第30話 影のものとの邂逅
「もう帰っちゃうのかあ」
「また明日会えるってば」
「……そうだけどさ」
壁掛け時計は午後二時少し前を指している。いそいそと帰り支度をする私を、史穏くんがじっと見ていた。
ボソボソと呟く姿はやっぱり雨に濡れた子犬みたいだった。そんな彼を放っていくのは忍びないけれど。
「体調不良で帰ったってことになってるのに、帰りに同級生と鉢合わせたら面倒だもん」
「うん、わかってる」
史穏くんが少しご機嫌ななめなのとは対照的に、史穏くんのお母さん……おばさんはずーっと機嫌が良かった。お昼ご飯をご馳走になっている時も、帰り際、玄関まで見送りに来てくれた今もそうで。
「今日は、本当に本当にありがとうございました!」
「いいのよ。よかったら、またご飯やお茶しにおいで。あんなに喜んでくれたら作り甲斐あるし、お話しするのも楽しかった! ウチは息子の彼女はいつだって
「は、はい!」
「駅まで送ってくるから!!」
今にも私を抱きしめてきそうなおばさんを引き剥がすように、史穏くんは大声で吠えた。綺麗な顔を真っ赤に染めて、今にも湯気を出してしまいそうになっていた。それを見て私もちょっと熱くなる。
やや乱暴に玄関ドアを開いて閉じた史穏くんは、ドアに向かって唸ったあと、こちらを向いて赤い頬で苦笑いする。
「ごめん。色葉……母さんがうるさくて」
「そうかな、楽しかったよ。美人で、お料理も上手で、優しくて、素敵だった」
一方的なことも多かったけど、全然嫌な感じはしなかった。たくさん話しかけてくれたことで不安が紛れたのだ。それに母も賑やかな人だから、おしゃべりな人の方が安心するのかもしれない。
「そう……」
史穏くんはそっけなく言うと、ぴょんと玄関ポーチを飛んで降りた。着地でよろけたのにちょっと肝が冷えたけど、こちらを振りかえって何でもなさそうな顔をしている。
「しゃべりすぎなんだよ。まあ、読めない人が相手だと調子が狂うのは僕もなんだけどさ……ちゃんと口に出して伝えないといけないって思うと、つい話しすぎてしまうというか。ごめん」
「ちゃんと合わせてくれて嬉しいと思ってる」
「そっか、よかった」
史穏くんと住宅街の道を並んで歩きはじめる。午後二時過ぎという半端な時間だけに、あたりを歩く人はまばらだった。
「あ。僕も昔、あの制服着てたんだよ。ほら、前歩いてる子」
機嫌がなおったらしい史穏くんの目線を追うと、上下紺色の制服を着て、黄色い帽子をかぶった小さい男の子がお母さんに手を引かれて歩いていた。幼稚園はちょうど今が帰りの時間みたいだ。
「かわいいね」
目の前を一生懸命歩く子も、想像してみた小さい史穏くんも、どっちも可愛い。思わず声に出して笑ってしまった。
「兄さんのお下がりで、ブカブカでさ……あ、別に新しいのを買ってもらえなかったわけじゃなくて、僕がお下がりがいいって駄々こねただけだけど」
「お下がりは嫌じゃないんだ」
「好きな人が使ってたものを使えるってって嬉しくない?」
「確かにね。そっか、お兄ちゃんがいるんだ」
「ふたりいる。上の兄さんは眼鏡かけてて、いかにも頭が良さそうで、って実際良いんだけど。下の兄さんは身体が大きくて力自慢で、スポーツ万能。二人とも警察官ですごくかっこいい」
史穏くんにとってお兄さんたちはヒーローなんだなあ。私はこの後の質問を予想して、答えを用意しておく。
「色葉は? しっかりしてるから、お姉さんかなと思ってるけど」
うん、やっぱり次はそうくるよね。確かに私は草壁家の長女には違いない。けれど。
「私、ひとりっ子なんだよね」
「あ、そうかあ……やっぱり寂しいものなの?」
史穏くんは少し残念そうな表情で、肩をすくめた。
きょうだいが欲しいと願ったこともあるけど、こればかりは仕方がないというのは高校生になった今ならわかる。その代わり、両親からめいっぱい愛してもらえたと思う。
「ううん。両親もおやつもひとりじめ。いいことも多いよ」
小さい頃の話に花を咲かせながら、住宅街を貫くように走るゆるい坂を降りきった。そこから駅の方に向かうために、信号のない交差点を曲がろうとした時だった。
「落としましたよ」
鼓膜をしたたかに揺らしたのは、柔らかく落ち着いているのに通る声だった。振り返ると、すぐ背後に人が立っていた。
史穏くんより少し背の高い、大人の男性。癖のない髪は真っ黒ではなく少し明るい墨色。控えめに光る四角い銀縁眼鏡の奥で、煤竹色の瞳がじっとこちらを見ていた。
なんというか、お兄さんと呼ぶには円熟した雰囲気で、おじさんと呼ぶには少し若い微妙な年頃の人だった。
膝丈ほどのシンプルな黒いコートを纏っている。黒い手袋に包まれた右手には、手のひらサイズの紺色の手帳……表紙に銀箔でうちの高校の校章が捺された生徒手帳が握られていた。
「……あなたのです」
「えっ、あれ?」
とっさ制服の内ポケットを探ったけど、手帳は入っていない。いや、洗ってもらう時に出して、そのあとどうしたんだっけ? たった数時間前のことなのに、もう記憶があいまいだ。
手帳を受け取って裏表紙を開く。間違いなく私のものだったので、ビックリしつつもホッとした。
なくしたら面倒なことになっていた。というのも、生徒手帳は超能力者である証明も兼ねており、たとえ学校がない日でも常に携帯を義務付けられているからだ。
「ありがとうございます。助かりました」
「どういたしまして」
頭を下げると、男の人も会釈で応えてくれた。
なんの引っかかりもない優しげな微笑み。史穏くんほどではないけど、綺麗な顔立ちだと思った。紳士と呼ぶにぴったりな佇まいに、ちょっとだけドキッとしてしまう。
男の人はそのまま踵を返すと、駅とは反対方向に去っていった。私たちのやりとりを黙って見ていた史穏くんがようやく口を開く。
「うん、上の兄さんが今の人みたいな感じ。まあ、あんまり笑わなくて……いつもこんな顔だけど」
史穏くんは嫌いな野菜を見た時みたいにぎゅっと眉を寄せ、唇を硬く結んでみせる。にこやかな彼とは違い、お兄さんは気難しい人なのだろうか。
――あれ、待って。
冷たい風が足元を吹き抜けていった。街路樹が落とした枯葉が舞い坂道を転がり、カサカサと寂しげな音を立てている。
胸がざわめく。まるで水面に石を投げた時の波紋のように、全身に広がる違和感は、普段『嫌な予感』と呼んでいるものに近い。
そうだ。つい最近会ったんだ。どこで会ったんだろう?
答えは喉元まで出ている気がするのに、思い出せない。史穏くんがしかめっ面からいつもの笑顔に戻っても、動揺がおさまらない。
史穏くんが黙った私を見て首を傾げている。なんとか言葉を捻り出す。
「へえ……史穏くんとはだいぶ雰囲気違うんだね。厳しい人だったりするの?」
「いいや。単に笑うのが苦手らしいんだよね。でも、さっきの人はほんとよく似てた。ああ、顔はそうでもないけど、背格好とか……声とか」
さっきの人の顔と史穏くんの顔を混ぜてお兄さんの顔を想像しようとした私の意識を、最後の言葉が全て持っていってしまった。
……声?
『何もかも、燃やしてしまえばいいではないですか』
耳の奥に蘇ったのは、藍色に染め上がった夕闇と同じくらい昏く、それでいて優しく甘く。心臓を静かに蝕む毒のような響き。
記憶の中の点と点が繋がって、黄色い稲妻が私の脳天を貫いた。
――声が同じだ!!
「ああっ!? 今朝の!!」
「え、なに!?」
とつぜん大声で叫んだ私に、史穏くんは目を白黒させる。振り返って駆け出しそうになったけれど、男の人の姿はもうどこにも見えない。
悪夢が現実になったみたいな心地に、体温がどんどん下がっていくようだ。
「もしかして知ってる人だった?」
「知ってるっていうか……ううん……な、なんでもない」
大声を出しておいて言葉に詰まった私。史穏くんは戸惑った表情で、黒手袋に包んだ手をこちらに伸ばした。
「とりあえずさ、そろそろ学校終わっちゃうから。早く行かなきゃ」
そのまま手を取られる。大好きな人と手を繋いだのに、なぜか胸はひとつも高鳴らない。黒手袋越しの手は、暖かくも冷たくも感じない。
声の主と思いがけず出会ったからだろうか?
初めてのときめきを覆い隠すように、背中にはゾワゾワとした不安が張り付いている。
冷たい風は止むことなく吹き続けていた。
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