第6話 でも家族にはなれない

 AM.5:03 グレープナッツ州衛生管理局・第八研究棟。

 通称『ハッケン』と呼ばれた研究棟やそこに所属していた研究員だったが、もうその名を呼ぶ者はいない。衛生管理局員は『ハッケン』の十二人を残してウイルスに滅ぼされたのだから。


 ラスは速度を緩め、極力エンジン音が響かぬよう、そろそろと管理局の敷地に入る。もちろん門扉の横に備えつけられた警備室は無人だ。朝の静けさにしては不気味と思えるのは、早朝にさえずる鳥の鳴き声も、徹夜明けの職員がベンチでコーヒーを啜る姿も、かつてはあたりまえだった音も景色も存在しないからだろう。

 もっとも、ラスやトコにとっては、今の不気味なまでの静寂の方があたりまえなのだが。午前五時から稼働する清掃ロボットのモーター音だけが「早朝の音」として馴染みがあるくらいだ。


 耳元で囁かれる寝息を気遣い、トコは小声でラスに話しかけた。

「ヴォルちゃん寝ちゃってる。ラスに付き合わされてよっぽど疲れたんだよ」

 ラスはちらりと背後に目線だけを送り、微かに眉間に皺を寄せた。トコの細い身体にヴォルクが寄りかかっているのが気に入らないのだ。

「夜中にぎゃんぎゃん吠えてるからだろ。夜は寝るもんなんだ」

 門扉から伸びる通路の両脇は花壇となっていて、様々な植物が植えられている。緩やかにカーブした通路の先に管理局があり、まっすぐ進むと研究棟が並ぶ。ちょうど門扉から直線上にあるのが『ハッケン』だ。

 今日は徹夜をするような大きな研究はなかったはずだと、ラスは気持ち急ぐ程度で『ハッケン』を目指していた。

「あらラスにトコ。こんな早くからツーリング……」

 ジョギングウェア姿のイズマが敷地の外周から伸びる通路から現れた。だが言葉尻を失い、振っていた両腕を下ろし、軽快に進めていた足を止めた。そしてイズマの声で目を覚ましたヴォルクは、目ぼけ眼であたりの景色を見渡した。

 鉄柵の門扉、いくつも並んだのっぺりとした白い建物、州のエンブレムを掲げた仰々しい公社。

 そして、ラスやトコよりもだいぶ年を重ねた人間。

 二十年前、まだ子供だったヴォルクが耳にした噂話が、視覚情報として繋がった。

 ヴォルクはバイクから飛び降り、足の痛みも忘れイズマに飛びかかった。

「ひぃ……っ!」

「ヴォルちゃん!」

 ラスはすばやくスリングベルトを引き寄せてライフルを肩に乗せた。

 ヴォルクの鋭い爪が、ラベンダー色のジョギングウェアを突き破る。

 片足を引きずるヴォルクには、イズマを押し倒す勢いはなかったのか、胸ぐらを掴むだけに留まっている。しかしそれでも、自分よりも二十センチほど上背があり、怒りを顕にしたオオカミの顔が目の前に差し迫っている。イズマの顔が見る間に青ざめていくのには充分だろう。

 掃除ロボットの静かなモーター音をぶち破る銃声が響く。イズマのウェアからヴォルクの手が離れ、反動でたたらを踏んだ。だが、怪我をした足ではうまく身体を支えられずヴォルクはその場にくずおれた。血痕がゴミのひとつもないアスファルトを汚していく。

「ラス!」

「腕の一本くらいじゃこいつは死なないだろう」

 ラスの放った銃弾を受けたヴォルクは、右腕を抑えてうずくまった。だが、それでも無傷な足でアスファルトを踏み、立ち上がろうとしていた。

「この景色、私は子供だったが遠くから確認した。叔母さんの遠吠えが聞こえた場所を。だが大人たちが駆け寄った頃には叔母さんの姿はなかった。我々オオカミが、遠吠えの場所を聞き間違えることなどない。そこの赤ずきんのようにな」

 ヴォルクは顎をしゃくってラスを指した。表情は苦痛に歪んでいるが、目はイズマを突き刺したままだ。

「ヴォルちゃん、それって、イズマさんが……あなたの、叔母さんを攫ったって、言いたいの?」

「トコ、早く建物の中に入れ!」

 白かった空は既に水色に変わり、太陽の形を強調していた。

 呼吸を荒くしたトコの額には脂汗が浮かび、背を丸くして胸を抑えている。汚れたアスファルトに群がってきた円盤型の掃除ロボットがけたたましいアラーム音を発し、甲高い駆動音と共に変形を始めた。

 トコの心拍数の上昇を感知し、搬送モードに移行したのだ。トコは後ろ髪を引かれながら自動走行型タンカーに横たわる。ヴォルクの怪我とこれまで語られていなかった生前の出来事に困惑し、その先を気にかけていたが、ひとまず屋内に退避するしかなかった。

 けれども、事態は何ひとつ解決していない。

 ヴォルクはトコが最後に残した質問に答えるようでもあり、かつての事実をイズマに再認識させる意味で口を開いた。

「大人たちは言っていた。叔母さんの遠吠えがこの敷地の前で途絶えたと。そして叔母さんの匂いは鉄柵の向こうへ続いていた。言え、人間、叔母さんの消失に貴様らが関わっていたのか? なぜ我々の仲間を捕らえた? 叔母さんは、生きているのか?」

 ヴォルクの気迫にイズマは口を開きかけたが、何かを思い留まったかのように唇を引き結んだ。その様子に冷えた視線を向けていたラスが口を挟む。

「でもおまえらはその叔母さんとやらを探そうとはしなかったんだろ? 臆病者どもが今さら二十年も前のことを蒸し返してどうする? それにイズマさんが叔母さんをどうこうしたという証拠もない。やはりおまえは軽率で勇気も知恵も持たない弱者として、葬るべきだな」

 ラスは残弾数が一発のライフルの照準をヴォルクの頭に定めた。

「朝帰りもいいけど、日が昇る前に帰って来てね。不良娘」

『ハッケン』から伸びる通路をこちらに向かって歩いてくる女は、ラスに目を細めた。

「マム」

 ラスはこの女、『ハッケン』の元研究員であり現室長のエリルをマムと呼んでいるが、ほんとうの母親ではない。血は繋がってはいるが。

「あらイズマ、おはよう。ずいぶん顔色がすぐれないわね。健康に気を遣うのはいいけど、あまり無理はしないことね、あなたも私も若くはないんだから」

 エリルな細めたままの目をイズマに向けてから、ヴォルクに視線を移した。苦渋の顔で睨みつけるヴォルクの前まで進むと、すっと腰を下ろして目線を合わせた。

「昨晩、最後の遠吠えをしていたのはあなた?」

 ヴォルクは答えず唸っている。出血し続ける新しい腕の傷、そしてトコに手当てをしてもらった足の傷へ順に視線を向けると、眉を下げて小さく嘆息した。そしてラスに振り返る。

「だめよラス。従姉妹を撃っちゃ」

 ラスの瞼が見開かれ、薄いブルーグレーの瞳が凝縮する。

 イズマは唇を噛んで目を逸らした。





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