようだ。


「それ以外で気分悪いところとかありますか?」

「う~ん、今は特にないかな。でも、直ぐにはわからないですね」

「見た感じ、軽い擦り傷と頸椎捻挫のような症状のようだけど、あとで先生が来たら診察していただきましょう」

「はい」

「それと、あと1~2時間ほどで警察の方がここに事情聴取に来られるそうですので、そのつもりでいてください」

「はぁ」

「もっと元気出してくださいね。今日はいい天気ですよ」


 それにしても好意的な態度の看護師さんだ。どちらかと言えば、テンションも高めである。傷口を覆うガーゼを避けながら、手早く体温や脈拍を測っていく。

 何にしろ、自分を取り巻く状況がある程度確認できたのはよかった。昨晩の騒動については残念ながら夢ではなかったようだ。もっともこの首の固まり状況や傷がある事こそが昨晩の事件の最大の証拠なので、否定しても仕方がない。一方で警察が入ってくれたことには正直ほっとした。チンピラも警察がいれば今後もそれほど無茶はできないだろう。


 看護師が去った後、ほどなく二人連れの警官がやってきて、俺はベッドに座ったままで世間話をするようにいくつかの質問に答えていくことになった。

 昨晩のチンピラたちはどうやら最近勢力を広めているグループで、俺の件以外にもいくつかのトラブルを繰り返していたようだ。メンバーと思しき写真を何枚か見せられたが、分かったのは口論になった時に顔を見た2人だけで、それ以外はわからなかった。リーダーは十河という名前らしい。居酒屋で高圧的に絡んできた奴だと思う。そしておそらくだが、最後に俺を追い詰めた奴でもあるんだろう。昨晩のトラブルの状況についても聞かれ、居酒屋で絡まれていた客を助けようとしたことなど、正直に答えていく。


 当日の記憶を思い起こすと、最初は二人組だと思ったのだ。まさか、あんなにチンピラグループが多いとは思っていなかった。一人か二人なら何とかなると思い仲裁しようとしたが、甘い考えを持った俺の判断ミスでもある。喧嘩慣れしているわけでもないし、なるべくこうしたことには関わらないようにしていたんだけど。どうやら昨晩の酒は、予想以上に俺の心を大きくしていたみたいである。


 警官の話では、俺の奪われた携帯はまだ見つかっていないらしい。一方、店に置いてきたかばんは幸いにもそのまま残っており、一緒に飲んでいた会社の同僚が預かってくれているようだ。月曜日に会社に持ってきてくれるそうである。奪われなかったみたいでほっとしている。ただ、同僚たちもこの病院を探して持ってきてくれるほどの付き合いではないという事実もよく分かった。まだ、転勤後日が浅いのもあるだろう。


 こちらの気分をほぐすための雑談だったのだろうか。しばらくすると、年上の新田という警官がややかしこまった感じで話しかけてきた。


「それにしても大変でしたね、梶田さん。結局、彼らに直接暴行されたという訳ではないのですね」

「ええ、絡まれた女性を庇ったところ店から引きずり出されたので、証拠に携帯で写真を取ろうとしたら奪われまして。これはまずいと逃げたところ集団に追いかけられた感じです。ただ、隠れようとビルの隙間に入ったら首の筋をちょっとね。特に痛みはないんですが」


 俺はやや右向きに曲がったまま固定されている頭を指さしながら、軽口で答える。


「ははは、でも大きな怪我がなくて良かったです。携帯は不正使用の可能性もあるので、なるべく早く携帯会社に連絡してください」

「わかっています。ただ、会社の同僚に連絡しようと思うのですが、ちょっと今は連絡先が分からなくて」

「今は、携帯がないと何もできないですな。我々も似たようなものですが。ところで最近、駅前の繁華街では半ぐれたちがかなり幅を利かせていましてね。明確な組織性がないため、我々としても困っているんです。新たなトラブルにつながるかもしれないので、くれぐれも気を付け下さい」

「はい、当分飲みに行くのは止めておきます」

「ははは、それがいいですね。では、繰り返しの内容もあるかもしれませんが、もう少し詳しく昨日の状況を教えて下いただけませんか」


 結局、その後再度チンピラたちの人数や行動などを詳細に聞かれたが、事情聴取とはそういうものなのだろう。そして俺の事件後の行動にまで話が及んだ。場所の特定化、地図を開いて状況を詳しく追いかけている。


「ところで、梶田さんが逃げ込んだという建物はどのあたりでしたか?」

「この辺りだと思うのですが、正確には覚えていなくて。あ、建物に逃げ込んだのではなくて、建物の建物の隙間なんですが」

「昨日の報告では、警察が通報を受けて到着した時には梶田さんはこの通りに倒れていたそうです」

「じゃあ、誰かが助けてくれたのかもしれないですね。私は建物の隙間で気を失ったので」

「気を失ったのは暴行を受けたとかではなく?」

「はい、急に強い光を受けて気分が悪くなって。その後のことは覚えていないんです」

「強い光ですか? 車のヘッドライトかな?」


 ヘッドライトなどではないと言おうとしたが、考えたらそれを主張しても意味がないと思いとどまる。あの奇妙な感覚は説明しようにもできない。そもそも、あの感覚が現実であったのかどうかも今となっては疑わしい。チンピラに追い詰められてパニックを起こしていたと考える方が腑に落ちる。却って、薬物などを疑われても困ってしまう。ただでさえ、トラブルに巻き込まれているのだから。


 その後もいくつか質問はあったが、また何か聞くかもしれないと言い名刺を残し警官たちは帰っていった。その後、老齢の医師の簡単な問診を受けたが、首の違和感もかなり解消しており特段の問題は見つからなかった。昨晩の気持ちの悪さも全くない状態である。昨晩のあれはいったい何だったのだろうか。結局、特に持病があった訳でもないが、念のためもう一日入院してから退院ということが決まった。

 なるべく早く職場に連絡したかったが、今日は土曜日なので誰もいない。そもそも手元に携帯はないし、職場の先輩や後輩の連絡先もわからないので連絡の取りようもない。ただ、この入院は医療保険が利くのかなどを悩んで過ごしていた。



 夕方になり、元気な看護師の飯田さんが改まった感じで再度やってくる。もう一人私服の女性を後ろに連れているようだ。飯田さんよりは背の高い黒髪ポニーテールの若い女性。交代要員かもしれない。


「梶田さん。昨日は私の友人を助けてくれてありがとうございます。さあ、リリさんもきちんとお礼を言って」

「……あ、あのぅ、……ありがとうございました」

「お礼って何の?」


 リリさんは人見知りなようで、お礼の言葉以外は飯田さんが一人で話している。


「昨日の夜に、お店で絡まれていたこの人を助けてくれたの、梶田さんでしょ?」

「ごめん、居酒屋のトラブルは覚えているけど、絡まれていたのが誰かまでは覚えてなくて。そうか、あのときの」

「わからなくて当然よね、昨日は大逃走劇で大変だったみたいだし。この人、高梨リリって言うんだけど、昨日の夜に彼女から相談受けてたの。だから最初からぴんと来てたんだけど、確信が持てたのはさっき警察の人が来てから。それで、お礼言うのが遅くなっちゃった。でも、この病院に運ばれていたなんてラッキーだったわ」

「気にしなくてもいいって。最終的には大した被害なかったし。それより、昨日は特に何もされなかった? リリさんでいいかな? それとも高梨さんの方がいい?」


 せっかくだからとリリさんに聞いてみるが、あまりコミュ力は高くないらしい。モジモジして返事がでてこない。飯田さんの方が身長は低いけど、その後ろに隠れるように立っている。というか、飯田さんの方が随分態度はかなりでかい。そして、一人でしゃべっている。


「彼女のことはリリでいいわよ。昨日はチンピラに強くつかまれて手に擦り傷ができたみたいだけど、それ以外は特に大丈夫みたい」

「そうか、それは良かった。俺は、首が回らなくなったけどね」

「それって、逃げた時のでしょ」

「そう。隠れようと狭い路地に入ったら、そこで気を失って首がこんな感じに。まいったよ。ところで、二人は同僚?」

「ええ。ここでは同期なの。それで、この人がお礼をしたいって言うから来てみたんだけどね。この人、ちょっと人見知りで恥ずかしがり屋だから。……今日は特にだけど」

「いや、お礼はさっき言ってもらったし。何にしろ無事でよかったね」


 なんか、リリさんって飯田さんよりも身長も高いのに、小動物の様でかわいい感じがする。ただ、その人見知りレベルは相当に高そうだ。目も合わせてくれないし、全く喋ってくれない。結局、飯田さんから声がかかる。


「ちょっと、連絡先教えてもらっていい? 彼女がきちんとお礼したいって」

「ごめん、携帯なくしたから番号変わるかもだし、お礼はもうもらったから」

「携帯ないのなら、名刺頂戴!」


 飯田さんは、ベッドの横に無残に置かれている一擦り切れた感じになってしまった俺のズボンから、勝手に名刺入れを取り出し「これでいいの?」と奪い取った。一瞬の出来事に、俺は返事もできない。随分とアグレッシブな人だ。結局、リリさんが何も言わないうちに飯田さんが全てを仕切っていった。飯田さんが抜けた後にリリさんが夜勤で入るらしい。若い女性とのこうしたやり取りは、遠隔地にいる彼女のことを考えると少し心も痛むが、嫌なわけではない。もちろん、これが何かにつながるなんて思えないけど。


「はい、じゃあここからはお仕事の時間。ガーゼ交換をするわよ。手を出して。痛いかもしれないけど、男の子だから我慢してよね。はい、右手から」

「はいはい、お願いします」


 飯田さんにはかないそうにない。仕方なく、俺はガーゼの貼り付けられた右手を突き出す。手の甲と手首にガーゼがテープで留めつけられている。でも、最初から全く痛みはないのだが。


「じゃあ、取るわよ。痛くても我慢してね……、 あれ?」


 飯田さんが何か驚いている。その後ろでは高梨リリさんが不思議そうな顔で見ている。何か珍しいものを見つめるように。


「あれ? なんで? おかしいわね。傷が全然ないわ」

「う~ん、最初から大したことなかったんじゃないの?」

「えっ? 申し送りでは大きめの擦り傷があるって話だったんだけど」

「でも、ガーゼに血もついてないし」

「どう見ても、そうよね」


 そう言いながら、飯田さんは俺の右手をまじまじと見て、傷があったと思しき場所を触っている。


「おっかしいな? じゃあ、次は左手を出してみて」

「ほい」



「こっちも傷がないわ。見間違え? 連絡ミス? どういうこと?」

「まあ、どちらにしても怪我がない方がいいんじゃないの?」

「それはそうだけど…。じゃあ、なぜこんなに一杯ガーゼが貼られているのよ? あなた自分で貼った?」

「誰が? そもそも、俺が目を覚ましたの今日の昼なんだけど」

「そうよね。ってか、私が朝に受けた申し送りは一体何?」

「目が覚めた時から、特に痛みはなかったけどな」

「じゃあ、怪我はなかったってことなのかな?」

「俺にはわからないけど、今の状況を見る限りなかったと考えるしかないような」

「なんかモヤモヤする!」

「俺に当たるな」

「まあ、実際に傷跡もないんだから仕方がないか。無いよね?」


 そう言って、医療ごみとして汚れもないガーゼを袋に回収していった。

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