第20話

気が付いた時、緑川さんは泣いていた。

まるで高原に降り注ぐ雨のように、音もなくひっそりと。彼女の両眼から涙が頬を伝って、青いブラウスの上に微かなしみを作った。緑川さんは全く声を出すことなく泣いていたので、彼女が泣いているという事実はとても非現実的なものに感じられた。僕はただ呆気に取られて、その様子をじっと見つめていた。

その時世界は動きを止め、張りつめた静寂がその小さな家の中を流れていた。世界中から音が消えてしまったみたいだ、と僕は思った。ただ自分の心臓の鼓動が、耳元でドクドクと聞こえていた。


やがて緑川さんが袖で涙を拭おうとした時に、僕ははっと気が付いた。

浮かんできたその言葉を、心の中で、静かにつぶやいてみた。


アダルト、チルドレンー。


大学の時に発達心理学の教授が話していた事を、鮮明に覚えていた。

「子供時代に子供として生きることが出来なかった人が大人になるのは、とんでもなく難しいことなんだよ。私が言っているのは、本当の意味で大人になるっていう事ね。なぜって、満たされることのなかった子供の心が、いつまでもいつまでも、その人を支配し続けるから。」


緑川さんは常に、天才で居なくてはならなかった。たった一人の母に、ただ愛されるために。だから彼女は子供の頃から大人だった。でも皮肉なことに彼女はそのせいで、本当の意味で大人になることが出来なくなってしまったのだ。認められることのないまま、母は突然旅立った。そして今、大人の年齢になった彼女は泣いていた。どこにも行き場のない涙を流しながら。肩は震えていなかったけれど、心を震わせて泣いていた。全く声を上げていなかったけれど、それは正しく慟哭だった。


僕はいつの間にか緑川さんの方へ歩み寄り、彼女を抱きしめていた。彼女はぴくりと体を震わせたあと、まるで堰を切ったかのように、声をあげて泣き始めた。

自分が彼女の家族でもなければ恋人でもない事は分かっていたけれど、その時はただ、そうする事しか出来なかったのだ。今誰かが彼女をしっかりと抱きしめなければ、彼女の中で凍り付いていた子供の心はここでバラバラに崩れ落ちて、もう二度と修復することが出来なくなってしまうだろう。中学生の頃に彼女の中で粉々に砕けてしまった、繊細なガラス細工と同じように。そしてその時彼女の目の前にいたのは、僕一人だった。


やがて緑川さんの中から、ゆっくりと子供の心があふれ出した。

もちろん形のあるものではなかったけれど、僕は彼女を抱きしめながら、それがあふれ出てくるのを腕の中にはっきりと感じていた。緑川さんの子供の心は、声にならない声を上げながら、その高原に建つ小さな家の中を満たして行った。

緑川さんの中で凍り付いた子供の心は、彼女をいつまでも苦しめ続けていたのだ。まるでゆっくりと体内を巡って生き物を死に至らしめる、効き目の遅い毒のように。


トラウマを言い訳だとか逃げだって決めつける人がよくいるけれど、僕はそれが大きな間違いであることをその時確信していた。緑川さんが抱え込んで生きてきたトラウマは、現実のものとしてその小さな家の中に、確かに存在していたから。それは目に見えるものではないけれど、人生の中でより大きな意味を持つのは、きっとむしろ目に見えないものの方なのだ。そして僕は彼女を抱きしめながら、自分の胸に彼女と同じ痛みを感じていた。


窓の外を見ると、高原には音もなく雨が降り続いていた。その雨は、きっと緑川さんの心の中でも降り続いていたのだろう。

自分は今、果たして彼女の傘になれているだろうかと、その時ふと思った。本当の意味で緑川さんを救い出すことは、もう誰にも出来ないのかも知れなかった。でも今この瞬間は、彼女がほんの少しでも安らげたらいいのにと、心の底から僕はそう願っていた。

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