第2話 射抜く声

 トコのか細い手など、ラスは簡単に振りほどくことができた。

「ラス、もしかして、怖いの?」

 ただ、震える手を振り払うことができなかっただけで。

「なんで俺が? 怖いのはトコだろ」

「そりゃあ怖いよ、ラスが」

「俺が?」

「そうだよ。だって僕にはなにも聞こえないのに、遠吠えってなに? ラスには何が聞こえて、何が見えているの?」

 この耳障りな遠吠えは、人間である大人にも、同じヒトであるトコにも聞こえないらしい。

 それがオオカミの遠吠えだとわかったのは、ラスの言葉をトコが大人たちに詳細かつわかりやすく説明したところ、かつて存在していた狼という動物の特徴とよく似ていたからだ。

 それから大人たちの調査により二足歩行の狼が目撃され、トコが生前の資料を分析し、オオカミたちがどういった理由で遠吠えをしているかの憶測が立てられた。

 トコは、とにかく勉強ができた。

 ラスより三年遅く完成したヒト型生体であるトコは、五年後にはラスの学習容量を追い抜いていた。

 極端に視力の悪いトコは幼年期から眼鏡を必要とし、ラスの銀色とは打って変わって黒い髪の毛を、いつも頭頂部で雑に括っている。

「せっかくのきれいな黒髪なんだ。たまには梳いたらどうだ?」

 ラスが結わえたゴム紐に手を伸ばそうとすると、トコは

「それならラスだって、そのきれいな銀色の髪に適当に鋏をいれるのをやめたら?」

 といたずらっぽく笑う。

 銀色。

 ラスのフードが風にはためいた時だけに、太陽がもたらす銀色。

 普段は灰色に見える髪は、光を通すことで銀色に輝く。

 それはまるで―。


 固く瞑った目をこじ開け、ラスは不可解な顔で自分を見下ろしているオオカミを睨みつける。

「おまえのその、耳障りな遠吠えを、間近で聞かせるな……! 耳がイカれちまう」

 ラスに落とされた訝しんだオオカミの目が、見る間に見開かれた。苦悶するラスの表情にも苦言にも返す言葉を忘れ、重心がゆっくりと後ろに下がっていく。

 幾重もの耳鳴りが鼓膜を突き抜け脳を掻き乱す感覚に、ラスは気が遠くなった。だが、隙を見逃すまいと、いくらか軽くなった身体を右に寝返り、倒れたライフルに手を伸ばした。赤いフードは脱げ、肩のあたりでちぐはぐに切られた髪がなびいて、ライトの明かりが銀色に照らす。そして揺らぐ脳に歯を食いしばりつつも素早く構えたライフルの先で、オオカミは恐れよりも驚愕の表情でラスを見ていた。

「なんだ。おまえらのその遠吠えは、俺にとってひどく不愉快なんだ。どういうわけか知らないが、そんなことはどうだっていい。最後のオオカミであるおまえを殺せば解決するんだから」

 言いつつラスは、ラスにだけ聞こえる遠吠えに興味を抱いていたトコに胸を痛めた。オオカミの遠吠えとラスの因果関係についてを解明する機会をこれから奪うのだ。まだ謎の多いこの世界の理についての研究に没頭するトコのことを思うと、ラスはトリガーに乗せた指に力を篭めることを躊躇った。

「貴様、もしや偶然、私の前に現れたわけではないのか?」

 やっとのことで頭の中の疑問を口にしたオオカミの声は震えていた。

 これまでオオカミたちの遠吠えに反応したのはオオカミだけだった。

 しかしそれは、トコがラスを引き止めていただけで、そうでもなければラスはもっと早くにライフルを持ってオオカミたちの元へ現れただろう。

 オオカミらは、この遠吠えを自分たち同種にだけ聞こえる、共通言語のようなものだと思っていた。

 現に、トコやほかの人間たちは、オオカミの遠吠えを耳にしたことはなかった。世界が一変してからは、狼もほかの動物同様に淘汰されたとすら思われていた。

 オオカミの問いに、ラスはライフルを構えたままで答えた。

「偶然だと? こんな夜中にわざわざ愛車に乗っておまえらの前に出向く酔狂なやつがいるか」

 オオカミはいちど、唾を飲み込み喉を潤した。

「では貴様には、我々の遠吠えが聞こえているのか? これまでの遠吠えも、貴様には聞こえていたのか?」

 ラスは片眉をあげた。

 自分にしか聞こえない遠吠えとはすなわち、オオカミ以外の生物には聞こえない、特殊な音波による可能性をトコは推測していた。しかしラスはそれよりも、自分だけが夜中に頻繁に聞こえるようになった遠吠えに眠りを妨げられることの不快さ、それも淘汰されるべき弱者によって引き起こされている事実が許せなかった。

「だからなんだ。こっちはそのせいで最初はトコや周りの大人たちに不気味がられもした。おまえら弱者の声が俺にだけ聞こえることも不愉快でしかない。俺はおまえら淘汰されるべき生物の片鱗を宿しているかと思うと虫唾が走る」

 だいぶ明瞭になってきたラスの頭は、ふたたびオオカミへの怒りに満ちた。そして当初の目的を果たさんと、人差し指に力を込めた。

 膝立ちで驚嘆の表情を浮かべていたが、オオカミは生来の俊敏さで発砲音と共に地面に伏せた。

 ライフルなど必要としない距離で、危機を感じとる意識よりも早くに身を守る身体能力は、臆病ゆえの行動だとラスは銃口から昇る煙のように、ふっと鼻で笑った。

 ―そうだ、俺がこんな子どもでも外さないような距離で射抜けないなど、こいつの臆病さがそうさせているのだ。こんな生物はこの世界には不適応だ。でなければ適応すべく生まれた俺たちの存在が無意味になる。生きるべきは、俺たちヒトでなければならない。


 オオカミは地面に両手両足の爪を立て、かつての狼のごとき体勢でラスを睨みつけた。

 同種にしか聞こえないはずの遠吠えを感知できる生物。だとしてもこの者は同種ではない。自らを強者と位置づけ、それ以外は淘汰すべきという独裁的な者が、共に手を取り合い生きる術を模索した、オオカミと同種のはずはない……。

 かといって、仲間ではないから殺す、という考えはオオカミの胸に靄をかけた。だが話し合いで解決できるような相手ではないこともわかっていた。かつて話し合いによってもっとも強い者が残るしかないと決まったように、いくら理性と倫理を重ねても、生きるとは誰かの死からは逃れられないことをオオカミは痛いほど知っている。

 ―さて、

 ラスは弾の残りを数えた。

 オオカミはラスの持つライフルに、あと何発弾が残っているかを想像した。

 生きるために逃れられない他者の死。

 ラスやトコは、この世界の変化に耐えられず死んだ者によって生まれた。そのためにも証明せねばならないのだ。自分たちは、成功したと。この世界の適合者だと。


「臆病者よ、その足の速さだけは認めてやる」

 狙い定めたと思った銃口が素早く下を向いた。そこから照準を合わせる素振りもなく、深い闇を切り裂くような銃声が響いた。

「ラス!」

 背後から自分の名を呼んだ声に、ラスの肩は覚えず跳ねた。

 林を抜けた先の、なんの目印もないこの場所に、どうやって辿り着いたというのだ。

 ラスは振り向いて、つけっぱなしになった愛車のライトと、その後ろに立つ彼女に目を細めた。





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