獄宙に囚われる 13

 ※



 俺は自動販売機でミネラルウォーターのペットボトルを買う。佳蘭の好みがわからない以上、置きにいった選択肢をとった。それを持って佳蘭が待つ近くの公園へと向かう。

 ブランコ一つと砂場があるだけの誰もいない小さな公園。そこのベンチでぐったりと項垂れながら佳蘭は座っていた。

「ほら飲めよ。ちったあ違うだろ」

「……ありがとう。助かるわ」

 差し出したペットボトルを受け取り、雑に蓋を空けるとゴクゴクと飲む。佳蘭らしくない動き。それだけ今の佳蘭は堪えているってことだろう。だがそれだけだ。ほんの少しだけ安心した俺は、佳蘭の隣に腰を下ろす。

 あの白い影は、発狂した佳蘭が正気を取り戻した頃には既に消え去っていた。一分か五分か十分か。佳蘭が正気を取り戻すのにかかった時間はわからない。少なくともそれくらいの時間で、あの白い影は何もなかったかのように忽然と姿を消した。

 いくら正気を取り戻したとはいえ、あの時の佳蘭は弱り切っていた。ラッキーなことに近くにこの公園を見つけて、佳蘭をベンチに休ませ今に至る。

「なあ——」

 何か佳蘭に話しかけたくて、けれども何も出ずただ漏れただけの俺の言葉。だがそれは項垂れていた佳蘭にきちんと届いていた。

「あれは一般に、くねくねと呼ばれているものだと、思うわ。初日に竹中さんの動画で見た、でしょう」

「くねくね……」

 そういえばそんな動画を見せられた気がする。この調査期間は色々ありすぎたせいで初日のことなんざ遠い過去のように感じるが、実際はたった五日前の話だ。段々と思い出してきた。

 最近大学の付近でくねくねとかっていう怪異が目撃されていると竹中が言っていた。その話をした時は、なんかバジリスクの矛盾とかでくねくねという怪異は存在しない。誰かが流した創作だろうという結論だったはずだ。

「高戸は、高戸の目にはあれはどう映ったの?」

「白い影だ。くねくね動く白い影」

 竹中の動画でのくねくねには生理的嫌悪感が出るような、そんなグロテスクさすら感じる蠢き方をしていた。だが俺たちが見た本物は違った。ただわからないのだ。ガチでわからない。その動きをうねうねくねくねと表現したが、そうとしか言えない。俺たちが全く知らない不可思議な動き。

「そうね。それが正しい。事実わたしもそう見えた。けどわたしの持つ魔女の瞳は違ったわ。あれは、あれは人間よ」

「は? あれが人間?」

 震える声で絞り出すように発せられた佳蘭の言葉。思わず聞き返してしまった。どっからどう見てもあれは人間には見えなかった。いっそ宇宙人と言われた方が納得するレベル。

「あり得るのか? 人間があんな妙なものに変わっちまうなんてことが」

「ありえるわけないでしょうが‼」

 金切声に近い悲痛な叫びだった。まさか佳蘭がそんな声を出すなんて思ってもみなかった俺は驚き、まじまじとその顔を見つめてしまう。脂汗が滲み、恐怖に恐れおののいている佳蘭の表情。そのまま捲くし立てるように続けた。

「ありえない。ありえるわけがないじゃない‼ あらゆる法則が崩壊する異界の話じゃないのよ⁉ あれは確かに現実だった‼ いえ異界でも相当な濃度じゃなければそんなこと起こりえない‼ 知らない。知らないわそんな濃度の異界なんて。異界ですらありえない。ましてそれが現実で起こった話だなんて……」

 ベンチから立ち上がり凄まじい剣幕で捲くし立てていた佳蘭は、萎む様に語気が弱くなり弱々しく座りこんだ。

「ごめんなさい。いきなり大声で。ほんとうにごめんなさい」

「気にしちゃいねぇよ」

 まるで泣き出しそうな佳蘭に、俺は強く言うことは出来なかった。俺には佳蘭の言葉が理解出来ない。久留主佳蘭という女は魔女で、俺はせいぜい不良大学生。佳蘭が半狂乱になるほどの異常さを、俺は理解することが出来ない。呪いの時と同じだ。言葉はわかっても、その理解に実感が伴わない。


 ただ佳蘭ほどの女が、こうも取り乱すことの異常さだということは、かろうじて実感できる。


「これは価値観の問題よ。高戸にとって死とはなに?」

「は?」

 小さな、囁くような佳蘭の疑問。意味が分からなくて思わず聞き返した。

「医学的には呼吸や血液の循環が止まり、脳の機能が完全停止し、蘇生不可能な状態のことを指すわ。文化的な話で言えば、完全に忘れ去られた時に人は死を迎えると言った人もいたわ。人にとって死の定義は様々よ」

 よくドラマなんかでいう俺の心の中で生き続けているというやつだ。わかっている。俺への問い掛けではあるが、俺の答えなんざ求めちゃいない。ただ黙って佳蘭の言葉を待つ。

「死後というのはあらゆる宗教で定義されているわ。けれども大別して二つ。天国や地獄、極楽浄土など死後魂は別の世界に行くというパターンと、生まれ変わりの輪廻転生よ」

 じっと俺を見つめる佳蘭の青い瞳。宝石のような輝きは失われ、今は弱々しい光を放っていた。

「ああなってしまったら魂はどこにもいけない。わたしたちに平等にあるはずの死という結末すらも奪われる。それは、とてもおそろしいことだわ」

「外れてしまう」

「え?」

「自分自身であることからも外れてしまう。生命であることからも外れてしまう。そして輪廻の環からも外れ、私たちは獄宙に囚われる」

「そう。わたしたちの魂は獄中に囚われる。永遠に逃れることの出来ない白い牢獄に。——待ちなさい!」

 佳蘭は立ち上がり怯えた顔で俺の顔を見つめてくる。その身体は恐怖と驚愕で小刻みに震えていた。

「……どうして高戸がそんなこと知っているの?」

 佳蘭からの問いに、俺は無言で視線を外すことで応えた。それだけで、それだけで佳蘭には俺の言いたいことが伝わったのだろう。糸の切れたマリオネットのように力なくベンチに崩れ落ちた。

「まさか「月光」って……」

 項垂れ頭を抱える佳蘭の姿には後悔が垣間見えた。禁忌に触れ、知らなければ良かったと絶望するかのような深い後悔。


「わたしは、わたしたちはとんでもないものに関わってしまったのかもしれない」


 俺が「月光」を読んだ後に見た白昼夢にも似たあの幻。その内容を佳蘭に話さなかったことには意味がある。怖かったのだ。あの、富永弥の最後を佳蘭に伝えた時に、もしだ。もし佳蘭もあの光景を見るようなことがあったら、見えてしまう。確信があった。俺が見ることが出来なかったからこそ死を回避出来たあの白い異形を、魔女の瞳を持つ佳蘭には見えてしまう。そして富永弥と同じように結論へと辿り着き、自ら命を絶ってしまう。だから話せなかった。話すことが出来なかった。

 俺はおろか魔女である久留主佳蘭すらも越えた超常の存在。それは確かに現実で、俺たちのすぐ傍まで迫ってきていた。

 わからない。これからどうすればいいのかわからない。なにか、なにかあるのだろうか。わからないだらけの中で、たった一つだけ確実にわかることがある。


 俺はまた、「月光」と向き合わなければならない。それだけは確かだった。

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