プラトニック・ラブ

野生いくみ

第1話

 忘れられない。

 岡田先輩のことを思うといまでも胸が苦しい。


 学生時代の話だ。

 大学四年の秋、山内朋美は他大学の院試に合格した。卒論も順調で前途洋々、暇があれば文芸部の部室に入り浸った。好きな音楽や漫画、小説を持ち寄り、あれこれしゃべる気楽な部。本気で作品を書いている者などほぼいなかったが、中の有志がラノベの賞を狙うサークルを立ちあげた。メンバーは四人。言い出したのは修士課程一年の岡田陽子と三年の鈴木智彦。そこに巻き込まれた形の朋美。一人は早々に脱落した。

 岡田先輩と鈴木は同じ外国語学部でいつも言語学や語学、哲学の話に花を咲かせていた。イタリア語専攻の岡田先輩とスペイン語専攻の鈴木は、それぞれラテン語系の言語ということもあり話題はとぎれず、流れでソシュールと言語学を語る。そして、行きたい国をあれこれと挙げた後、安いけど乗りたくないとアエロフロートのネタで笑う。人間科学部の朋美は最初何かわからず「飲み物?」と聞き、岡田先輩と鈴木に大笑いされた。トラブルの多い航空会社でいつ落ちてもおかしくないと彼ら一流のジョークらしかった。外国語専攻の子たちの中ではみんな通じるのかと自分の無知を恥ずかしく思って、彼らが高尚に見えて少し気後れした。しかし、朋美にわからないネタも何度も聞いていればお約束でツッコめるようになり、やがてなじんだ。

 大学からの帰り道、よく三人で食事に行った。ファミレスならDで岡田先輩はシーザーサラダ、後輩の鈴木はエビフライつきのハンバーグ、朋美はグラタン。ハンバーガーならオニオンリングが美味しいMで決まり。ケーキ店併設のカフェのクリームパスタは美味しいと、たまには3人で同じものを頼んだりした。お互いの好みまで把握できるくらい一緒にいた。

 結局、作品を書き続けたのは朋美だけだった。鈴木は茶化しつつも読んでコメントをくれた。逆に岡田先輩が読むことはなかった。朋美の作品が話題になるとラテン語のテキストを読み、語学の話になるといきいきと話題に入ってきた。鈴木と二人、心おきなく楽しい話をしたいだろうと気遣い、少し離れて他の部員たちと音楽の話で盛り上がると、岡田先輩はかならず話に割り込んできて、最後は朋美を鈴木との間に引き戻した。ささいなことだけど不可解で、先輩との間に居心地の悪さを感じ始めた。


 夜のイルミネーションがにじむように輝き、にぎやかに冬がやってきた頃。先輩はクリスマスに家でパーティーをしようと、鈴木と朋美を誘った。少し前から感じていた違和感もあって断ろうとした。しかし「家族で都心の新築マンションに引っ越したからご招待よ、その日はみんないないから」と念を押した声がどこか必死だった。断れずにうなずいた。

 新居は本当に都心のお洒落な街にあって、周りにはこだわりのセレクトショップや輸入雑貨のお店がいくつもあった。通りすがりにのぞいたショーウィンドウにはパンやお菓子が少量ずつ上品に並べてあって、英語ではない言葉で書かれたワインのラベルや、スタイリッシュな銀のカトラリーが、とても魅力的に見えた。表には見せないけれど実はハイソなものに憧れている先輩は単に自慢したかったのだと、この街を見て思い直した。

 引っ越してきて2か月も経たない家はピカピカで、朋美は艶やかな飴色のフローリングにさえ魅入られた。荘厳なグレゴリア聖歌をBGMに、輸入雑貨店で買ったシャンパンをあけた。用意されたチーズやテリーヌなどオードブル、カリカリのバゲットを使ったガーリックトースト。美味しくて嬉しくて、朋美はグラスを口にしながら単純に来てよかったと思い始めた。

 気持ち良く酔ったところで先輩がペペロンチーノとアマトリチャーナのパスタを作ると台所に立った。不在を埋めるように、酔った鈴木が車の免許の話を始めた。来年の春に取るつもりで車は叔父が譲ってくれる予定だと機嫌よく話した。次は何を食べようか皿の上を物色しながら、朋美は適当にうなずいていた。すると「取れたらドライブに行きましょう」と鈴木が少しだけ上ずった声で言った。深く考えず「いいね」と返事をしながら物音に振り返ると、岡田先輩がパスタの皿を手にドアのそばで立っていた。感情のない目で朋美と鈴木を見つめたが、やがてにこりと微笑み尋ねた。

「私も混ぜてくれるんでしょ?」

「もちろんですよ」

 鈴木も朋美もうなずいた。「良かった」と笑った先輩の目が笑っていなかった。


 新しい年を迎えた冬休み明け、先輩から電話がかかってくるようになった。最初は「明日ごはん食べにいこう」くらいの軽い誘いだった。そのうちバイトの日も「終わったら会おう」と呼び出された。……朋美だけ。鈴木は後期試験の準備があるので呼び出せないのかもしれない。でも、朋美だって卒論の詰めが甘くて、急いで修正しなければいけなかった。このままでは論文の主旨そのものが矛盾してしまうと焦った。それを知ってか知らずか、日を追うごとに誘いの声は重々しく、先輩の目は底冷えした。

『朋美ちゃん、優しい。私の話すごく聞いてくれるもん』

 笑っているけれど、一ミリも笑っているように見えない。『優しい』と投げかけられる言葉が縄のように朋美の自由をしばりあげた。


 卒論のこともありずっと研究室に詰めていた。先輩に会いそうで部室にはほとんど行かなくなった。すると電話は毎日になった。三十分が一時間、一時間が一時間半。何の話をしたのかほとんど覚えていない。ただ、先輩が話していることに、うんうんとうなずくだけ。鈴木のように会話を運ぶ知識も教養もない。でも、朋美はどうしても『忙しいんで切っていいですか』と言えなかった。小学校の先生の『人の話はちゃんと聞きましょう』みたいな正論が頭に響いて、質問のひとつもはさめなかった。


 先輩は『精神的なもの』がお気に入りだった。朋美にはよくわからなかったけれど、鈴木とプラトンの話をしているのをよく耳にしたし、『体で求める愛より、精神で惹かれあう愛に価値があるってプラトンは言ってるの』と後輩たちに話していた。

 朋美との電話でも似たようなことを先輩は何度も話した。

 『心で求めあえるって素晴らしい』

 『無理やり振り向かせる低レベルな愛より、わかりあえる人との間で生まれる愛がいちばん価値が高い』

 プラトンはプラトニックの語源。それくらいは知っている。彼の提唱したのが『精神的な愛』だ。でも、いまそれを朋美に語ったところで何の意味があるのかわからなかった。

 一通り話すと今度は沈黙が続く。言葉に詰まって黙っているわけではなく、朋美の反応を待っていた。電話の向こうの暗闇で息を殺し、先輩が蛇のようにじっとりとねめつけているのを連想した。息が詰まり、気づくと本当に息を止めていて視界が白くかすんだ時もあった。なぜ私にプラトン? と頭をかすめるが、試験期間中の鈴木と話せないから自分に話している、鈴木が戻ってきたら先輩はそちらへ向くはずだと耐えた。それ以上考えられないほど朋美は参っていた。先輩のことなど忘れていればいいと思ったこともあった。でも、忘れられないのだ。精神的な愛を語り、そうでない愛を低レベルとさげすむ先輩の『あなたもそう思うわよね』と言外に押しつけてくる声が朋美の頭にふいに響き、まったく関係のない場面でも、恨めしげな沈黙がその息遣いまで鮮やかによみがえった。気づけば、朋美の生活は他には一分の隙もないほど岡田先輩でいっぱいになっていた。

 卒論は提出した。しかし粗末な出来で、指導教官からはガッカリしたと言われた。君はもっとできる子だと思っていたと。自分でも自負していた。難関の大学院も合格した。卒論も立派に書きあげて、一点の曇りなく新生活に飛び込めると確信していた。でも、現実はどうだろう。

 ……先輩につきあわなければもう少し何とかなっただろうか。忙しいと断ればこんなことにならなかっただろうか。でも、選んだのは自分だった。自分だから仕方がない。後悔を抑え、せめて公平であろうとした。

 卒業式を過ぎても毎日二時間近くの電話が続いた。話題は同じところをめぐる。だんだんと沈黙が増え、ねっとりと絡みつくような空気が朋美の反応を待った。空っぽな頭にもひとつだけわかったことがあった。先輩は何かを言いたい。でも、核心を自分の口で言いたくない。朋美に何かを期待しているのだ。しかし、推測する気力は残っていなかった。食欲は落ち、眠れなくなった朋美に、そんなものが残っているはずもなかった。

 

 四月、朋美は他大学の院に進学した。これで先輩と離れられる。憔悴しきった朋美がかろうじて望みをつないだ月の半ば。小さな文字で便せん三枚にびっしりと書かれた手紙が届いた。そこに書いてあることがひとつもわからなかった。怨念しか感じなかった。もう終わりにしようと心の底から思った。

 見計らったようなタイミングで呼び出された小雨降る夜のハンバーガーショップ。触るのもためらわれる例の手紙を差し出して「何が言いたいのか教えてください」と聞いた。長い沈黙の後、先輩は吐き捨てた。

「結局、山内朋美の手の上で転がされたって感じ」

 ぽかんと朋美は口をあけた。この人は何を言っているのかと。

 毎日の電話。同じ話を繰り返し、朋美の反応をうかがった沈黙。まったく進まなかった卒論、さっぱり意図が読めなかった手紙。すべてがフラッシュバックした。

『手の上で転がされた』? 振り回したのは朋美だと?

 いつのまにか先輩は消えていた。朋美を悪者にして去った空席を虚ろに見た。絶望でその場に崩れた。


 十年以上経ったいまでも思い出すとはらわたが煮えくり返る。岡田先輩が鈴木を好きだったと気づいたのは何年も後だ。

 朋美が鈴木と隠れて会わないように空いた時間を押さえていたのか。彼を奪うと思っていたのか。それとも『彼のこと好きなんですね? 応援します』と言ってほしかったのか。無理やり振り向かせるのは低レベルな愛だから、じっと待つ愛を選んだのか。そのために手足として期待をしたのに、思い通りに動かない朋美を恨んでいたのか。鈍感な朋美の言動ひとつひとつに揺り動かされ、悩まされたというのか。鈴木のことを好きじゃないなら、私のために一肌脱いでくれると思ったのか。彼のことを好きじゃないならできるだろうと試したのか。

 プラトンは精神的な愛を提唱した。でもそれは想いを口にせず誰かに察してもらうものではなく、ましてや誰かの力で叶えるものでもない。彼女のゆがんだ恋に巻き込まれたこの傷をどうしてくれる。

 胸が苦しい。

 一刻も早く忘れさせて。

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