第5話 真ん中の特権

 空は地上の緊迫感など気にも留めず、判で押された勤め人のように、あたりまえに夜を薄紫色で塗り替えはじめる。

 オオカミの背後から木々の合間を縫って飛び出した朝日に目を細めたラスはフードを被った。

「トコ、日陰のある場所で待っていろ」

 ラスはゆっくりとオオカミに近づいた。「でも」と言いかけ不安気な顔をラスに向けるトコに、ラスは目顔で殺す気はないと告げる。

 トコは無言で小さく頷くと、ラスのバイクの傍、まだ陽光が届かない木陰に小走りで向かった。

「さて、気に入らないことは山ほどあるが、この世界の理に倣って生まれた俺にも、おまえのことを知らねばならないようだな」

 赤いフードで朝日を遮ったラスの光を通さない目が、ヴォルクに重く落とされた。

「どういう心境の変化か知らないが、私は貴様らのおもちゃになる気はない」

 ラスに撃たれた足の血は、トコによる手当で止まってはいたが、敗北を自覚したヴォルクはこの場で舌を噛むくらいはしかねないだろう。

「それはオオカミのプライドか?」

「格好をつけて言うならば、そうなるな」

「おまえは狼が、ウイルスによって変化をもたらされた意味を考えたことはあるか?」

 ヴォルクは一瞬の間を置いて答えた。

「そんな余裕はなかった。ただ、得たものを駆使し、生き延びることに必死だった」

 眉根を寄せて顔を背けたヴォルクに、ラスはなんの感慨も持たない表情で続けた。

「そうだろうな。おまえらは言語を理解できるとはいえ、マムたちのような高度な知識までは授けてもらえなかったようだしな」

 ラスはあくまでオオカミの知能は生き残った人間やヒトには及ばないと考えている。しかし、これまであまり興味のなかったオオカミや、マムと呼んでいる大人たち、そして色を取り戻し始めた目の前の草木が、未曾有のパンデミックの中で命を奪われなかった理由と、己の特異性について知る必要があると考えた。その上で、自分たち『ヒト』は、マムたちのようにウイルスに選別されない、この世界の強者としての記号であると証明せねばならないと。

「立て。歩くくらいはできるだろ」

「私を貴様らのアジトへ連れていく気か?」

「どのみち野垂れ死ぬ運命だ」

 オオカミは自嘲めいて笑うと両手を広げた。

「好きにしろ。赤ずきんの独裁者気取りの娘よ。元より、我々は世界の理に弄ばれたのだろう。人間の真似事を植えつけられ、その上で適応できるかどうかの実験台にすぎなかった。仲間を集め、知恵を出し合った結果がこのざまだ。貴様らが世界の理に選ばれたと言うのなら、この命はもはや貴様らの道具にすぎなかったのだろう」

「急に厭世的になりやがって。今度は悲劇のヒロイン気取りか? 貴様のそういうところが弱者たらしめる要因の一部だ。いいから来い。貴様をどうするかはマムたちが決める。ほんとうは今すぐそのみみっちい脳みそをぶち抜きたいところなんだがな」

 ラスはスリングベルトを強く握った。だがそれ以上の動作を見せず踵を返した。

 まだ耳に残る遠吠えが、頭の中で明滅する。普段は冷静であると自負しているが、遠吠えが耳に届くたびに苛立ちが隆起する。根拠を知らない憎しみが渦巻くことが、さらにラスを不快にさせた。誰に向けての憎しみなのか。それはオオカミの遠吠えに対してだと自分を納得させていた。

 だが、ラスがそのことを自覚するには、まだこの世界は不明瞭であった。



 左右に開いた研究室のドアからイズマが飛び込んできた。

 キーボードを打っていた手を止め、エリルは顔だけでイズマに

 振り返った。その場にいたほかの研究員たちの視線もイズマに集まる。

「狼が……いや、狼らしき生物が、生きている!」

 イズマは足早に研究室に足を踏み入れ、ポケットから携帯端末を取り出した。

「見て」

 皆に見えるよう、端末を手にした腕を伸ばしたイズマに皆が駆け寄る。エリルも金色の髪をかきあげながら席を立った。

 イズマの端末に映っていた映像に、皆が息を呑んだ。

 遠吠えをするかのように空を仰いだ狼らしき生物。彼女らの知る狼のそれと同様の耳に灰色の毛。体長は、これまで観測されたどの狼よりも大きく見える。飛び出した鼻先は黒く犬のようにも見えるが、鋭い歯は狼のそれと言って間違いないだろう。しかし空に向かって首を伸ばす狼の声は端末から聞こえてこない。

「イズマ、これ、音声が入ってないの? 音量を上げてみて」

 画面に食い入っていた赤毛のマゼンダがイズマに訊ねた。

「よく聞いてみて。風の音が入ってるでしょ。それに音量も最大にしてる。でも聞こえなかったのよ。遠吠えをしてるように見えるけど、鳴き声はまったく。でも音の振動は肌で感じた。それよりこのあとを見て」

 画面の中の狼はゆっくりと顔を正面に戻した。わずかだが、尖った耳がぴくりと動いたように見える。

 そして―

「立った? 足だけで?」

 マゼンダは恐怖とも驚愕ともとれる声で叫んだ。

 椅子に腰掛けたまま、少し離れた場所からイズマの端末を眺めていたエリルが立ち上がった。その勢いのままイズマに詰め寄ると強引に端末を奪って画面を凝視した。

「形態変化……これもウイルスが選んだ新しい世界に必要な生物。だとしたら……」

 画面に視線を落としたままエリルは呟いた。

 イズマの背筋が冷たくなった。

 エリルはすでに、ウイルスが生物を選別していることを受け入れ、その意図を理解しようとしている。家族や仲間を唐突に奪ったウイルスの残虐性よりも、この女はその意味に興味を向けているのかと、顔を引き攣らせ、気づけば後ずさりをしていた。



「トコ、おまえは俺の前に乗れ。三人乗りじゃないから窮屈だろうが我慢してくれ」

 バイクに跨ったラスは少し前を空けたシートを叩いた。

 しかしトコはラスが言い終わる頃にはすでにラスの後ろへ飛び乗っていた。何かを言おうと口を開いたラスを制するように

「そこに乗ったらどこに捕まれって言うの? さ、ヴォルクさん、ちょっと狭いけど乗って乗って」

 トコは振り返り後方に場所を空けたシートを叩いた。大柄なヴォルクが乗れるよう、トコはラスに隙間なく身体を押しつけ、腕を回している。というより、しがみついている状態だ。

「トコ、前にも言ったが、おまえを乗せている時は俺だって安全運転だ」

「そうは言ったってこのバイク、イズマさんの旦那さんが乗ってたやつをラスが適当にいじって走れるようにしたんでしょ? イズマさんの旦那さんが乗ってたってことは二十年も前の乗り物だよ? 燃料だって、本来はガソリンが必要なのに……」

「適当にいじってはいない。ちゃんと、中をバラして構造を研究して……。それに現にこのバイクに乗っていて故障したことは一度だってない。いいからそのクソオオカミ女をおまえの後ろには乗せるな」

 二人が押し問答をしている間にも、空はあっという間に夜を退けうっすらと青が敷かれはじめていた。

「ほら、もう朝だよ。僕お腹すいたしさっさと出発してよ。室長たちに見つかって、朝ごはん抜きなんてことになったらラスのせいだからね」

「人のバイクに黙って細工して追いかけてきたのはトコだろう」

 ラスは目をすがめて長いため息を吐いた。ラスの言葉には耳を貸さず、自分の後ろに乗れとトコはもう一度ヴォルクを振り返りシートを叩く。

「私の足が万全なら、走って追いかけることができたんだが。その、すまない」

 ヴォルクは後ろ髪を指で撫でながら申し訳なさそうに、シートに跨った。トコがラスの運転に支障がでそうなほど身を寄せたおかげで、二人乗りのバイクでもなんとかヴォルクはシートに腰かけることができた。

「謝ることなんてないよ。足を撃ったのはラスだし」

 言いながらトコはヴォルクの両腕を取り自分の前に引き寄せた。ヴォルクの身体がトコの背中にぴたりとくっつく。トコは引き寄せた腕を無理やり自分の腰にまわした。

「おい、私はこんなにしがみつかなくても大丈夫だ。ほら、後ろのこれを掴めば……」

 タンデムレバーに手を伸ばそうとしたヴォルクだったが、ぐいと腕を掴んだトコに阻止される。とうぜん、ヴォルクならば振り払える程度の力だったが、合図もなしにバイクは急発進した。安定しないエンジン音は、ラスの不機嫌に付き合わされているようだ。

 ヴォルクは慣性の法則にしたがってトコの背中に前のめった。

「うわーっ! ヴォルちゃんの胸、筋肉かと思ってたけどすーっごくやわらかーい。やっぱりあとでさわらせてもらってもいい?」

 答えに窮しているヴォルクをよそに、上機嫌のトコは背後からラスの胸をわし掴んだ。

「でもラスのこのふにゅ~っとした胸も好きだよ」

「ああ……それはよかったな」

 ラスは走行風で飛ばされぬよう、フードを深く下した。

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