赤ずきんハザード
百舌
第1話 この世の理に頭を垂れろ
それは、最後のオオカミが、自分が生きた証を告げるための、どこにも残ることのない、証明だった。
いくつかの植物と、いくらかの瓦礫だけが音を遮る世界に、オオカミの遠吠えが、空から大きな布を広げたようにゆっくりと空気を震わせた。
女の重たい瞼が開く。
「またあいつらか。夜は大人しく寝るもんだ」
おまえらは永遠にな。と零しながら、女はついぞ我慢の限界だとライフルを手に取った。しかしトコという少女の言葉が頭に浮かんで、一瞬だけ行動を躊躇う。
これ以上生き物が減るのは得策ではないと、女が遠吠えに苛立つたびに、トコはライフルを手に飛び出して行こうとする女を制した。
友人ではない、姉妹と呼ぶ方がふさわしい、同じ遺伝子配列を持つ丸眼鏡のトコ。
けれど彼女は今、三日間も寝ずに研究に没頭していたため、女の行動には気づかず隣でぐっすりと眠っている。
女はトコのずれた眼鏡をそっと外し、サイドテーブルに乗せた。次いで手を伸ばし、壁にかけてある赤いフード付きポンチョを掴む。
彩度の低いこの世界で一際目を引く赤を、頭まですっぽりかぶる。日が落ちても癖でフードを被ってしまう女はまるで、遠い昔に慣れ親しまれた童話の主人公を想起させる。
その物語を彼女らは知らずに育ったが、まだ絵本があたりまえに存在していたころから生きていた大人たちは、彼女をこう呼んだ。
『赤ずきんのラス』と。
負け犬ならぬ、負けオオカミ。
ラスはたっぷりと侮蔑を含んでオオカミたちをそう呼んでいた。
そう、オオカミたちはこの世界の理に負けたのだ。その敗者が世界に存在を許された強者の眠りを妨げることが、ラスには我慢ならなかった。
いっぽうで研究者のトコは、この世界に起きた生態系の大変化についての『事実』を突き止めたいようで、そのためには強者であれ敗者であれ、生き残った生物には興味を抱いている。
しかしトコの研究心によってこれまで生かされていたオオカミも、もはやこれまでのようだ。
ラスは弱者に興味などない。
この世界の理が生んだ彼女にとって、弱者はそのルールに従い淘汰されるべき存在なのだ。
遠吠えは、ラスの眠りを妨げたその一度きりだった。
トコによると、オオカミの遠吠えは仲間への合図から開戦の合図へと変わったようだが、合図に反応した遠吠えは、ラスが外へ出てからも耳に届いていない。
ラスは少しだけ訝しんだが、遠吠えに反応がない理由などどうでもよかった。
弱者であるオオカミが存在している事実が、ラスはとにかく気に入らないのだ。
「トコには悪いが、この世界は私たち強者だけを必要としているんだ。おまえの興味を削ぐ行為には少し胸が痛むが、代わりにオオカミの死骸を手土産にしてやるから許してくれ」
ラスは愛車の真っ赤なバイクに跨りトコへの詫びを呟くと、エンジンをふかした。そしてすぐさま遠吠えが聞こえた方へハンドルをきって走り出す。
オオカミと呼ばれる弱者の居場所について、ラスは確信に満ちていた。
耳に届いた遠吠えは、ラスにとってまるで道を示すかのように認識される。音が一本の線となって、発せられた場所まで伸びているのだと本人は言うが、トコにはその原理を理解するまでしばらくかかった。まるで反響音を利用した潜水艦のピンガーを思わせるラスの聴覚は、同じ遺伝子を持っていてもトコにはない能力とでも言うべき特徴だ。
形態変化を受けたオオカミは、頭部から胴体、四肢にいたるまでは、かつて動物として存在していた狼のそれと変わりはない。
毛に被われた身体、伸びた鼻先は黒く、獲物を狩るための鋭い歯と爪、仲間の声を敏感に察知する三角の耳。外見は概ね動物だった頃と同じだ。
だが二足歩行に変化したオオカミは、地面に膝をつき項垂れていた。身体が毛に覆われていなければ、まるでひどく落ち込んでいる人間だ。それすらもラスには腹立たしく映った。
落ち込んだオオカミは、こちらに迫ってくるエンジン音と、暗闇に丸く浮かんだライトの光に目を細めてはいたが、警戒態勢もとらず威嚇するわけでもなく、ただ深夜の来訪者に視線を投げていた。
ライトの明かりが車体と搭乗者を闇から照らす距離まで近づくも、オオカミは背中を丸め、眩しさに細めた目は虚ろだった。
この者が、自分に脅威である可能性があるとしても、そうでないにしろ、もはやオオカミにはどうでもいいことのように。
ラスはあたりを見回し、鼻で笑った。どうやらそこは、オオカミの集落だったようだ。
「とうとう同胞を屠ったか。やはり集団は脆いな」
嘲笑を含んだ声音にも、オオカミは怒りを見せる様子はなく、ふいと視線を外しただけだった。そしてその視線の先は、暗闇のせいだけではない、黒ずんだ手のひらがあった。
投光器を向けられたように、オオカミはバイクのライトを一身に浴び、その姿をラスに晒している。
本来の狼のそれである、銀色にも見えた毛は砂埃に塗れくすんだ灰色と化し、ところどころが赤黒いもので固まっている。人間の髪の毛のように項のあたりから腰まで伸びている毛と、二の腕の隙間から見える妙に発達した胸筋、とは思えないくらいの膨らみを見るに、変化したのは二足歩行だけではないと見える。
「メスのオオカミよ、あたりを見るに、おまえはオオカミの中では強者だ。だが集団で生活する本来の性質はこの世界には不適合だとわかっただろう?」
ラスの問いかけに、オオカミは力なく項垂れたままだった。
そもそも、ラスとて反応を期待しているわけではない。いくら二足歩行で人間のいくつかに寄った変化が生じたとしても、集団生活を基盤とした本能を鑑みれば、知能までは人間のそれには及んでいないと推測していた。
だからこのオオカミが、人間を基礎として作られたラスの言葉を理解できるとは思っ てはいない。言わばオオカミに投げた言葉は、ラスの独り言だ。
言葉を理解できない相手に自身の思想をぶつけ、満足したラスは背負ったライフルのベルトを引き寄せた。銃口が空を切り、銃身はラスの肩甲骨を滑り右肩の上でぴたりと止まった。ラスの両手はまるでライフルと連動しているかのようによどみなく、左手で銃身を受け取り、トリガーに指を添えるべく開いた右手にグリップがストンと収まった。
背後から照らすライトがラスの背中から溢れ、ライフルが鮮やかなモスグリーン色であることを映している。長い銃身を持て余す距離は正確な死を連想させ、逆光に浮かんだ真っ赤なずきんは、さながら返り血にまみれた悪魔のように見えなくもない。
なんせ相手は無抵抗だ。加えて半壊した住居、鼻先を掠める夜風の中にうっすらと腐敗臭が混ざっている状況。そして何より彼女の様子から、望まざる生存、死なぬ手段として選ばざるを得なかった〝生〟の果てに、最後のオオカミとなってしまったと窺える。
そんな相手に銃を突きつける行為は無慈悲と言ってもいいだろう。
だが、ラスにはそれこそが気に入らないのだ。
死を目の前に控え、なおも沈黙するオオカミに対しラスは眉間に皺を刻むと、装填のためにボルトに指を伸ばした。
オオカミの口元がうっすらと歪んだ。
「なにが強者だ。作りものの人形が」
小気味よい金属音の合間を縫って、ラスの耳に低く掠れた声が届いた。
「おまえ、言葉を理解できるのか」
ラスは心底気味が悪いと言いたげに舌を打った。
本来、狼とは言葉はおろか二足歩行もできない生物だった。それがラスやトコの元となった『人間』に知能までもが似通っている。いや、もしかすると同等なのかもしれない。
そんな不気味な予想をラスは急いで払拭した。
―この、不適合な習性をもつ生き物が、俺たちと同等の知能を有しているはずがない。もしそれほどの知能があるとすれば、わざわざ集団で生きる選択など摂るはずがない。たった一匹となって、やっとそれがわかる愚かな生き物と、俺やトコ、『ヒト』が同等などありえない。
ラスは恐れを振り払うとトリガーに指を乗せた。
「貴様ら、ヒトと呼ぶのだったか。強者だの弱者だのと選り分ける、独裁者気取りの生物は。手を取り合って生きることもできない、寂しい生き物は」
夜が銃声によって切り裂かれた。
丸く広がるライトだけが、オオカミの鋭い牙に反射する。明かりがうなじから伸びた長毛を透かす。大きく揺らいだ尻尾に銃弾が掠る。
風のない夜に、銃声よりも早くに跳躍したオオカミの、空気を切り裂いた音を、ラスは耳のすぐそばで聞いた。それでもラスは微動だにせず、ただ視線だけを首元に噛みつかんとしているオオカミに落とした。
「おまえが俺を殺したところで、おまえが多少長生きするだけだ。やはり言葉が理解
できると言っても、知能はヒトのそれには及ばないな」
ラスは侮蔑を込めた低い声で言った。ついさっきまで虚ろな目をしていたオオカミだったが、鋭い眼光でラスを突き刺している。
「知能がどうこう以前に、世界に適応できなければ作り変える貴様らヒトは、まるで生き物というより物だ。貴様らは強者でもなんでもない。そもそも生き物ですらない。そんな貴様に、生殺与奪の権利を与えるくらいなら、私は自らの首を切るか腹を抉る方がマシだ」
空気が動く音が交差する。
次いで、といっても常人には同時に見える速さだが、銃声によって夜がひび割れる。砂埃が光の中でスモークのように舞う。真っ赤なポンチョが、闘牛士が牛を避けるかのごとくはためく。ラスの視界に暗闇が流れ込み、フードが肩まで伸びた銀色の髪の毛を晒す。ひんやりとした地面の感触がラスの背中を強かに打った。
一瞬だけ顔をしかめたが、相変わらず無情な声音をラスは貫く。
「雄弁家を気取りたいようだが、あまり喋ると無知がバレるぞ」
「共存を捨てた人間気取りでも、気遣いの心があるとは驚きだ」
仰向けになったラスに視線と銃口の先を向けられたオオカミもまた、気圧された様子はない。
白ける時まではまだ十分な時間を持つ暗闇を、オオカミが覆い隠す。額に口づけられた銃口。一瞬で命を絶たれる間合いで、オオカミ はラスの顔の両端に手をつき、見開いた目を落としている。
お互い、いつでも殺す準備はできている。
ただ殺す理由を違えている。
排除したい者と、誇りを守るために殺そうとする者。
二人はどちらの言い分が正しいかを決めるために、生き残らねばならない。生きぬいた者、すなわちそれは、世界に適合できた証でもある。
たとえば世界が急速に寒冷化したとき、寒さに耐えられない生物は生き残ることができない。その世界では、寒さに適応できた者が正しいのだ。
ラスの言っていたように、オオカミたちは本来の性質同様に集団で生活をしていた。
子どもや老人、怪我人や病人だろうと、すべからく同等に扱い、皆で生きることが正解であるとしてきた。
しかし、大規模な形態変化に伴い、オオカミのように変化しなかった動物は絶滅し、食糧の確保が難しくなった。
最初のうち、オオカミたちはより多くの仲間を集めようとした。小さな集団よりも、ひとつの大きな集団をつくることで知恵を集め、団結し、この大きく変化した世界を生き延びようと考えたのだ。そのために遠吠えを利用し、仲間を募った。
だが、集団の規模が大きくなるも、食糧難は解決せず、それどころか仲間うちで食糧の奪い合いが頻発するようになってしまったのだ。
そこで言語を得たオオカミたちは、食糧を得るべきではない者の噂話をするようになった。
「あいつは食糧の確保に非協力的だった」「あいつはメスにだらしがない」「あいつは昼寝ばかりしている」など、他者を非難する理由ならなんでもよかった。そういった噂話により皆の評価が下がった者は、食糧を分け与えずとも許される理由になる。それによって餓死したとしても、自己責任だと誰も悪者にならずに済む。
しかし噂話だけでは口減らしが追いつかなくなったオオカミたちは、決闘システムを導入した。
生き延びるため、種族を後世にまで残すために、より強い遺伝子を持つ者だけが食べることを許される仕組みが生まれた。
決闘は、見届け者の元で行われ、遠吠えはその際の合図として使われるようになった。
仲間を集うためではなく、これからどちらかが生き残るべきかを決めるための遠吠えとなった。
「私が子を産むとき、そのために犠牲となった者の顔が浮かぶだろう」
メスのオオカミは、いちばん強い遺伝子を持つオスのオオカミに組み敷かれたまま言った。
メスのオオカミもまた、いちばん強い遺伝子を組み合わせるために決闘システムに参加させられた。
決闘を申し込まれた者に拒否権はなく、少ない食糧を腹いっぱい食べる権利は、勝者にのみ与えられている。生き残るために仲間の息の根を止める。子どもや老人、怪我人や病人は真っ先に決闘で負けた。それらの人々にも手を差し伸べ、仲間として生きてきた結果、必要な食糧は増え、反して摂れる食糧は減り続け、手が回らなくなった結果に、メスのオオカミは不本意と言いくるめてきた自分も、自分に覆いかぶさるオスのオオカミをも、許せなくなっていた。
いちど、オオカミは歯を食いしばると、天を仰ぎ、遠吠えをあげた。
それはぐんぐんと伸び、両手を広げた夜空が吸い込まんとする。
そのとき、噛み殺し損ねたラスの呻き声が、広がる遠吠えに裂傷をつけた。
はたとオオカミは遠吠えを止め、ラスを見下ろした。
ラスはライフルから手を離し、両耳を押さえていた。
モスグリーン色のライフルが、あっけなく地面に倒れた。
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