第3話 好奇心はオオカミを黙らせる

 ラスの真っ赤なバイクの横に、息を切らせたトコが膝に両手をついていた。

 寝る時はせめて着替えろとラスに言われ、しぶしぶ着替えた寝巻きの白いワンピース姿を見るに、ベッドからまっすぐここへ向かって来たのだろう。

「トコ、どうやってここに?」

 背後で呻くオオカミの声など気にも留めていない様子で、ラスはぐっすりと眠っていたはずのトコがここに現れた理由を訊ねた。

「それは、ね、トコ」

 息を整えながらトコは手にした端末を掲げた。手のひらに収まるかどうかの四角いそれは、大人たちがかつて連絡手段として使用していたものだ。

「この、端末はね、電波を利用してあらゆる通信を可能にしていたってのは聞いてるでしょ? だからね、はぁ……」

 トコはいちど大きく息を吸った。

「この世界の似たような構造を持つ分子を探索してそれを端末が感知できるように調整してラスのバイクにも同様の小型端末を設置して……」

 ラスは表情ひとつ変えずに手を挙げた。

「詳しい話は帰ってから聞こう。つまり、俺のバイクがどこへ行ったかが、その端末を通して丸わかりだというわけだな」

 大きく息をついたトコが目を輝かせる。

「そう! 世界の形態が大きく変化しても物質を形成する分子構造にはほとんど変化がないのと同じで、つまり組み合わせや調整をすれば……」

「わかったトコ、とりあえず落ち着け……」

「ああ! あれ、ラス、あれってオオカミ? 僕ほんものを初めて見たよ……つて、怪我して……ラス?」

 興奮気味に捲し立てるも一変して、トコは眉をひそめてラスに振り返った。ラスは、片足を抑えてうずくまるオオカミの元へ、今にも駆け寄りそうなトコを腕を伸ばして制した。そしてトコは、血を流すオオカミの足の原因を目線で問いかけた。

「こいつは最後のオオカミだ。どのみち子孫を残せず淘汰する運命だ」

「だからって、待って」

「研究したいのであれば、遺体の方がやりやすいだろう」

 トコは言葉を詰まらせ、オオカミに再び顔を向けた。

 オオカミは顔を伏せてはいるが、飛び出した鼻と口から食いしばった歯が見える。消炎の臭いがまだ鼻をつく生々しさ。地面に広がり続ける血液。オオカミの血は、赤いのだと二人は知る。

 ラスの言い分は研究者であるトコにとっても理にかなっている。しかしトコの研究はあくまで自身の探究心によるものだ。トコには、この世界の成り立ちについて、自分たちヒトが果たすべき目的について、自らがきちんと納得できる答えを求めているのだ。

「そうじゃないよ、ラス」

 ラスに懇願するような目を向けた時、

「黒髪の女よ、その赤ずきんの言うことが、おそらく正しい」

 目線だけをなんとか上げたオオカミの掠れた声が、ラスに同調した。

「え、うそ……、このオオカミ、喋れるの? それも私たちと同じ言語を」

 ラスの腕を振り払い駆け出そうとしたトコを、ラスはさらに強い力で制した。トコの華奢な身体ぐらい、ラスには腕いっぽんでも容易に止められる。ラスは、いつもオオカミの遠吠えに苛立ち飛び出していく自分を止めるトコの手を振り払わなかったことを、ここに来て後悔していた。

 もっと早くに、オオカミを淘汰したとしてもしなくても、こいつらは自滅していたのだ。彼らの遺体から脳を取り出し調査すれば、言語能力を持っているかどうかぐらいトコには解明できただろう。トコの探究心が膨れ上がる前に、始末しておくべきだったと、ラスは上体を起こそうとしているオオカミに目を引き絞った。

「私は、見ての通りの有様で、ほかに生き残ったオオカミもいない。これは我々種族が起こした間違った生存戦略の果てだ。貴様の研究とやらにこの身体を使うもよし、赤ずきんが言ったようにどのみちオオカミは絶滅する。そういう世界になってしまったのだ……。足掻くことすら無意味だったのだ、我々弱者とやらは」

「おまえと意見が一致するとは厄災でも起きそうだな。だが世界の理を理解する知性があったことは覚えておいてやる」

 再びライフルを構えたラスの腕をトコは掴んだ。いつものように、ラスにとっていつでも振り払うことのできるその細い手を尊重していたが、今回ばかりは易々と振りほどく。

「ラスも、その……あなた、オオカミも違う!」

「ヴォルクだ。墓にでも刻んでくれ」

「おまえなんぞに建ててやる墓はないがな」

 命がひとつ、消えようとしている状況下でトコは思考を巡らせた。

 この世界の理について、それに沿って自分たちヒトが作りだされた意味、そしてオオカミが二足歩行と言語を習得した理由。

「まって、待ってまってラス!」

 銃口がヴォルクの頭部に狙いを定める。ヴォルクは固く目を閉じる。

 弱者であることに抗った最期は、決して悪いものではなかった。仲間同士で生きるべき命を選択したことも、それも生きようと足掻いた結果だ。

 トコの制止には耳を貸さず、ラスは引鉄に指を乗せる。

「ヴォルクさん、胸がすごく膨らんでる! 室長よりも、ラスよりも大きい!」

 トコはぐいとラスの控えめな胸を揉んだ。

「……っ、ああ、たしかにそうだが今は……」

「あなた、メスなの?」

 ライフルを構えることに両腕を取られているラスは抵抗もできず、ましてや走り出したトコを止めることもできなかった。

「トコ! やめろ! そいつは変化しているが、狼だ!」

 足に怪我を負っていようとも、近づいた獲物に牙を向くことぐらいはできる。なにせこのオオカミ、ヴォルクはほかのオオカミを根絶やしにしたほどだ。いくら群れを成すことで生存を計ろうとするほど愚かで弱い生き物でも、トコにはラスのように戦闘には明るくはない。

 ラスはトコに向けた視線を再びスコープに戻した。

 ヴォルクまでの距離はおよそ一メートル。外すわけがない距離。弾丸はトコがヴォルクに追いつくよりも早くにヴォルクの頭部に着弾する。

 ラスは舌を打ってライフルを提げた。

 首を横に振ったあと、トコの背中を追う。

 ヴォルクにいたっては、目を輝かせてこちらに走ってくるトコに気後れしている様子だ。割れんばかりに食いしばっていた歯を解き、わずかに口を開けている。

 そうしている間にもトコはヴォルクの前に屈んで、躊躇いも恐怖もまったくない、まるで好奇心が服を着ているかのように、ヴォルクの両肩を掴んで上体を起こしていた。

「すごい! オオカミって狼と違って、性差は人間やヒトと同じなんだ! あ、いちおう僕、同性なんだけど触ってもいい? ああ、ごめんごめん! それより怪我の手当の方が先だよね。ごめんね、僕、オオカミを見るのが初めてでさ、ラスみたいに君たちの遠吠えも聞こえないし、だからすっごく興味があったんだ」

 無理やり上体を起こされ胸部をまじまじと見られたかと思えば、撃たれた左足に視線を落とす。そんな好奇心の赴くままに言動が目まぐるしく変わるトコには、ヴォルクも牙を収めるしかできないでいる。

 慌ただしトコに追いついたラスは、その見慣れた光景に腕を組み、大きくため息をついて見せるも、トコには背後のラスなど思考の外だ。

 いつのまにかヴォルクの背後の空が白み始め、かろうじて使えそうな建物に、集めた瓦礫やトタンを張り付けたバラックのような居住区に色が射した。いくつか倒壊しているが、寄せ集めで集落を形成していた光景は浮かぶ。

 寝巻きの白いワンピースの裾を破くのに手間取っているトコを見かねたラスは、紙を裂くかのように止血のための布を用意してやった。

「ありがとう、ラス」

 丸眼鏡の奥でくったくなく笑うトコに、ラスは本心が歪んでいると歯噛みしつつも、無意識に手を貸してしまうトコの人柄に救われている自覚もあった。

 山の稜線から下ってきた澄んだ空気を含む風が、複雑な表情のラスの髪の毛を掬う。林の間を縫って射し込んだ朝日が、銀色を靡かせる。

 一日のはじまりに侵食されつつある残酷な生存戦略の果てに、強者を自負する女と、敗北を突きつけられ弱者と罵られたオオカミが対峙している。

 トコはその光景に、あっ、と思考と視界からの情報に気づかされた顔をした。

「そうだ、そうだよ。行動原理に違いはあっても、僕らは例のウイルスによって篩にかけられたとしても、ヴォルクは変化してこの世界に生かされたんだ。ラスが弱者だと言っても……オオカミは、オオカミは残された……その意味はきっと、ラスの中にあるのかもしれない」






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