そのポーション、危険につき
桂慈朗
第1話
例えばあなたが日常に飽き、それを変えることに挑戦しようとしたとしよう。だがその挑戦は、あくまで一時的な新たな日常を生み出すことにしかつながらない。その先には形が多少は違えど、再び日常が続くのである。もちろん、挑戦した当初は多少の変化を感じることができる。その変化は素晴らしいものかもしれない。だが、それを繰り返し続けてようやく非日常的な世界に足を踏み入れる。果たして、その繰り返しは私たちを満足させるものなのか。あるいは、進んで手に入れるべきものなのだろうか。
多くの人は知らない。本当の意味で日常から脱するということは、楽しさや達成感とは全く違う尺度に状態をシフトする。一度ずれてしまえば元には戻れない。平穏からは程遠い、非常に危険な道のりだと知っておくべきだろう。だから、日常に飽きたとしても道を踏み外し過ぎない方がいい。無理をしてはいけない。無茶はいけない。私たちは、心地よい日常に安住したほうが良いのである。探すべきは非日常ではなく心地よい日常であることを肝に銘じておく必要がある。
そして、そのことを俺は理解していたつもりだった。ただ困ったことに、非日常は本人が願う願わないに関わらず突然襲い掛かってくることまでは想像の外にあった訳だが。
俺の運は、どちらかと言えば昔からよかった方だと自認している。少なくとも、これまでは何事もなく順調だった。宝くじが当たるなどの強運があったわけじゃないけど、いじめを受けることもなく、目標は過度な夢さえ抱かなければ計画を立てて概ね順調に達成できた。だからこそ、きちんとやれば少なくともそれなりに満足できる日常が続くと信じてきた。ただ、それは平和が戦争の狭間にしかあり得ないように、いつでも容易に踏み外せるということに気づいていなかっただけなのだろう。
それなりに優秀とされる大学を卒業した俺は、こちらも世間では一流と呼ばれる企業に就職して三年。ようやく仕事も覚え、現在は北陸の地方都市にある支社所属ではあるが、上司からも小さな案件を任されている程度にはなった。容姿は人並みで身長もそこそこだが、職場はブラック企業ではないしやりがいもある。今は遠距離とは言え、大学時代から付き合っているカワイイ彼女もいる。もちろん性格もいい。両親も地元には健在で、妹との仲もいい。もの凄い努力をしたわけではないが、逆に逃避や自堕落に陥ることもなかった。そう、他人から見れば何一つ文句のつけようのない生活に見えるだろう。
実際、自分でもそう思っていた。だが、ある日を境に突如として俺の日常は崩れ去ってしまった。一度崩れた日常は、どんなに繋ぎとめようとしても返っては来ないと知らされてしまったのだ。きっかけはほんの些細な事に過ぎなかったのに。
「ゼェゼェ…、いったい何なんだ」
花の金曜日にも関わらず人の気配もまばらな夜の街を、俺は息を切らせながら必死に逃げている。人口が30万人にも満たない地方都市では、繁華街といえど中心部を除き普段からそれほど人が多いわけではない。季節は春。だが、夜の街で少し離れると急速に人はいなくなっていく。俺のことを声を荒げながら追いかけてくるチンピラたちから全速力で逃げたため、過去の栄光もほの寂しい商店街の何か月も閉じたままであろうシャッターの前で、膝をつきながら必死に呼吸を整えている。今は、他に考えるべきことは山ほどあるはずなのに、なぜか働き始めてからまともな運動ができていなかったことを思い出した。
よくよく考えてみれば、駅の方に向かった方がまだ人がいたので安全だったかもしれない。だが、今となってはこちらに来てしまった以上仕方がない。やや距離はあるが俺を探す声と足音が聞こえる。追いかけていることを全く隠そうともしない濃い暴力の匂い。だが、ここまで逃げてきたのに今さら捕まるわけにはいかない。だからこそ急いでどこかに身を潜めなければならないが、見渡したところ近くに知り合いの店や家もない場所だ。
近づいてくる足音や声から判断すれば、追いかけてくるのは3~4人の若いチンピラたちだ。着実かつ計画的だったこれまでの俺の人生において、彼らは避けるべき存在であり、結果としてほとんど関わることのなかった人種でもある。それに追いかけれている現状は、俺にとっての非日常だ。
息が切れて、かなりつらい。そんな中、独り言をつぶやいて少しでも冷静になろうとする。
「表通りはまずい。どこか路地にでも隠れないと」
この逃亡劇。結果的には、売り言葉に買い言葉で口げんか程度にはなった。だが、社会においてはよくあるトラブルの一つともいえる。相手さえ良ければの話だが。あのチンピラたちがどの程度しつこいかによるが、上手く隠れるおおせれば時間と共に諦めるのではないかと思う。奴らもそこまで暇ではないだろうし、そこまで執着すべきことでもないはずだ。
少しだけ息をついた俺は、再び歩き始めて身をひそめるのに良さそうな路地を探す。かばんは店に置いてきたまま。カバンの中に名刺は入れてないが、それを奪われれば俺の身元がわかるものはあるかもしれない。それよりも、チンピラたちの顔写真を撮ろうと取り出した携帯は、撮影前にまんまと奪われた。
時間がたてば画面ロックがかかるため、それを容易に外せるとは思えないが、裏稼業でパスワードを破る専門のところがあるとも聞く。仮に調べられれば、いろいろな情報は知られてしまうだろう。そこまで至らないことを祈りたいが、こればかりはなんとも言えない。ただなんとなく、今回に限っては世の中はそれほど甘くないような気がしていた。
でも、今は逃げ切ることが何より重要。そう考えながら寒々しい街灯に照らされたシャッター街を見ていると、ふと右側に細い路地が目に入った。路地と言うよりは建物と建物の隙間と言うべきか。非常に中途半端な建物の隙間。道と言うには狭すぎるし、かなり暗い。深い闇である。隙間の幅も予想以上に狭く、身体を半身にしなければ入れない。逃げるには不向きな場所だが、目についてしまった。とても気になる。
相手からすれば、逆にこんな隙間に逃げ込むとは思わないのではないか。即座にそう考え、俺はその路地に半身になりながら滑り込む。体格的にはギリギリ入っていける。どうやらこの隙間は奥深い。この暗さなら表通りからは見えないだろうし、奥のほうまで行って隠れる場所を探すのが良さそうだ。何か壁が垂直になっていないような違和感があるが、そんなことは気にしていられない。変な場所ほど、そこに隠れていると思われないだろう。しかし、奴らの声と足音がかなり場所まで近づいてきた。早く奥に入らないと。急かされるように体を壁にこすりながら奥に進む。
身体の幅ギリギリの隙間を奥に向かってにじり進みながら、ふと靴が片方脱げているのに気が付いた。どうしてそれに気づかないのか。今頃気づいたのか。まあ、逃げるのに必死だったという話だが、一張羅の革靴の右を落としてしまったみたいだ。路地の入り口付近で落としていたとすれば不味いが、今更引き返せない。靴は片方脱げているし、スーツは既にドロドロだろう。狭い隙間なので、このスーツはもう使い物にならないかもしれない。全くひどい話である。なぜこんなことになっているのか。半身で顔を奥に向けているから通りの方を見ることはできないが、とにかく今は奥に向かって逃げるしかない。
「おい、靴が落ちてるぞ! 多分、奴のだ!」
すぐ近くで声が聞こえる。不味い。やはり見つかるところに靴を落としていたようである。すぐにでも奥に入らないと。顔にも擦り傷ができているのがわかる。だが、そんなことを気にしている場合ではない。
勢い良く近づく複数の足音が聞こえる。だが、かなり奥に進めた。隙間も入り口から5mは進んだだろう。半分以上入っている。目も暗さに多少慣れたように思う。よく見ると逃げ込んだ隙間の向こう側が少し明るい。抜け出られるかもしれない。隠れてやり過ごすことはできなくとも、別の方向に逃げ切れればそれでもい。
「この隙間の奥にいるぞ! ヤスは向こう側に回れ!」
「了解! あれ? でも、向こう側?」
「さっさと行け!」
「うっす!」
明確な意図を持った落ち着いた声が、ほんの数メーター後ろから聞こえた。見つかってしまった。回り込まれて挟まれれば終わり。少しでも早くこの隙間を抜けなければならない。異様に暗く狭いため、自分の周りの状況は良く見えないが、とりあえず先に見える明るい場所を目指して進むしかない。追いつめられる前にこの隙間を抜け出たい。
「兄ちゃん、もう追いかけっこはおしまいだ。諦めな! 奥からの光で照らされてあんたの姿は丸見えだ」
ドスの効いた声。顔は見えないが、不敵に笑っているように聞こえた。もう、俺のことを捕まえた気でいるようだ。だが、こんなところで捕まりたくない。そもそも何故俺がこんな目に合わないといけないんだ!
今すぐにでも向こう側に抜けないと! 俺は前に進むことを、目の前にある光の中に飛び込むことを強く願い、壁に服をこすりつけながらも強引に進もうとした。
その瞬間、目の前に見えていたほのかな明かりが突然強く輝き、大きく広がる。光に飲み込まれて、何も見えないほどの輝き。先回りされてライトで照らされた? それにしては光が強すぎる。いや、何か違う。そもそもこれは単なる光なのか?
疑問を感じる暇もなく、顔と身体に圧力がかかり視界がぶれる。光に質量があるはずもなく、すなわちこれが単純な光の訳はない。感触から多分風でもない。そもそも体の平衡感覚すらがおかしい。俺は今立っているはずなのに、何も見えない、どこにいるのかもわからない。そもそも、上下の感覚すら不明。立っているのか寝ているのか、どこが上でどこが下のなのかが把握できない。これは、目が回っているのか?
ただ、明らかに抵抗のある何かが俺の全身に触れていることだけはわかる。いや、これは接触と言えるのか。接触ではなく、俺の中に何かが浸透してきている。服を着ている筈なのに、そんなことお構いなしに何かが俺の中に染み込んでくる。ちょっと待て、人の体に何が侵入できるというのだ。水でも皮膚から体中に入ってこない。おかし過ぎる。酔っているのか? 俺はそこまで酔っぱらっていないはず。思考すらがおかしい。俺は何を考えているのだ。
それでも体は生理的に反応する。気分が悪い、気持ち悪い。これまで経験したことのない気持ち悪さ。吐き気でもない、車酔いでもない。今も周囲を光に囲まれている、間違いなくただの光ではない何か。本当に気持ち悪い。だが、浸透しようとする何かは俺の体に留まることこなくすり抜けていくようだ。入る感触だけではなく、出ていく感触もある。接触というよりは交錯。ぶつかることはなく、ただ何かが俺の中を通り抜けていく。あまりの気持ち悪さに屈みたいのだが、隙間でほとんど身動きできない。気持ち悪さが限界に達し、どんどんんと力が抜けていく。
(チンピラに追われ、変な光につかまり。人助けなんてするんじゃなかった…)
「うわぁぁ!!!」
後ろのほうで大きな声が聞こえた気がした。だが、そのまま俺の意識は深い闇の中に落ちてしまった。深い虚無。俺の意識は閉じたのである。
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