夜の凪のような君は

 寒さが身体の芯にじわじわと染み込んできた。


 目を開けると、雲ひとつない快晴の空が飛び込んでくる。眩しさに目が悲鳴を上げる。体があちこち痛いのは、コンクリートの床に転がっているせいだ。


 まさかこんなところで寝こけてしまうとは思わんかったけど、充電は完了したらしい。


「あー……寒ッッ……!」


 起き上がるやいなや、頭蓋骨が吹き飛びそうなくらい巨大なくしゃみが出て、耳の奥がキーンと音を立てた。親父がたまに家を揺らしてるやつによく似ていて、ちょっと変な気分になる。


 まだまだオッサンには程遠いのにと、鼻を啜りながら宙を仰ぐ。いくら天気がいいとはいえ、十一月の吹きっさらしの屋上はまあまあ……いや結構寒かった。普段は開けっぱなしにしてる上着のボタンを止めながら立ち上がり、目の前のフェンスから身を乗り出した。


 そのまま目線を隅々まで走らせ、校内の状況を確認する。


 時刻は午前九時。どこの教室でも授業の真っ最中。あと、運動場で体育の授業をやっているのが見える。駐車場にも緊急車両の類はいない。自分のクラスでも、綺麗な教室で何事もなかったかのように静かに授業が行われていた。


 あの悶着は、ちゃんと起きてへんことになっている。


 次は、フェンスに寄りかかったまま意識をとある方向に飛ばす。色葉ちゃんは今、王子の部屋に匿われているのが見える。


 色葉ちゃんはすっかり綺麗になって、可愛かいらしいお洋服に着替えている。王子は……まあどうでもええわ。


 そんなふたりは俺が見ているとも知らず、イチャイチャと仲良くしていた。あああ、王子めそんなことまで。女の子みたいな顔しとるくせに。クソ。


 いつの間にやらフェンスから半身ほど乗り出しているのに気がついて、ふと正気に戻る。


 ……野次馬精神丸出しすぎて、さすがに趣味が悪い。とりあえず色葉ちゃんのことは王子に丸投げしておくことにして、意識を引き上げた。


 色葉ちゃんはとうとう、真の力に目覚めた。正確には、第一段階が終わった。


「さて、次はどう出ようかいな……っ」


 再び大きなくしゃみが出て、耳が痛くなった。


 色々と想定外はあったけど、なんとか上手い感じに収まったが、先ほどのことを思い出すと大きなため息が出る。


 今回は本当に本当に、ヤバかった。


 ああ、身体が妙に冷えるのは、背中が冷や汗でびっしょりだからや。


 ◆


 今朝は色葉ちゃんと取り巻きたちとの間で悶着あるから、色葉ちゃんに話しかけて背中をちょっと押して欲しい、と計都くんに頼んだ。


 自分でやらんかったんは、俺は声がデカいから。無理やり黙らせるのは得意でも、こっそり話しかけるのはどうも苦手や。逆に計都くんは他人の心に働きかけるのを得意としている。餅は餅屋に任せるのがいいと思った。


 色葉ちゃんはあくまでもやられた分をその場で返すだけの人。彼女の言葉を借りるなら、目には目を、歯には歯をってやつ。


 だから少々揺さぶりをかけたところで、そこまで大きなことにはならん。せいぜい、能力を使った雑巾やバケツの投げつけ合いくらいで済むと思っとった。


 そう、それだけでよかった。しょーもないかもしれんけど、『自分は染めるだけではない』というのに気づければそれで十分。最初はみんなそんな感じで、徐々に階段を上がっていくのだ。


 けど、事態は変な方へ転がっていく。向かいの校舎の屋上で文字通り高みの見物をキメていた俺は、教室の窓に青い光が見えたのにめちゃくちゃ焦った。


 色葉ちゃんの持つ星の光そのままの色は、選ばれたものにしか見えない特別なもの。続けて猛烈な力を感じ、背中に寒気が走る。


「な、何が起こった!?」


 いやいや、おかしい、おかしい。なんとか落ち着こうとしても、鼓動がどんどん早くなっていく。


 自分の本当の力に気がついてもいなかった人間が、いきなりこんな大きなことができるはずがない。色々なことを何段階もすっ飛ばしている。


 目を開けていられないほどの強風が吹きはじめたが、構わず手すりを超え、パラペットから身を乗り出した。ゆらゆらと立ち上る青い炎を視界に捉えた瞬間、状況の輪郭が浮かび上がってくる。


 この距離でも肌を焦がしてくるほどに強い恨みの力。俺には幸運にも縁がなかった黒くうねる負の感情の奔流は、自らすら焼きかねないほどの凄まじい力を持っている。


 これは色葉ちゃんのものではなく、計都くんの心に深く染み付いているものだと気がついた。


 計都くんのことは誰よりも信頼している。忠実な配下、やなんて言いたくもないが、俺の頼みをちゃんと聞いて、その通りに実行してくれる。


 けれど、色葉ちゃんが理不尽に酷い目に遭わされるのを目の当たりにして、果たして計都くんは最後まで冷静でいられただろうか?


 かつての自分と色葉ちゃんを重ね合わせた結果、取り巻きたちを自分の仇だと誤認してしまうことがあるんやないか。後先なんか何にも考えずに色葉ちゃんを乗っ取って、恨みを晴らそうとするんではないか。


『ええ、なにもかも燃やしてしまえばいいではないですか』


 完全に、計都くんに任せた俺の失態や。


「計都くん!! 何しよんねや!! 離れえ!!」


 必死で呼びかけても計都くんは全く答えず、俺は歯噛みするしかなかった。無視しているのか、届かない状況になっとるんかはさっぱりわからない。いやこの際どっちでも同じだ。何かおかしなことが起こっている。


 今はとにかく彼の暴走を止めるんが……やっぱりこんなこと言いたくはないけど、あるじである俺の役目。


 色葉ちゃんの力をそのつもりになってぶつければ、人間なんか骨も残さず消えてしまう。間違いなく死人が出てしまう。


 目撃者が多数いる状況でそんな状況になってしまえば、さすがにいつもと同じ小細工ではどうにもならん。


 今のところ今代最強とか言われる俺の力を持っても、死んだ者を生き返らせるのはさすがに無理や。


 とにかく迷っとる暇はない。念を込め、人差し指を立てた利き手を前に。


 普段はこんなふうにいちいちポーズを構えることはないけど、絶対に失敗できないという緊張がそうさせた。


 自分よりも格上、零等星に対抗しなければならない。いつもよりもしっかりと『願い』を思い描く。


 そのために必要な力を汲み上げている間に教室の声を拾うと、取り巻きたちの甲高い笑い声がまとわりついて気持ち悪くなった。吐き気で集中が切れそうになるのを、必死で保つ。


 修羅場に身を置いた経験なんか全くない。俺はずっと守られるばかりで、ぬくぬくと生きてこられたから。その自信のなさが、余計に吐き気を増幅させる。


 正直言うと逃げだしたい、しかしこのままでは器である色葉ちゃんはもちろん、もしかすると計都くんも無事では済まない。そのうえうまくできなければ大惨事を起こすのは必至。


 身震いがしてきた。


 でも、俺の力は願ったことを叶えられる力、強い願いがあれば、絶対に失敗はしない。


 大切な人と、大切な人のために必要な人、どちらを優先するべきかははっきりしている。


 一度だけ自分に言い聞かせ、決断した瞬間……取り巻きの笑い声が突然やんだ。


「草壁さん!」


 そこからほとんど間を空けずに耳に入ったのは、男のくせにどこか甘ったるいのが耳に障る声。普段ならイラっとするけれど、この時ばかりは俺にも白馬の王子様に思えたかもしれない。


 なぜなら、このひと声で俺の緊張ごと懸念していたことが全て消えてしまったからだ。


 恨みの渦が幻だったかのように霧散した。色葉ちゃんは自分を取り戻し、それによって急速に萎んだ炎はカーテンを焼いただけで済んだ。


 つまるところ、俺は王子に窮地を救われたのだ。


 急なことに呆然としているうちに、取り巻きの一人が火をつけたのは色葉ちゃんだと声を上げた。ありえんことやのに、鵜呑みにした教師によってたかって詰られ、教室から飛び出す色葉ちゃん。


 殺意を抱いたことにショックを受けたこともあるやろう。それはあくまでも計都くんに入り込まれた影響やけど、本人には残念ながらその意識はない。


 そして王子は、引き留めようとする取り巻きたちの手を振りほどいて、すかさず色葉ちゃんの後を追った。とにかく、色葉ちゃんのことは王子に任せておけばいい。


 俺は自分がやるべきことを粛々とやった。彼女を、ひいては俺たちを深掘りされるような面倒な事態は避けるために。めちゃくちゃになった教室を修復し、あの場にいた生徒の、このことに関する記憶を消していく。


 さすがの俺でも、触らなければならない所が多すぎてさすがにキツかった。色葉ちゃんなら涼しい顔でやってしまえるんやろうな、と考えながら、力を振り絞って。


「疲れた……」


 全て終わった瞬間、立っていられなくなってその場に倒れ込んだ。血を流しすぎた時に似ているこの感覚の正体はわかっている。今は、抗わずに目を閉じてしまうしかなかった。


――俺の声、ひとつも届かんかったなあ。


 意識が落ちる直前、ふとそんなことを考えて涙が出そうになった。



 ◆



――今さらだが、俺は超能力者ではない。色葉ちゃんも、計都くんも同じ。


 【不詳】と呼ばれるものが操る、超能力の枠から外れた能力が本当はなんなのか、不思議なことに誰ひとりとして考えることはない。


 この世界では超常的な能力は全て『超能力』と呼ばれ、屁理屈と混ぜて力尽くでこねることで既存の能力の亜種というふうに結論づける。


 色葉ちゃんの場合はPK、俺は一応ESPってことにされている。まあ、どっちに分類されても俺たちには関係のないこと。俺たちの力の源は脳ではない別の場所にあり、その原理も全く異なるからだ。


 それでも超能力者と認定されてしまった以上は、国が指定する中等教育学校もしくは高等学校へ進学し、成果が出るはずもない訓練を受けなければならない。


 そこではただ枠から外れているというそれだけの理由で、周りには軽蔑され疎外されることで、心を壊されてしまう。


 運悪く超能力者の家系に生まれれば、誉れ高い一族の恥とされ、他の家族からも苛烈な仕打ちを受けることもある。


 かつて、俺と同じ【不詳】と呼ばれた計都くんは、身体にも心にも深い傷を負っている。たびたび炎に焼かれたことがあるせいなのか、炎を使うことにやたら固執する。色葉ちゃんに『燃やせ』とささやいたのも、きっとそのせいだ。


 計都くんにとっては、こちら側に来られたことが救いだったようだ。自分こそが選ばれた存在であることを知った彼は、徐々に壊れた心を取り戻していった。


 色葉ちゃんはどうだろうか。俺たちと共に在ることを望んでくれるだろうか。答えはおそらくノーだろう。


 彼女は貶されてもなお、枯れることはない。その能力ごと愛してくれる人がちゃんといて、かつ、自分の能力を愛している。だから、こんな荒地に連れてこられてもちゃんと咲いていられる。


 けれど、俺たち、いや、俺には色葉ちゃんのことが必要だ。


 彼女だけが操れる、強力すぎる現実改変能力がどうしても必要なのだ。


「すばる様」


 声のしたほうに顔を向けると、計都くんが何事もなかったかのようにしゃんと立っている。命令違反をされたが、咎める気にはなれなかった。


「……無事でよかったわ」


 やっとそれだけ言うと、計都くんは特に表情を変えずに目を逸らす。自分が気を配られる対象だとは微塵も思ってないのはいつものことやけど、どこまでもこちらの気持ちが届かないのがやるせない。


「申し訳ございません」


 何に対してなのかがわからないほど鈍感ではない。やけど、決して俺が欲しかった言葉ではないので、受け入れるわけにはいかんかった。


「……違う。別に言うこと聞かんかったことを怒ってるわけやない。俺は」


 ついこぼしてしまった一番伝えたいことは、強い風に吹き飛ばされてしまった。


――俺は、君を失いたくないだけや。


 ごうごうと耳の中で風が鳴っている。


 だから、俺の言葉が届いたのか、届かなかったのかはわからない。計都くんは相変わらず熱くも冷たくもない表情をしている。


「私は、いつでも貴方のためにありますよ」


 少しだけ柔らかな声に、過ぎし日の思い出が蘇る。


 夜凪のように暗く静かな瞳の奥には、昔から変わらない強い星が輝いていた。


 ◆


 ある日、突然家にやってきた兄やんは一見気難しそうだったが、出会ったばかりのクソガキにものすごく優しかった。そこには親父に取り入るための計算もあったんかもしれんけど、俺は物心ついた時から父ひとり子ひとりで生きていたもんやから、家族が増えたことが純粋に嬉しかった。


 十も年下のガキにまとわりつかれて鬱陶しかっただろうに、君はいつでも嫌な顔ひとつせず俺の相手をしてくれた。しょーもない話を楽しそうに聞いてくれて、お返しにとたくさん話をしてくれた。


 母親がつけたらしい自分の名前の意味を、君に教えられて初めて知った。


 聡明で話がうまく、物知りな君が俺の憧れになるのに時間はかからなかった。


『すばるくんの心には、綺麗な星があるね』


 ある日、君はとても穏やかな目でそう言った。俺を見つめる暗い色の瞳は、まるで星屑が飛んだみたいにキラキラと輝いていて、あまりにも美しかった。


 俺は自分がそうであることをまだ知らなかったけど、その言葉に胸が熱くなったのをはっきりと覚えている。星は呼び合うというから、きっと君の輝きに応えたのだろうと思う。


 君はとても綺麗な人やけど、服で隠れる場所は傷だらけだった。特に背中には一面に広がる大きな火傷の跡があった。


 身体だけではなく、心も深く傷ついていた。炎や女性を異常に怖がり、毎晩のようにうなされていたのも知っている。


 誰かに悪意を持って傷つけられたからだとはつゆとも思わず、病気なのかと無邪気に尋ねた俺に、君は弱々しく笑ってこう言った。


『大丈夫。君のことは、僕が守ってやるから』


 やがて俺にも少し知恵がついて、君の苦しみにほんの少しだけ想像が及ぶようになった。底なしに優しいと思っていた君が、逃れられないほど深い恨みに支配されていることも知った。


 だから、俺は目覚めた日に、君がこの世を呪わずにすんで、心の底から笑える日が来ることを願った。


 愛しい人の魂を、深い闇の底から解放したいと。


 俺が守りたいのも、救いたいのもひとりだけ。そのためなら、他の誰かを傷つけ、踏みつけて壊してしまっても構わないと思っている。

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