きみのナイト 3

 芽依はお気に入りのグレーのミニスカートと紺色のジャケット姿で電車に乗った。

 白峯は下北沢のライブハウスのライブに出演するということだった。


 ライブハウスの入口には女性客が集まっていた。そこで芽依は思わず立ち止まった。見たことのある、青いTシャツ姿の少年がいたからだ。――それは、近所に住む中学生の三浦俊樹だった。


「ちょっと、なにしてるの? こんなところで!」


 と芽依が呼びかけると、俊樹は真剣な顔で言った。


「そんなことより、お姉ちゃん、行くのやめなよ」

「え、なんで?」

「いいからさ」

「いや、行くよ」

「どうしても?」

「うん。そりゃね」

「だったら、……僕も行く」

「え?」

「お姉ちゃんが行くなら、僕も行く」

「えー。そんなのダメだよ。子供の行く所じゃないし」

「それなら、お姉ちゃんだって未成年だろ。お父さんとかは、ここに来ること知ってるの?」


 芽依は思わず口ごもり、小さな声で答えた。


「……言ったら反対されるでしょ」

「連れて行ってくれたら、黙ってるよ」

「……もう」


 チケット売り場のスタッフは訝しげな視線を送ってきたが、芽依は2人分のチケットを買って、中に入った。

 エレベーターに乗り、2階の会場に入った。

 あたりにはタバコのにおいと、香水のにおいが充満していた。内装は銀色の壁に覆われており、壁にはディスプレイやポスターやスピーカーがあった。

 芽依はバーカウンターにチケットを見せてオレンジジュースと交換した。俊樹も見よう見まね、という感じでオレンジジュースを注文したようだ。


 やがて演奏がはじまった。

 白峯のいる『バッドトリート』は3人組のバンドで、4番目の出演だった。

 白峯は茶色い長髪に、白いジャケットを着ていた。リードギターをかき鳴らしながら、3曲を歌った。

 周囲からは女性の歓声が絶えず聞こえた。



 ライブが終わったとき、芽依は俊樹がいなくなっていることに気がついた。しばらく探し回ったがいなかった。おそらく、疲れて先に帰ったのかもしれない。

 BGMや嬌声や片付けの音が響き、どこにいても店内は騒々しかった。


 そのとき、女性客の山の中から、背の高い人影が近づいてきた。なんと白峯だった。


「きょうは、来てくれてありがとう」

「あ、あ、いえ! すごく、すてきでした!」

「はは、ありがとう。ところで、よかったら頼みがあるんだけど……」

「頼み?」

「ああ。新曲を考えていてね。奥の楽屋で、ちょっと聴いてみてほしいんだけど……。ごめん。いそがしいよね?」

「え、いえ! ぜんぜん大丈夫です。わたしなんかでよかったら」



 芽依は白峯にうながされるまま、裏口へと進んでいった。やがて白峯はあるドアの前で立ち止まり、そこを開けた。

 中には小さなパイプ椅子があり、その周囲には機材や段ボールが置かれていた。

 芽依は浮かれた気持ちでその部屋に入った。小さな倉庫みたいな場所だった。薄暗くてかび臭かった。その瞬間、芽依は背筋が寒くなり、心臓が脈打ってくるのを感じた。


 ガチン


 白峯がドアのロックをかける音がした。芽依は言った。


「え、ギターとか、そういうのは……」

「そんなモン、ねえよ」


 そう言って、白峯は芽依の腕を掴んだ。


「ちょっと……。なにするんですか!」

「オレのこと、好きなんだろ?」

「いえ、ちょっと。そういうんじゃないので……。ほんとうに、やめてください。こんなの……」

「静かにしろよ。――もっとも、この騒音じゃ、誰も気づかねえだろうがよ」


 そう言って、白峯は芽依の顎を右手でとらえて、顔を近づけてきた。

 白峯が言った通り、店内は話し声や足音、片付けの音などでやかましかった。叫び声ひとつ上げたところで、気づく人はいないだろう。


 そのとき声がした。


「やめろよ」


 芽依がそちらを見ると、三浦俊樹がいた。いつの間にかいなくなっていた彼だ。部屋はロックされているはずなのに。

 白峯は俊樹をにらんで、


「なんだ、テメー、このガキがッ」


 そう言って俊樹に蹴りを入れた。俊樹は後ろに吹き飛んで、壁にぶつかった。

 芽依は声を上げる。


「ちょっと、俊樹くん! 大丈夫⁉︎」


 そのとき、部屋の照明がまたたいたかと思うと、真っ暗になった。

 すると、けたたましい獣の鳴き声が響きわたった。怒りに満ちた、鋭い声が続いた。


「シャー!」

「フギャーッ!」


 続いて白峯の悲痛な叫び声が聞こえた。


「うおーッ! やめろ。なんだおまえは! やめろ! 痛てえー! やめてくれーッ!」


 しばらく獣の唸り声と叫び声、揉み合う音が続いた。

 やがて照明が戻ると、白峯の顔が血まみれになっていた。白峯は顔をおさえて、悲鳴とともに部屋から飛び出ていった。

 それからあたりをどれだけ探しても、俊樹の姿はなかった。


 その後芽依はライブハウスの女性スタッフに話をして、深く謝罪を受けた。また、警察もきて、白峯が連れていかれた。

 白峯の怪我については、芽依が錯乱して抵抗したものだということになった。



 翌日の日曜日、芽依は三浦俊樹の家に、お礼のためにクッキーを持っていった。

 インターフォンを押すと俊樹の母親が出てきたが、こう言った。


「俊樹なら、昨日の朝から、お父さんと長野県の実家に言っているわよ。え、昨日会った? ええ? 夢でも見たんじゃないの」


 芽依は混乱して、自宅に戻った。


 だったら、あのとき助けてくれた三浦俊樹はなに?

 あんなふうに、守ってくれて。

 なにが起きたの?


 どれだけ考えてもわからなかった。そうしているうちに、芽依はスマートフォンを開き、凛都の店――アルカナアイズを検索した。


 翌日の日曜日、もういちど予約をとって、凛都に会いにゆくことにした。



   *   *



 日曜日の夕方、凛都は蒼幻のテーブル席で、正面にいる芽依に言った。


「結果としては無事なようで、なによりだったね」


 鑑定をするときは凛都の店でやることが多いが、気分によってはこうして、となりの喫茶店を使うこともあった。

 芽依は言った。


「あの。凛都さん。わたしは……」

「ああ。わかってる。きみは何者かに助けられた。そうだね」

「ええ。でも、あれがいったい、なんだったのか……。俊樹くんっていう、知り合いみたいだったけど……」

「ちょっと、目をつむって」

「え?」

「大丈夫だから、少し、目をつむるんだ」


 すると、凛都は芽依の目の前の空中に指先を走らせた。


「よし。目を開けるんだ」

「は、はい。……いまのは?」

「おまじない」

「はあ。それで、あの、俊樹くんはなんだったんでしょうか」

「護られたんだ」

「え?」

「あの日オレのところに、黒猫がやってきた。さよならのまえに、きみを護らなければいけないんだと言って」

「黒猫? え? まさか、ナイト?」

「彼は言っていたよ。――芽依に危険がせまっている。ミュージシャンの男が、悪いことをする気がする。それが視えるって」

「ナイトが、そんなことを? だってナイトは、わたしを恨んでますよ! 夢にも出てきて……」

「いや、それは、きみに警告していたんじゃないかな」

「え? ……警告。でも、そうだとして、あの日にいたのは、俊樹くんでしたよ!」

「そうかもな」

「もしかして、凛都さんが、なにか……」

「ふッ。さてどうだろうな。ただ、彼は望んでいたんだ。ライブの日に直接話しかけて、きみを止めたいって。ダメだとしても、少しでも近くで護りたいって。それに、長く生きた猫は、人に化けるらしいな。――いや、そんなことより、後ろを見るといい」


 芽依はいぶかしげに、店の入り口の方へと振り返った。そこで小さな悲鳴を上げる。

 店の入り口の茶色のマットの上に、一匹の黒猫が前脚を舐めていた。

 芽依は立ち上がる。


「ナ、ナイト……!」


 ナイトはいちどナーオ、と柔らかく鳴いて、店のドアへと振り向いた。そして、ドアをすり抜けて外へ出ていった。

 芽依はそれを追いかける。ドアベルがカランと鳴る。凛都も立ち上がり、それを追いかけた。


 視えざるものを視えるようにする『おまじない』は、芽依に効いたようだ。


 芽依は蒼幻の前で立ちつくし、ナイトの後ろ姿を見ていた。両手で口元をおさえ、嗚咽を漏らしていた。

 ナイトは夕焼けに包まれたプラタナスの街路を進んでいった。その姿はどこか誇らしげに見えた。


 芽依は泣きながら体を震わせて、声を絞り出した。


「ナイトが、助けてくれた。ナイトが……! ナイト。ごめんね……。わたしは……」


 凛都は芽依に近づくと、背後からそっと話しかけた。


「ナイトは、きみを恨んでなんかない。きみを、ずっと見守っていたんだ」



 きみのナイト おわり

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