第3話
二人が疑問符を残しながら部屋から出て行ったあと、結局4人部屋だと分かった病室で味の薄い病院の晩御飯を終えた。俺のほかには大人しそうな爺さんが二人ほど入院していて、ベッドが一つ余っている。静かな部屋。体の調子は以前よりも良いくらいで、全く問題はなさそうである。むしろかなり調子よくないか?
別の看護師さんに無理を言って、携帯会社への連絡をして使用停止の手続きを取った。その後、病院の売店で簡単なシャツや靴を買う。明日退院するにしても、その準備が必要だ。幸い財布はズボンに入っていたので問題ない。トイレにも問題なくひとりで行ける。
さっき見た通り怪我は全くなかったが、昨晩のことを思い出すと擦り傷ができていない方が違和感がある。相当こすっていたと思う。今は病院着に着替えているが、ベッドの横に置かれているスーツもかなり傷だらけなのだから。必死に記憶をたどれば、気を失う直前までの奇妙な体験は十分に思い出せる。夢ではないはずだ。理性は夢ではないと主張してるが、現在の平穏さが、チンピラに追いかけられたことも含めて夢だったように感じさせようとする。考え始めると、自分の記憶の中でどこまでが本当のことでどこからが想像上の記憶なのかわからない感じ。そう考えるとやはり少し気持ち悪い。昨晩の気持ち悪さとは違い思考が整理できないという意味での気持ち悪さであった。
夕食後少しして、リリさんが検温だろうか俺のいる病室に一人でやってきた。相変わらずどこかおどおどとした感じだが、今回は飯田さんが一緒にいないからか、隠れる場所はなさそうだ。だが、よく見るとリリさんの姿は制服に関して詳しくはない俺からしても看護師には見えないものだった。そう言えば先ほどは私服だったと思い出す。看護師ではなく、むしろ医師ということになるのだが。そして、表情にはどこか深刻そうな雰囲気が垣間見える。
「検温ですか?」
「……うんん」
そういって、それのベッドの縁に来るとおもむろに採血器具を持ち出す。献血の経験もあるから、その道具が何かはわかるが、何か気になる点があるのだろうか?
「採血ですか? ひょっとして何かおかしな点があるんでしょうか?」
「……少し血を取ってもいい?」
とても小さな声で聞いてくる。
「リリさんは看護師ではなく医師なんですか?」
「……まだ、卵」
研修医なのかもしれない。多分、俺よりも年上なんだろうと思う。
「じゃあ、俺の症状で何か気になったってこと、ですか?」
「……カルテにあった」
「カルテ?」
何のことか意味がわからず聞き返したが、夕方のことと気づく。自分自身でも、昨日のこともあって少し気持ちがモヤモヤしている。傷があったということではないか。ただ、ここで採血するとしても診療ではない。つまり、正式な医療行為とはならないはずである。
「それって、夕方に見た俺の手の怪我のこと、ですか?」
「……うん」
「カルテに書いてあったということは、実は昨日の夜にはあったはずの怪我が、一日もたたずにきれいさっぱり治ったってこと?」
「……痕跡もない。異常」
「言われれば確かにそうだけど。伝達ミスなんじゃないんですか?」
「……よくわからない」
「だから調べたいと?」
「……うん、お願い」
「お金はかかりますか?」
「……私の勝手だから、必要ない」
「わかりました。そういうなら調べてください。できれば徹底的に」
疑問は早く解消しておいた方がいい。徹底的にとはいっても、主治医でもない医師が勝手にできることは限られているし、おおかた採血して検査にかける程度だろう。手慣れた感じでゴムで腕を縛り針を刺す。痛みは特にない。手慣れている。スムーズな動きで、俺の左手から血を抜いていくリリさん。すでに準備されていた複数の採血用の真空管に次々と取り込み振っていく。その時、彼女の顔色が少し変化した。血の入った採血管を繰り返し振っている。何度か振った後で、手に持った採血管を見比べながらつぶやく。
「……全く分離も凝固もしていない」
俺は医療に全く詳しくないため、彼女の言葉にどういう意味があるのかはわからない。ただ、確かに血液検査の種類によって採血は固まるものがあったような気がするが、それが固まっていないということなのだろうか。
「少し時間を置けば変わるのでは?」
もちろん、全く素人の意見なので説得力はない。だからこそ気軽な気持ちで言葉に出してみた。だが、手を止めて採血管をじっと見つめる彼女のこわばった顔を見て、急激に頭の中でトラブル警報が鳴り響く。明らかにおかしいのだろう。ここで異常が出れば、もっと入院させられる。さすがにモルモットにされるということはないだろうが、それを望んでいるわけではない。これはあくまで彼女の個人的興味に基づくものであって、医療行為ではないのだから。
「やっぱり採血は止めましょう。ほら、別に悪いところがある訳じゃないし、むしろ今日は調子が良すぎるくらいなんですよ」
「……調べないと」
「やめましょう」
「……でも」
「やめてください」
「……少しだけでも」
「やめろ!」
俺は、採決をやめさせようと強引に針を引き抜いた。腕に鋭い痛みが走る。強引に抜いたのだから当たり前である。血が飛び散ってもおかしくない。
「……あっ」
彼女の視線が俺の左腕を見つめている。針を抜いたその場所。血があふれたのではなく、何か泡のようなものが針を抜いた跡に見える。特に音が聞こえるわけではないし、血が飛び散ったわけでもない。白い小さな泡が傷口を包んでいたような感じ。
はっとして、俺は腕を引き寄せ彼女から離れようとした。数人の速足の音が聞こえる。
「どうかしましたか?」
看護師が騒ぎに気づいたのだろうか? 二人ほど病室に入ってきた。
「あ、高梨先生。何かあったんですか?」
「……特にない」
「でも、大きな声がしたようですが」
いつの間にか、採決道具は彼女の持ってきたカバンにしまわれていた。俺としても、ここは問題を大きくしないほうがいいだろう。しつこく言うことで、妙な検査につながっても困る。このままいけば、明日には退院できるのだ。
「梶田さん、何が?」
「いえ、特にないですよ。何かあったんですか?」
「大きな声が聞こえたようですが」
「おかしいなぁ、そんな声を出したつもりはなかったけど」
「本当に、何もないんですよね?」
「はい、特には」
「そうですか、ほかの入院患者さんもいるので騒ぐのはやめてくださいね」
「わかっています」
二人の看護師は、そういうと忙しそうに帰っていく。いつの間にか、リリも消えていた。彼女の存在感の低さがここでは見事に効果を発揮したようだ。
残された俺は、左腕の採血の後をこっそりと見る。針の跡も血の跡も全く残っていない。引き抜いた瞬間、確かに強い痛みを感じたはずだ。無理やり引き抜いたので、傷になっていてもおかしくない。だが、そこにあるのは全く傷跡のないきれいな俺の腕。泡のようなものは病院着で拭く形になったのか、どこにも跡は残っていない。きれいさっぱり、消え去ったというのが最も適切な表現である。
その夜は、もう誰も訪ねてくることはなかった。
次の日も朝の検温は看護師により行われたが、リリが来ることはなかった。ただ、看護師が左腕の採血跡を確認していたような仕草をした気がする。俺の気にし過ぎだろうか。ただ、すでに一晩経過してるので針の跡が消えているのはおかしな話じゃないだろう。それでも、警戒はしておいたほうがいい。
11時ごろ老医師による最後の検診が行われ、特にトラブルもなく退院できた。
リリが俺の体に何らかの疑問を持ったのは間違いないだろうし、専門家としてすでに気づいたことがあるかもしれない。そもそも、リリはそれほど多くはないだろうが俺から採取した血液を持っている。採血管数本だが、これが変なところに持ち込まれないかは大いに気になっている。ただ、これは正当な医療行為ではないので、向こうの責任追及をすることはできるだろう。そもそも、現代日本において個人情報をを容易に勝手な利用できないという気持ちもある。特に市民病院などではコンプライアンスには五月蠅いはずだ。すなわち、採血は彼女の個人的な興味に基づくものであって、大っぴらにすることには彼女にも大きなリスクがある。
だが、仮に俺の血液に特殊な効果が生まれていたとすれば。その時に、俺の自由は保障されるのだろうか。そもそも、俺の血液は怪我を一瞬のうちに治してしまうような能力を得たのだろうか。だとすれば、俺には何ができるのだろうか。
少し考えて、頭を振った。別にまじめ一本というわけではないので、ゲームもすればラノベも読む。傷がすぐに回復するとすれば、例えば老不死になって異世界無双というのも想像しようと思えばできる。悪人に対して無類の強さを誇る物語も描けるかもしれない。だがそれ以上に人間ではない何かに変わってしまい、社会の敵に認定される方向のほうが可能性が高いだろう。あるいは、モルモット、実験材料として拘束されることも十分に考えられる。
これらは考えすぎであろうか。いや、考えるだけならあるいは試せることなら自分で確認しておくべきだろう。
タクシーで街の中心部まで戻り、時間貸しの駐車場に止めていた自分の車に乗り込む。気を付けながら、一人暮らしで借りている2LDKの賃貸マンションに帰った。地方都市勤務の最大のメリットは、住宅賃料の安さである。東京では考えられないような広さの家に住めるのだ。金曜の夜から今までの3日、いろいろとありすぎたが、家に戻ってすべきことは間違いなくある。夢と思いたいが、俺の体は何か変だ。その事実は消し去ることはできない。俺にはそれを把握しなければならない。ということで、自分の変化を確かめるべく早速実験をすることにした。
理由はわからないし確かめようもないが、昨日のことを考えると傷が即座に治る体になった可能性がある。こんなこそ、これまで想像もしたことがなかった。だが可能性があるのであれば、それがどの程度の能力があるのかは調べておくべき、知っておかなければならないことだ。簡単な傷が治るというのは悪い話ではない。しかし、どこまで効果があるのか、なんらかの条件があるのか等、把握しておくべきことは少なくない。
「とは言え、現実に自分を傷つけるって怖すぎだろう!」
キッチンで包丁を指に充てて、独り思わず叫んでしまった。そもそも俺に自傷趣味はないし、昨日も採血用の梁を強引に抜いた時には強い痛みを感じている。傷に対する痛みは間違いなくある。痛くないのならともかく、わざわざ痛い目を自分に施そうという人はどこか壊れていると思う。
短い逡巡のあと、実験すると決めたのも自分と開き直った。誰でもない俺自身のために、検証は必要なのだ。自分の指を見つめてしばらく立っていたが、おもむろに俺は左手の親指に包丁を突き立てた。ぶすり。3~5mmほど突き刺した。指には鋭い痛みが走る。すぐに血が傷口から溢れようとしたが、その瞬間に傷口の内側から泡のようなものが出てきて傷口を覆う。そして10秒もたたないうちに、傷口を覆ってた泡が消えていった。もちろん、跡に傷は全く残っていない。最初の傷のない状況。切った跡もない。痛みも最初に傷つけたときのみ。泡が出た後には急速に引いていった。
事件前にはこんな現象はなかった。普通に怪我して、普通に血を流し、普通にかさぶたができ、しばらくは跡が残る。数か月から年単位でようやく完全に元に戻るのが俺の体であったはず。いくつかは消えない傷跡もあった。そう言えばと、過去の傷跡を確かめてみるが、それはそのまま残っていた。
思い出すのは、あの夜の不思議な光と奇妙な体験。何かが俺の中を通り抜けていった感触。ただ、不確かなのは記憶が十分ではないこと。追い詰められていた精神状態と、多少は酔いも含まれるだろうし、最後は気を失っている。だから、どこまでが事実だったのかの判断は十分にはつかない。ただ、確かに何かがあったのあ間違いないし、心の底にあの時の体験が原因だという確信のようなものがある。それ以外に、思いつくものがない。
額にはうっすらと汗をかいているようだ。考えすぎたのか、あるいはそれだけ緊張していたのだろう。だが、俺の傷がすぐに治るのは、少なくとも今証明された。傷つかないわけではない。だが、傷ついた瞬間に何らかの反応で修復しているようだ。その機序や原因はわからないが、少なくとも泡が傷口の修復に関係しているようだ。自然治癒がものすごく早くなったと考えることもできる。数か月の作用が数秒になったということ。例えば血小板の作用が異次元レベルに進化したということだろうか。しかし、昨日の採血では問題なく血液を抜くことができていた。体の外に出れば泡になって全て消えるという訳でもなさそうだ。
次のチャレンジを考えたが、さきほど以上に大きな傷を与えて大丈夫かどうかについては、決断できなかった。そこまでの勇気を持てないでいる。失敗すれば取り返せないのだ。どこまでの傷に対応できるかなど、前例のないチャレンジをほいほいとやれるほど無謀な俺ではない。そもそも、こんな速さの回復について少なくとも今まで聞いたことがないのだから。確かに空想の世界になら情報がある。例えば、ラノベでよくある回復魔法やポーションならばこんな感じなのだろう。それを体内で生成している? あるいはそういう体になった?
ひょっとすれば、腕一本落としても生えてくるなんてことも想像することは十分可能だ。死者蘇生はともかく、今俺が想像できるのはそういった類の空想ものである。だからと言って、保証のない中で指や腕を落とすなんてリスクの高い挑戦をするはずもないが。
どっちにしても、こうした秘密は一人で抱えるには大きすぎる。だが、いったい誰に相談すればいいというのか。家族? 彼女? こんな相談できやしない。「超能力を得られてよかったね」とか、「これからは怪我の心配がいらないね」とかいった気安いものではない。俺の体がおかしくなってしまった、少なくとも普通の人と同じではないということである。そんなこと相談できるか?
職場の同僚や先輩も、仲が悪いわけではないものの、こんな相談できる相手はいない。となれば、学生時代からの友人に相談するしかないが、話の出来そうなやつは一人しか思い当たらなかった。高校時代からの悪友である刈谷だ。ただ、俺の家には固定電話は設置していないので、携帯がない今は連絡の取れないのである。
リビングに移り、ノートPCを立ち上げメールを送る。携帯をなくした経緯と、相談事があるという内容にした。詳細をすべてメールで送るのは少し怖い。ただ、あいつは東京に住んでいる。ビデオ通話ができるといいが。
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