第4話 12人の女たち
C・C二○五一年。
二千年以上続く歴史の中で、人類を脅かすウイルスは多種確認されている。
しかし人類はそのほとんどを解明し、抗体薬、あるいはワクチンを生成し滅びを防いできた。
『四日、グレープナッツ衛生管理局は未知のウイルスによる感染者を確認。当局は感染者数を二十七名と発表いたしましたが……』
最初のニュースの翌日には衛生管理局が発表した感染者数は五百人にまで増えていた。症状は発熱、咳、頭痛からはじまり、呼吸不全となって死亡したニュースは五日後に報道された。
感染ルートを調べてみると、ほとんどの者が貧困層であったため、不衛生な環境下での感染を視野に調査が勧められていった。
だがその憶測が感染源となったウイルスの調査を遅らせた。といっても、世界中のどこにも存在しない遺伝子情報で構成されていたと判明した。
つまり打つ手なし、の状態で、抗体薬はおろかワクチンさえも作れぬまま、感染者数は分量を間違えたホットケーキのように膨れ上がっていったのだった。
貧困層から中流家庭、高所得者と、ウイルスは経済力には無関心だったようだ。不衛生な環境とは無縁だとタカをくくっていた官僚や、情報番組で憶測をさも理論的に語っていた医学者さえも、ウイルスによってたちまち消えていった。
ついには発生からたった一年で、死者数は人口のそれとほぼ同じになっていた。
「結論から言って、特定の知識を得ている人間は、感染しない。ってことでいいのかしら」
白衣を羽織った女は足を組み替えて乱暴に髪をかきあげた。研究室は疲労とやるせなさと苛立ちで満ちていた。
ある女性研究員は、デスクに両手を着いてため息を吐いた。
「ここにいる、遺伝子工学の最前線にいた者の多くは感染しなかった。これじゃまるで、ウイルスは……」
言葉を詰まらせた彼女を尻目に、エレル・キャンサーは電子煙草の煙を吐いた。もちろん室内は火を使わない煙草でも禁煙だ。
「遺伝子を操ることのできる人間だけを必要とした、ってことになるわね。そのウイルスに選ばれても、ノーベル賞も研究費ももらえないっていうのに、まったく光栄だわ」
「ちょっと! こんな時によくそんな冗談が言えるわね? 何億人って人が亡くなったのよ? 同じ研究室の仲間も……家族だって……」
エレルに今にも掴みかかる勢いだったイズマ・アシメイは、亡くなった者たちを思い涙を浮かべ、デスクに顔を突っ伏した。だが、エレルはそんな彼女に同情するような女ではなかった。むしろ起きてしまったことを悔やんでも誰も戻らない現実を、あまりにもすんなりと受け入れてしまっている様子だ。咎められないのをいいことに、尚も煙をくゆらせているのが証拠だ。
「それは彼らが私たちより優秀じゃなかったって、ウイルスちゃんに判断されたからでしょ?」
「あんたねぇ……あんたには人の心ってもんがないの? 結果的に自分が助かったからそれでいいわけ? もしかして、ほんとうはあんたも感染してて、でも人の心がないおかげで人と認識されず発症してないだけなんじゃないの?」
デスクから顔を上げたイズマが椅子から立ち上がりエレルの前に詰め寄った。
「それじゃあ動物や虫までも感染して死んだってのをどう証明するのかしら。あんたこそ、腹の中では生エリート気分になってるんじゃないの?」
「ふざけないで!」
イズマはエルレの白衣の襟を掴んだ。
「あんたは昔っからそうよ。あの非道徳的な研究を提案した時から、狂った女だと思ってたわ!」
エレルはイズマの手首を掴み、そのまま押し倒した。イズマの背中に当たったキャスター付きの椅子が床を滑りデスクにぶつかる。床にしたたかに背中を打ったイズマは痛みに顔をしかめ目を瞑った。頭を打たなかったのは幸いだが、薄目を開けた先に自身の身体を跨ぎ仁王立ちするエレルの顔を見て、背筋に冷たいものが流れた。
「でも、今はその狂った研究が、役に立つ時じゃない?」
熟れた赤ぶどうのような唇を両端に広げ紫煙を吐くエルレの姿に、その場にいた誰もが悪魔を見たかのような顔をしていた。
世界でも有数の遺伝子工学研究施設のあるグレープナッツ衛生管理局、遺伝子工学研究室では、感染を免れたと十二名の研究者たちが集まっていた。
彼女らのひとりが言ったように、遺伝子分野に秀でた者たちをウイルスが選んだとしたら、ここにいる十二名の研究者すべてが女性だということにも、意味があるのだろうか。
「あら、もうおしまい? さっきの勢いはどうしたの?」
そろそろと立ち上がったイズマの背中に、エレルは嫌味ともとれる言葉を投げた。イズマはドアの前で足を止め、顔だけエレルに振り返った。
「外の空気を吸ってくるだけよ。あんたの言い分だと、私たちは感染しないんでしょ?」
研究室のドアが大きな音をたてて閉じられた。
この研究室のある棟は元より厳重に感染対策が成されていたにも関わらず、棟内で未知のウイルス研究をしていた仲間たちは感染した。
外部との接触は最小限に抑え、くわえてかなり慎重に行っていたにも関わらず感染した。感染経路もわからぬまま、一週間前に呼吸不全で亡くなった男性研究員を最期に、感染者は出ていない。そこでエレルは皆をさっきの研究室へ集めたのだった。
静寂なリノリウムの床に、イズマの足音が響く。消毒液が細かい粒子となって散布されるモーターの音を、イズマはこの研究棟に来てから初めて耳にした。研究室からエントランスまで、誰とも挨拶を交わさずに歩いたことも、初めてだった。
セキュリティパネルに人差し指を近づけると、分厚いガラスのドアが左右に開き、数週間、いや数ヶ月ぶりの風がイズマを出迎えた。
白いタイルが敷き詰められたポーチから門扉まで続くアスファルトの両脇には、様々な木々や草花が植えられていた。しかし無機質な研究棟から解放してくれた草木の香りは、イズマの鼻をくすぐらせるほどではない。半分以上が枯れてしまっていた。
だがそれでも久々に視界に映った緑に、イズマはそれらも自分と同じく何かしらの条件でウイルスの感染を免れていると目を見開いた。と、同時に、眉をしかめて首を横に振った。
今は生き残った理由を考えることから、少し離れたい気分だった。
イズマは白衣のポケットに手を入れた。
今はめずらしい紙巻き煙草のソフトパックはくしゃくしゃになっていたが、最後の一本は折れずにイズマの指の間にしっかりと収まった。
イズマの短く刈り上げていた髪の毛は、すでに風になびく程度まで伸びていて、頬にかかった一束を耳にかける。風を遮るように手をかざし、ライターをつける。軽く吸いこんだはずのひとくちに咳き込んだ。
無理もない。彼女は喫煙者ではない。これは同じ研究員だった夫の形見だ。
南大陸のパインマッシュルーム地方出身の彼女らの黒い髪と褐色肌は、グレープナッツ州ではめずらしかった。
その彼が、いつも好んで吸っていたのは地元の煙草だ。おそらくパインマッシュルーム地方の生存者は皆無だろう。この煙草を吸い終わる頃には、彼も、故郷も、イズマの手から離れ、思い出としか残らなくなる。
彼のおかげで、黒髪に褐色肌でも気後れせず、胸を張って研究員として成果をあげてこられたイズマには、自分がウイルスに選ばれたという気持ちはなく、むしろ世界に取り残された気分だった。
そんなイズマの指先に煙草の灰が迫った頃、空気が振動した気配を感じた。花火が上がった時のような震え。だがイズマの耳には何も聞こえていない。
イズマは「あとできちんと拾うから」と内心で亡き夫に告げ、足元に投げた煙草を揉み消した。ポーチから駆けだし、アスファルトの先にある鉄格子の門扉に目を凝らす。
そこに、二足歩行のオオカミが首をめいっぱい伸ばし、空を仰いでいた。
イズマの頭の中に、エレルが提案した非道徳的な研究が浮かんだ。
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