第29話 優しい君と結んだ絆

 救急箱を抱えて部屋に戻ってきた翠川くんに、お茶には一切問題はなかったことを伝えた。それを聞いた彼は、腰が抜けたようにしゃがみ込んでしまった。


「ごめん、早とちりして。人の話を最後まで聞けって、家族にもよく怒られる」


 翠川くんは呟くように言うと、しゅんとこうべを垂れてしまった。


「翠川くんは悪くない! 悪いのは……! んんー……私ィ」


 ……私に謎の催眠のようなものをかけてきた鍵山くんのせい……である。


 どうせ何も言えないので、足掻くのはやめにした。これ以上不審な振る舞いを続けて怪しまれたくなかった。


 でも。これまた謎の『何でもできる能力』のことだけではなく、ヤツの名前すら口に出せやしないので本当に腹が立つ。ほんと、何の権利があって他人の口に勝手にチャックを縫い付けたのか。


 今度会ったら身体を透明に染めて困らせてやろうかと思ったけど、ヤツなら喜んで悪用しかねない、たとえば女子更衣室の覗きとか。いやまあ、完全に偏見だけど。


「やっぱり、呆れてるよね……」


「違う違う! 傷がちょっと痛むな、とか、お弁当どうしようかなとか、色々考えてた」


 ぎりりと歯噛みする私を、翠川くんが不安そうな顔で見つめていた。


 ダメだダメだ。どうやら相当難しい顔をしていたらしい。頭の中から鍵山くんを追っ払って笑顔を繕うと、翠川くんは少しだけ表情をゆるめる。


「そっか、無事だったならもったいないよね。お昼まだ少しかかるだろうし、今から食べちゃえばいいんじゃないかな?」


 今はおばさんが私たちのためにお昼ご飯を作ってくれている真っ最中。その前にお弁当を食べようなんて、なんとも男の子らしい発想だ。翠川くんは可愛い顔をして細身だけど、それなりに大食らいだというのは普段のお弁当を見ていてもわかる。


 私は改めてお弁当包みの結び目を見た。まあ、本来の私なら楽勝だけど、今はダイエットしてるしなあ……返事に迷っていると、『ぐう』とお腹の虫が先に返事をしてしまった。


 夜も明けきらぬ早朝に野菜ジュースを飲ませたきりなので、静かにしていろという方が無理だったらしい。


 自分の意思の弱さにくやしい気持ちになりながら、お弁当を取り出した。


「……よかったら半分食べてくれない?」


「えっ、もらっていいの!? わっ、野菜が多いなあ」


 お弁当箱を開くのを合図に、テーブルを挟んで向かいに座っていた翠川くんが、私の隣に座り直した。


「私は野菜好きだからね。はい、ウインナーと卵焼きどうぞ」


 ピックに刺さっていたウインナー、卵焼き、おにぎりをひとつお弁当箱の蓋に乗せて渡すと、翠川くんは嬉しそうな顔をして、卵焼きをつまみ口にポイっと放り込む。


 私はきんぴらごぼうをざくざくと噛みながら、翠川くんの様子を見ていた。別に自分で作ったわけでもないのに、手料理を食べてもらうときみたいに妙にドキドキしながら。


「うちのとは違う味で、すごくおいしい。草壁さんのお母さんもお料理上手なんだね。ほんと、生き返ってよかった」


 取り巻きたちに踏みつけられたお弁当の姿を思い出しながら、私は頷いた。一体どういった経緯でこのお弁当が元通りに蘇ったのかはわからないけど、これだけは間違いなく感謝していいことだと思う。


「うん。私は自分が傷つけられるよりも、食べ物を粗末にするやつが一番嫌いだしね」


「あっ、ごめん……顔は怪我したままなのにね。あの人たちにひとこと言ってやりたいけど、さっきの母さんの口ぶりだと忘れちゃってるだろうな」


 翠川くんは眉を顰めたまま、ウインナーを齧っている。


「こんなの大丈夫。ちゃんと手当もしてもらったし、転んだって思うことにする」


 私が笑っても、翠川くんはどこか釈然としてなさそうだ。


 運動神経がない私は元から小さなかすり傷が絶えないから、頬の傷のことだってそこまで気にはしていない。翠川くんがおにぎりをペロンとひと口で食べてしまうのと同時に私も食べ終わったので、お弁当を包み直した。


「あのさ、さっきからずっと考えてたんだけど。記憶をいじったり、壊れたものを元通りにするなんて、超能力でできることじゃないよなあって」


 翠川くんがティッシュで手を拭いながらポツンと呟いたのに、血の気がゆっくりと引いていく。まるで隠し事を暴かれようとしている時みたいに。


「……じゃあ、誰がどうやったって思うの?」


 私の問いに、翠川くんはティッシュを丸めてゴミ箱に投げてから宙を見る。学習机の上あたりにぶら下がっている宇宙船と惑星を模ったモビールのあたりで視線を止めると、『笑わないでよ』と前置きしてから言った。


「……魔法使いが、魔法でやった、とか?」


 あまりにも荒唐無稽。でも、あくまでも真面目な顔で紡がれたその言葉に、今までで一番強く胸がうずいた。本当の名前を呼ばれて目が覚めたみたいに、魂の奥で青白い星がめらめらと輝きはじめる。


 魔法。


 そう。たぶん、私の能力はそう呼ぶのが正解に一番近いのだと思う。


 それは人々の想像が生んだもので、超能力とは似て非なる。あくまでも物語の中だけのもので、夢や希望を与え、または救済する、摩訶不思議な力。


 子供の頃、私の力を初めて目の当たりにした母は声を弾ませて、『まるで魔法使いみたいね』と言った。


 けれど、その時に感じたときめきははるか遠く、今はこの光がただただ底知れぬものにしか思えない。


 なぜなら私はこの力で、憎しみを炎に変えてしまった。真っすぐに迷いなく人を呪おうとしたのだ。忘れかけていた罪悪感で再び胸がきしむ。


「草壁さん、大丈夫?」


「大丈夫……」


 声が震えてしまっているのが自分でもわかった。


 肩を並べて座っていた翠川くんが、私の方に向き直る。手袋をはめていない手がこちらに伸びてきたかと思うと、そのまま私は抱き寄せられてしまった。


 びっくりして声すら上げられないまま腕の中に収められて、聞こえてくるのがどちらの心臓の音なのかわからなくなってしまう。


 翠川くんの告白にちゃんと返事はできていないけれど、気持ちは伝わってしまっているのだろうな、と思う。なにせ彼は『読める』のだから。


 だから抵抗するのはやめた。息を潜め、じっと心臓の音を聞く。


「別に草壁さんが嘘をついてるって言いたいわけじゃないよ。でも、発火能力パイロキネシスってそうあるものじゃないよ。だって能力開発、受けてもないでしょ」


 本当に私の心を読んでいたかのような言葉に、肩がぴくりと震えた。


「確かに、私は念動の訓練しか受けてないけど……でもね」


 翠川くんは腕の力をそのままに、私の言葉尻に重ねるようにさらに続ける。


「じゃあ、もっと疑わしい人は他にいると思う。君をはめようとして、他の誰かがやったって考えた方が自然じゃないかな。だってさ、仮に火を思い浮かべたんだとしても、それだけで本当に火が出るわけがないじゃないか。そこが重なってしまったのはきっと偶然だよ」


 事実とは違うけど、何も言い返せない。口を縫われてしまっているのもあるけど、私がやったという証拠が本当にどこにもないからだ。


 それどころか自分が火をつけたという事実は私の心の中だけに残って、その他からは消えてしまっている。まったく釈然としないけど、それが現実なのだ。


「もしかして、読んでるの?」


 やっとのことで顔をあげてそれだけ尋ねると、翠川くんはにっこりと笑ってから小さく首を横に振る。王子様と呼ばれる人の微笑みが私ひとりだけのためにあるなんて。あまりの面映さに、身体が丸ごと蒸し焼きになってしまいそうだった。


「本当のこと言うと読めちゃうけど読まないよ、約束したから。でも、すごく不安なんだなってことは……ちょっとピリピリするからわかる」


 翠川くんの腕は、骨に触れるほどに細いのに力強い。男の子だからなんだと思うと胸がキュッとする。お風呂上がりでいい匂いがするからなおのことだろうか、学校で抱きしめられた時よりもずっとずっと心臓がせわしなく動いていた。


 まぶたの裏でいろんな色が渦を巻いている。今の自分がどの色かなんて、全くわからなかった。逃げ出したくなるほど熱くてたまらないのに、離れたくないだなんて初めての経験だったから。


「どうして、こんなに優しくしてくれるのかなあ」


「だってさ、僕が普通と違っても、カッコ悪くても、色葉はガッカリせずにそばにいてくれるから。だから僕も何があっても君をひとりにしたくないって思うだけ……いや、単にしっかり者に甘えてるだけかな。ごめん。でも、色葉のために自分にできることはやりたいと思う」


「ありがとうね……」


 精いっぱいの真心が嬉しくて、遠慮なく彼の胸に頬を寄せた。私が翠川くんのそばにいたいと思うのは、彼がどこまでも心優しいのを知ってるから。


 私は基本的に丈夫でへこたれないけど、それでもふと寂しくなってしまった時に、すかさずあたたかい手を差し伸べてくれるからだよ。


 そして彼もまた、私のことを求めてくれている。こんなに嬉しいことがあるだろうか。だったら私も君のそばを離れるつもりはない。翠川くんの言葉を何度も噛み締めていると、あることに気がついた。


「……ん? 今、色葉って言ってた?」


 そう。さらっと聞き流していたけど、たぶん下の名前で呼ばれていた。


「わあっ!」


 短い悲鳴と共に、私を抱きしめていた腕の力が突然抜ける。勢いのまま床になだれそうになったのを堪えると、翠川くんは私が染めたのかというくらい顔を真っ赤にしていた。


「ごめん!! 草壁さん、聞かなかったことにして……ほんと、僕はすぐ口が滑る……ってこれも滑ってる? はあ、もう……ごめん。さすがに馴れ馴れしすぎる」


 いつもよりも早口で言い繕う翠川くん。しれっと二度も抱きしめておいて、今さら何を言っているんだろうという気がしなくもないけど、どうやら馴れ馴れしいの基準が私とは少々違うらしい。


 なんだか熱い。こっちにまで、すっかり赤が移ってしまったらしい。


 ……まあ、私はやられたらきっちりやり返すのがモットーだ。


「じゃあ、私も名前で呼ぼうかな。し、しお、史穏くん?」


 目には目を、歯には歯を。名前には名前を、なんて。


 必死で何気ない風を装っても、照れくささで噛みそうになってしまって、恥ずかしさを上塗りしただけだった。自然に呼ぶにはちょっと練習が必要そうだなと思う。翠川くんは照れもせず自然に口にしていたけど、もしかして? まさかね。


「うあっ……」


「ええっ、ちょっと!! 大丈夫!?」


 だんだんと居た堪れなくなりつつある私を前に、し、史穏くんはといえば、背後にあるソファーに座らせていたクマのぬいぐるみを取り上げて抱きしめ、こっちに背を向けてしまっている。


 部屋の中に、耳をすませないと聞こえないくらい微かな唸り声が響く。調子を悪くするほど名前を呼ぶのがへたくそだったのだろうか? ビクビクしながら丸くなった背中を見つめていると、


「……今日まで生きててよかった」


『一番の親友』との間に交わされた内緒話が、私にまで届いた。その光景に再び淡い既視感を覚えながらゆっくりと彼の背中を撫でると、背骨の感触と体温を確かに感じた。


 翠川くんはやっぱりちょっと変わった人だと思うけれど、私も生きててよかった、彼と会えてよかったと思う。


 今もひとりじゃないというだけで、こんなにも心強いのだから。こうして、私たちはまた少し近くなった。絆を強くした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る