ヤミイトと悪運探偵

藍澤李色

第1話 悪運探偵・真淵事務所①

プロローグ


 初めて伊都いとが『それ』を自覚したのは、まだ幼稚園に通っていた頃のことだ。

 あの日のことは、今でもはっきりと思い出せる。

 年長の組の子が、意地悪をしてくることがあった。傍目にはニコニコとしているのに、他の子が遊んでいる最中のおもちゃをとりあげたり、おやつを横取りしたりする。だけど、大人の前では上手く隠したし、愛想がいいので保育士の先生は「いい子」だと思っているようだった。

 伊都はその子のことが苦手で、いつも遠まきにして近づかないようにしていた。

 あの日、何の気まぐれか、その子が自分に近付いてきたことがあった。

 何をする気だろう。何となく怖くなって、その子の顔を見た。

「いとくん、あそぼ」

 どろり、と。

 その子の口から、黒い糸状の『それ』が溢れ出てくる。『それ』は、うねうねと波打ちながら伊都の方に向かって伸びてきた。

「ひっ……」

 確か、自分は怯えて逃げようとしたはずだ。

「なんでにげるの」

 黒い糸を吐き出しながら、その子はムッとした顔でこちらに近づいてくる。

「やだ!」

 どん、その子をつきとばして、伊都は走って逃げ出した。

「いとくんがたたいたー!」

 泣き出したその子を見て、保育士の先生があわてて駆けてくる。

「どうしたの? なんでたたいたの、伊都くん」

 先生が自分を叱りつけている間にも、その子の口元からは『それ』がずっとあふれ出ていた。

「伊都くん、一緒にあやまろう? たたいてごめんなさいって、ね?」

 先生には、『それ』が見えていない。言っても聞いてもらえないのであろうことは、子供ながらに感じ取っていた。

 先生たちは、自分の味方をしてくれない。

「いとくん、もうあそんでやんない!」

 正直な気持ちを言えば、遊んでくれなくてもよかった。本当に苦手な相手だったから。

 先生が信じてくれなかったことが悲しくて、あとはずっと口から黒い糸を吐き続けるその子のことが怖くて、伊都もこらえきれずに泣き出してしまった。

 それからのことは、実はよく覚えていない。泣いて、泣いて、泣き疲れて眠ってしまったからだ。

 夕方になって、母が幼稚園まで自分を迎えにきた。伊都はまだ眠っていて、母に起こされて寝ぼけ眼をこすりながら幼稚園を出た。

 あの時、例の黒い糸のことを、自分はどう説明したのだろうか。今となっては遠い記憶すぎて、よくわからない。

 ただ、たどたどしい言葉で今日見たものを母に語った後、伊都の手を引いていた母が急に立ち止まった。

「ママ……」

「そう……。伊都も『見える』のね」

 母は、膝をついて目線を合わせて。

「あのね、伊都。『それ』は他の人には見えないの。だから、『それ』が見えることは、ママ以外の誰にも言っちゃダメよ」

 どうしてなのか何もわからなかった。なぜ、自分にだけ『それ』が見えたのかも、母が悲しそうな顔をした理由も。

 だから、困惑した気持ちを素直に吐露するしかなかった。

「どうして?」

「怖い人がやってくるかもしれないから」

「やだ」

「うん、そうよね。だから、今日のことは伊都とママとの秘密ね」

 手をきゅっと握った母を見上げて、この約束の意味を幼い自分なりに理解しようと頑張っていたことは覚えている。


 あれから十二年経って、今はもう母もそばにいない。

 だけど、自分が何を見ているかは知っている。


 ——人間の感情が『糸』に見える。悪意や敵意が、漆黒ともいえる色の『糸』に。


 それが、自分——円居まとい伊都いとにもたらされた『ギフト』だった。

 この異能を本当に『ギフト』と呼ぶべきかどうかは、わからないけれど。

 この『ギフト』のことは、母以外の誰にも言わずに隠し通してきた。これからもそうしていくはずだった。



 東京、池袋。

「君、大丈夫?」

 彼はそう言って、屈みこんでいた伊都の肩を叩いた。

「大丈夫、です」

 顔を上げた。その瞬間、伊都は息を飲んだ。

 黒かった。彼の首から下が、ほとんど黒に染まっていた。

 おびただしい量の『糸』が、差し出された手のひらにまでねっとりと絡みついて、たわんで、ゆらゆらと揺れている。

「絡まってる……」

 思わず口をついて出た。普段だったら、何も見なかったことにできるのに、その時だけは口からその言葉がこぼれ落ちた。

 すぐにまずいと思って口をふさいだが、もう遅い。

 彼は驚いた顔をして、

「絡まってる、って、何が……?」

 まっすぐに自分を見ている。「気のせいでした」と、ごまかせばよかった。それなのに、言葉にならなかった。

 黒い糸はその時も絶えず彼にまとわりついて、手足に絡みついていく。

 異様なその光景に伊都が言葉を失っていると、不意に悲鳴が上がった。

「あ、またか……」

 彼は慣れた様子でそう言った。

「危ないから、少し離れてて」

「え……?」

 今度は伊都が戸惑う番だった。彼は人懐っこい表情で笑って、「いいから」とよろよろと立ち上がった伊都の背中を押した。


 母がいなくなってから、伊都は漠然と自分は一人で生きて死んでいくのだろうと思っていた。

 それなのに、出会ってしまった。自分の運命を根底からひっくり返す相手がいることを、知ってしまった。

 人生のターニングポイントがあるとするなら、伊都にとってのそれは彼との出会いだった。




1.悪運探偵・真淵事務所


 路頭に迷った。どうしよう。

 その日、円居伊都は東京、池袋の片隅で途方に暮れていた。

 ゴールデンウィークの熱狂が過ぎ去った、五月半ば。初夏の陽気がビルの隙間から燦々と降り注ぐ中、伊都は池袋駅前をよろよろと歩いていた。

 休日の繁華街は、人が多い。これだけ人が多いと、少しくらいふらついている人間がいても、みんな背景と同じに感じるのかスルーしてもらえる。

「おなか……減った……」

 口に出してから、後悔した。余計にお腹が空いたように思えたからだ。最後にまともな食事を食べたのは、一昨日だ。まともな食事といっても、菓子パンやカップヌードルだけど。

 現在、伊都が持っている全財産は、たったの三百円である。菓子パンひとつ買うのもためらう所持金。

 着替えしか入っていないリュックを背負い、深くため息をつく。

 高校を卒業した翌日に、伊都はなけなしの貯金を全部下ろした。そしてリュックひとつにまとまるだけの荷物を持って、六年ほどを過ごした叔母の家を出た。転がり込むことができるような友達の家もなく、安いネットカフェを転々としながら約一ヶ月半を生き延びたのだが、ついにネカフェにすら泊まれなくなってしまった。

 本当は、一人暮らしをはじめたかった。しかし、学生でもなく、仕事の決まっていない高校卒業したての人間に、保護者や後見人なしで部屋を貸してくれる不動産屋はないだろう。

 住所不定では、満足にアルバイトもできない。仕事がなければ家を借りられないのに、家を借りられないからまともな仕事ができない。

 素直に叔母の家に帰って、「仕事が決まるまでは家に置いてください」と懇願するべきなのかもしれなかった。だけどそうする気持ちにはどうしてもなれずに、ついに進退窮まってこんなことになっている。

「日雇いの仕事とか、住所不定でもできるのかな……それか、寮のある仕事とか」

 できるのだとしても、所持金三百円になる前に手を打つべきだった。自分の浅はかさを呪いつつ、街中をさまよっている。行く場所も思いつかないからだ。

 思考が同じところを堂々巡りをしている気がする。これは良くない。ひとまず仕事を探さないと。スマホの充電いつまで持つかな。色々なことが、頭の端をかすめては消えていった。

 サンシャイン60通りは、池袋の中でも最も人通りが多い道だ。今日は休日だから、なおさら多くの人が歩いている。

 これだけ人が多いと、視界のあちこちに黒い糸のようなものがもじゃもじゃ漂っているのが見える。それを見ると、伊都はいつも心なしか背筋を正して、どうやって距離を置こうか考えてしまう。

 黒いもじゃもじゃとした糸状の何かは、人が持っている『悪意』や『敵意』でできているからだ。

 人間は誰でも、少なからず心の中に闇を飼っている。そういう人の心の一番汚い部分が、伊都には黒い糸に見える。

 ——『闇色の糸』、あるいは『病んだ意図』。

 そういう意味を込めて、伊都はその黒い糸のことを『ヤミイト』と呼んでいる。

 ヤミイトが見えることは、誰にも言っていない。何せ、悪意が見えるのだ。ヤミイトを出している相手からすれば、自分の悪感情を知られたら気まずく思うのは仕方がないことだろう。よほど露悪的な人じゃない限りは、自分が持つ負の感情を他人に晒したいなんて思わないはずだから。だから、余計な軋轢を生まないように、ヤミイトのことは口に出さないというのがマイルールなのだ。

 ついでに言えば、全くヤミイトを出さない人というのも、あまり見たことがない。優しそうに見えても、ヤミイトをたくさん出している人は結構いる。

 悪意を避けたいと思えば、人間関係をできるだけ希薄にするしかない。

 だから伊都は子供の頃から、あまり親しい友人は作っていない。仲良くなった相手が、ちょっとしたことでヤミイトを出すのを見たくない。孤立している自覚はあったけれど、仕方なかった。今にして思えば、緊急の時にとりあえず家に泊めてくれる程度の友達を、一人くらい作っておけばよかったと思うけれど。

「もうちょっと……人が少ないところ……」

 伊都はサンシャイン60通りから一本道を逸れる。大通りを一本それてもそれなりに人はいて、さすが繁華街だな、と思った。もう人が多いのは仕方がないから、ひとまず公園かどこか座れるところに行きたい。

 公園に向かう途中、前の方を歩いている女子高生と思しき二人組が、妙に甲高い声で話しているのが聞こえてくる。

「ね、この前YouTubeで『ギフト』持ってる人の動画見てさー。透視で、カードの中身全部当てるやつ」

「あ、私も見た。めっちゃバズってたよね。でもホントかなぁ?『ギフト』持ちの人ってそんな簡単に見つかるもん?」

「確かに、透視くらいなら手品でもできるもんね」

「うん。ちょっとヤラセっぽいよね」

「だよね。でもまぁ、『ギフト』ある人になってみたい気持ちはわかる」

「うんうん。特別感あるもんね。あー、私にも何か『ギフト』が欲しかったなー。持ってたら絶対自慢しちゃう」

 彼女たちの言う『ギフト』というのは、いわゆる『超能力』とほぼイコールである。

 伊都のような特別な能力を持つ人間は、実はこの世界に一定量存在するのだ。二、三十年前くらいから、世界的に急増したらしい。

 特殊能力を持った人々のことを、世間では『ギフト』という言葉で呼称するようになった。どうやら最近の統計では、五千人に一人くらいの割合で生まれてきているそうだ。

 しかし、能力の種類はてんでばらばら。便利な能力もあれば、全然役に立たない能力もある。当然、ありがたがる人もいれば、全く興味を持たない人もいる。忌み嫌う人だっている。

 伊都のこの能力は、どちらかと言えば嫌われる類だろう。悪意を的確に察知する伊都は、あまりにも勘が良すぎると思われたのか、気持ち悪がられることが多々あった。こちらだって、好きでこんな『ギフト』を持ったわけでもないのに。これも、伊都が友だちを作れなかった理由のひとつだ。

 それにしても、どうして『ギフト』なんて言う呼び名がついたのだろう。こんな贈り物は、何もありがたくない。

 中学校に上がったくらいから、伊都は少し髪を伸ばすようになった。黒い前髪で視界を覆って、ようやく少しだけ悪意から遠ざかることができる。前髪の隙間から見える世界は、伊都にわずかながら安心感を与えてくれた。逆に言えば、そんなやり方でしかヤミイトから遠ざかることができなかったのだけど。

 ヤミイトのことを考えてると、頭がくらくらしてきた。

「あ……ちょっと、ヤバい……かも」

 ぐらりと身体が傾く。足から力が抜けて、伊都は崩れ落ちるように転んだ。すぐに起き上がろうとしたけれど、目の前がぐるぐる回って、手足に力が入らない。

 これはまずい。なんとか起きあがったけれど、かがみ込んだ体勢になったまま、なかなか立ち上がることができない。

「君、大丈夫?」

 誰かがそう言って、伊都の肩を軽く叩いた。親切な人が、心配して声をかけてくれたらしい。

「大丈夫、です」

 多分全然大丈夫に見えないだろうな、と思いながら顔を上げた。その瞬間、伊都は息を飲んだ。空腹感も綺麗に消し飛んでしまった。

 黒い。首から下が、ほとんどヤミイトで覆われている。

 差し出された手のひらにまで、ヤミイトが絡み付いて、まるでひとつの生き物になったかのようにうねうねと、絶えず揺れ動いている。

「絡まってる……」

 思わず、そう漏らしていた。こんなにヤミイトが絡まってる人間を初めて見た。顔を見る限りでは、二十代半ばほどの男性だった。というか、顔しかまともに見えなかった。

 一瞬遅れて我に返って、伊都は口を塞いだ。こんなことを言っても、相手には何も見えていないのに。

 彼は驚いた顔をしていた。そして、

「絡まってる、って、何が……?」

 と、きょとんとした顔で尋ねてきた。

 そうしている内にも、ヤミイトはどんどん彼に集まってくる。そう、彼からヤミイトが出ているわけではないのだ。周囲から集まってきている。

 気のせいだった。何も見ていない。ヤミイトを見ていることに気づかれたら、いつもそうやって誤魔化していた。だけどこの時は、目の前のあまりの光景に絶句して、そんな言葉も出てこなかった。

 何か、何かを言わなければ。そう思うのに、喉の奥を石で塞がれたように声が出てこなかった。

 声もなく、目を逸らすこともできずにいる伊都に、彼はもう一度口を開いた。しかし、言葉が続くことはなかった。

 すぐ近くで、急に悲鳴があがったからだ。

「きゃああっ!」

 悲鳴をあげたのは先程、『ギフト』の話をしていた女子高生たちだった。何かが起きている。見れば、よれてシワだらけになった服を着た男が何やらわけのわからない言葉を吐きながらナイフを振り回している。

「あ、またか……」

 彼は、慣れた様子だった。伊都は、そんな彼にますますヤミイトが大量に絡みつくのを見た。ナイフ男から出たヤミイトが、彼に向かって集まっている。

「危ないから、少し離れてて」

「え……?」

 彼は伊都の手を引いて立たせると、道の隅へと押しやった。

 ナイフ男は、ターゲットを女子高生からヤミイトまみれの彼に変えたらしい。咆哮をあげながら、ナイフを持って突進してきた。

「ちょ、ちょっと……!」

 これはまずい。まずいことはわかるが、身体は恐怖にすくんでいて動かない。

 ナイフ男からあふれ出たヤミイトが、彼に向かっていく。一秒遅れて、ナイフ男の身体が続く。上からナイフを振り下ろす。

 思わず目をつぶった。人が刺されるところなんて、見たくなかったから。

 ドッ、ドスッ、という鈍い音がして、伊都は恐る恐る目を開ける。少なくとも人が刺された音ではない。何が起こったのか。

 彼は無事だった。その代わり、ナイフ男は地面に倒れていた。彼がナイフ男の右手を捻り上げて、地面に押さえつけていた。一瞬で攻勢が逆転している。

 驚いて目を白黒させていると、彼と目が合った。

「警察に連絡してくれる?」

「え、あっ、はい」

 彼に促されて、110番通報をする。スマホの充電がまだあって良かった。警察に通報するのなんて生まれて初めてだ。状況を上手く説明できなくて焦る。

 その間も、例の彼は犯人をしっかりと取り押さえていた。だんだん野次馬が集まってきた。ニヤニヤ笑いながら写真や動画を撮っている人もいる。ところどころからモヤモヤとヤミイトがただよってきて、暴漢を取り押さえている彼にまとわりついた。どうして犯人ではなく、取り押さえた彼の方に行くのだろうか。

 やがて警察がやってきて、犯人を連行していった。伊都の出番はこれで終わりかと思えば、通報した当人ということで、現場検証に付き合わされることになってしまった。

 交番まで付いていかされ、伊都はだんだん自分がどうしてこの場にいるのかわからなくなってきた。

 いたたまれない気持ちで端の方に用意された椅子に座っていると、書類に目を通した警官が顔を上げて伊都を見た。

「君、未成年だよね。学校は?」

「あ、高校は卒業してます……大学には行っていなくて」

 高卒の十八歳は、一応成人とみなされるはずだ。そう思ったのだが、警官は納得していなさそうだった。

「一応、保護者の連絡先を聞かせてもらっても?」

「ええと、それは……」

 言いたくない。そもそも、高校卒業済みの男を相手に、保護者も何もないと思うのだが。警官は不審げな顔で伊都を見る。こちらは通報しただけで、悪いことなど何もしていないのに。

「ああ、彼は俺の連れなんです。一緒に帰りますので、ご心配なく」

 警官と伊都の間に、割って入ってきた人物がいた。一瞬誰だかわからなかったが、少し遅れてあのヤミイトまみれだった青年だと気が付く。

「もう聴取もないみたいだし、一緒に帰ろっか」

 ほら、と青年は伊都の手を引く。そのまま交番を出て少し歩いたところで、彼は振り向いた。

「なんか困っているみたいだから、割って入っちゃったけど、大丈夫だった?」

「あ、はい……ありがとうございます」

 気をつかってくれたらしい。素直にありがたかった。

 改めて、彼の姿を見る。

(ヤミイト、減ってる……)

 半身を覆うほど絡みついていたヤミイトは、今は手足にわずかに残っている程度だった。

 伊都よりもだいぶ身長は高い。一七〇センチの自分が見上げるくらいなので、一八〇センチを超えていそうだ。顔立ちは鼻筋がすっきりとした美形で、髪を金色に染めている。日本人に金髪は似合わないと思っていたが、例外はあるらしい。普通に似合っている。少し色素の薄い胡桃色の瞳が、金髪によく馴染んでいた。

 格好は、生地が良さそうなカーキ色のシャツと、白いチノパン。飾り気のないファッションなのに、洒落ているように見える。顔が良いと、シンプルな服装でも様になるのだとわかった。長い前髪もあいまって、Tシャツとジーンズだけの部屋着に毛が生えた程度のファッションがもっさりして見える自分とは大違いだ。

「俺は真淵まぶち光留ひかる。こういう者です」

 彼――光留は、そう言って、伊都に名刺を差し出した。

「真淵探偵事務所……?」

 名刺には、そう書かれていた。住所は池袋駅からさほど離れていない。

「そう。こう見えて探偵です。君は?」

「ええと、僕は、円居伊都です」

「マトイ? 漢字ではどう書くの? 射的の的に井戸の井?」

「いえ、円形の円に、居るって書いて、マトイです。読めないってよく言われます」

「確かに、あんまりいない苗字だね」

「真淵さんもあまりいない気がしますけど」

「それもそうだね。あ、俺のことは光留って呼んでくれていいよ。探偵事務所、姉と二人でやってるから、真淵っていうとどちらのことかわからなくなってしまうんだ」

「はぁ、そうですか」

 その姉とやらはこの場にいないし、今後会うこともないだろうから、真淵さんでも問題ない気がする。

 池袋駅まで来て、一息ついた気持ちになった。それと同時に、猛烈な空腹感と頭がくらくらするような感覚が戻ってきた。自分が全財産三百円なことも思い出して、足を止める。これからどうしようか。

 なりゆきで隣を歩いていた光留が、立ち止まって「大丈夫?」と声をかけてくる。大丈夫ではない。

「すみません、ちょっと、めまいが……」

「え? 病院行く? あ、でも今日、休日か」

 よろけそうになっている伊都の身体を片腕で支えて、光留はしばらく考え込んでいた様子だった。病院に連れていかれても困る。

「その……本当に大丈夫、なんで……ちょっと、お腹空いてるだけで」

 大丈夫ではないが、それくらいしか言えることがない。

 やっぱり、なけなしの全財産は食べ物に使おうと思った。本当にそう思ったのだ。

 しかし、光留はまた伊都の手を取って歩き出した。

「ふらふらかもしれないけど、少しの間頑張って歩いて。何か奢るよ。巻き込んじゃったしね。お昼にしよう」

「え、いや、でも……初対面の人に奢ってもらうわけには……」

 ありがたい申し出ではあるのだが、奢ってもらう理由はない。

「気にしないで、お金は持ってるから」

 気にするし、お金の問題でもない。

 その時、ぎゅるるるるる、と伊都のお腹が盛大になった。光留がきょとんとした顔になっている。これは恥ずかしい。

「素直に奢られてくれないかな。嫌だよ、俺は。行き倒れになる伊都くんとか見たくないよ」

「うぅ……」

「奢るっていうから抵抗あるのか。じゃあこう言おう。一人でランチ食べてもつまらないし、ちょっと付き合ってくれない? いいだろ?」

 この人、思っていたよりもぐいぐい来る。光留の猛攻に、ついに伊都は陥落した。

 空腹は限界だったし、何よりも細かいことを考えられるほど頭が回らなかったのだ。お腹がすいた。ご飯が食べられる。それでいいではないか。

「わかりました……」

 観念して頷くと、光留はニッと笑った。

 悪意のヤミイトまみれになっていたとは思えないほど、陽キャの属性しか感じない、満面の笑みだった。

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