第25話
帰り際に、緑川さんは車の所までついて来てくれた。高原には穏やかな風が吹いていて、ニッコウキスゲはまるで別れの挨拶をするかのように小さく揺れていた。
僕が車に乗り込もうとした時、緑川さんは急に思いついたように、
「あ、安田くん。ひとつだけお願いがあるんだけど、いいかな?」と言った。
「えっと、何かな?」と僕は彼女を見て尋ねた。
「この車、ちょっとだけ貸してもらう事って出来ないかな?私、弓木先生に会いに行きたいの。自分が突然居なくなってしまったことについて、ちゃんと謝らないといけないと思うから。それに、この車凄く素敵でどうしても一度乗ってみたくなってしまって。」と緑川さんは僕を上目遣いに見て言った。
「え、それって…?」
僕は緑川さんの申し出を、すぐには理解することが出来なかった。でもそのうちに僕は、大事なことを思い出した。緑川さんは電車に乗ることが出来ないのだ。車であれば、高速にさえ乗らなければ途中で好きな時に降りて休憩する事が出来る。それに彼女の消息を教えてほしいというのは、僕が弓木先生に頼まれた事でもあった。
「そっか、分かったよ。だけどこの車姉貴のだから2、3日で返さなきゃいけないんだよね。」と僕は腕を組んで言った。
「そーなんだ!今日荷物の準備をして次の朝には出発できるから、明日中にはお姉さんに返せると思うんだけど。」と緑川さんは答えた。
「それなら何とか大丈夫かな。」と言って、僕は緑川さんに姉の住所と連絡先を教えた。
「でも、帰りはどうするの?」
「帰りの事なら心配しないで。私にも東京にちゃんと知り合いはいるから。」と言って笑うと、緑川さんは僕にウィンクをしてみせた。
それから僕たちは緑川さんの運転で長野駅まで向かった。久しぶりに車に乗ると彼女は言っていたけれど、運転はとてもスムーズだった。僕が新幹線の切符を買おうとすると、私が無理を言って車を貸してもらったからと、緑川さんは自分の財布を出して切符を買ってくれた。
改札の所まで来ると、緑川さんは僕に切符を渡しながら
「安田くん私ね、もし弓木先生にきちんと謝ることが出来たら、これからは自分の名前で絵を描こうと思うの。」と言った。
「本当に?」と僕は思わず尋ねた。
「うん。今までの私はずっと、自分の名前を使って絵を描くことがどうしても出来なかった。でもそれって結局、緑川真紀子の娘っていうレッテルを貼られて生きるのが、ただ怖かっただけなの。親の七光りだって陰口を言われながら生きることがね。でも今は、緑川麗っていう一人の画家として生きて行きたいって、心からそう思うの。」
そう話す緑川さんの言葉には、どこか吹っ切れたような清々しさがあった。
「そしたらいつか、自分も緑川さんの名前が付いた絵をどこかで見れるかな?」と僕は尋ねてみた。
「時間はかかるかも知れないけど、期待してて。」と言って、緑川さんは笑った。
それから彼女は、
「じゃあ、またいつか。」と言って僕に微笑んだ。
「うん。またいつかね。」と言って、僕も荷物を肩に背負い直してふっと笑った。
僕が改札を抜けた後も、緑川さんは僕にずっと手を振り続けていた。彼女の姿が小さくなって、視界から消えてしまうまでずっと。僕は何度も振り返りながら、その姿を両方の目にしっかりと焼き付けた。
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