第19話
「高校から東京に来てみたら、何もかもが新鮮に感じた。一人暮らしを始めて、たくさんの新しい同級生に出会って。私はもう誰かのために絵を描く必要がなくなって、それでようやく、自分が本当は絵を描くのが好きだった事を思い出したの。」
と言って、緑川さんは窓辺に座り直した。
「それから美大で弓木先生の教室に入って、私は本格的に絵を描くことを仕事にしたいって考えるようになったの。もちろん母みたいな世界的な画家にはなれっこないけど、それでも絵を描いて生きて行きたいって思うようになった。でも、そんな時に突然、母が亡くなった事を知らされたの。心筋梗塞だった。」
僕はただ黙って、緑川さんを言葉の続きを待った。
「母が亡くなったことは、もちろんショックだったの。でも通夜の時もお葬式の時も、涙は出てこなかった。周りの親戚が、なんて薄情な娘だって噂してるのが聞こえた。でもどうしても泣けなかった。むしろ、どこかホッとしている自分が居たの。これでもう、自分は母のかけた呪縛から解き放たれたんだって、そう思ってた。」
緑川さんはそう言って、少し顔をしかめた。
「でもそれから1か月くらいした時にね、それは突然やって来たの。朝大学に通うために電車に乗っている時に、上手く呼吸することが出来なくなって、私はその場に座り込んだ。心臓の鼓動が異常に速くなって、胃の中にあるものを全部吐いてしまいたくなった。私はその時、このまま自分は死ぬんだって思ったの。その発作は、それくらい激しかった。周りの人が心配して救急車を呼んでくれたんだけど、体には何の異常も見つからなくて、結局精神科を受診することになったの。」
「それで…医者は何て?」と僕は尋ねた。
「精神科の先生はね、典型的なパニック障害でしょうって。カウンセリングも受けたんだけど、昔地下室の閉鎖空間で絵を描いていたことが、トラウマになっているんでしょうって言われたの。それからも私は電車に乗ろうとし続けたんだけど、でもダメだった。いつも途中でパニックが襲って来て、私は途中の駅で逃げるように降りることしか出来なくなった。色々薬も試してみたんだけど、私はこのまま東京で暮らすことがもう難しいってことは分かってた。でも病気のことは誰にも言えなかった。だから弓木先生には本当に申し訳なかったんだけど、大学を辞めることにしたの。」
「そういうことだったのか。」と僕はつぶやいた。
緑川さんは頷いて、
「それでね、精神科の先生に言われたのは、自然が豊かな所で暮らしてみるのはどうかって。私にとって自然が豊かな所って言えば、この場所しか思いつかなかった。何だか皮肉なものね、あれだけ憎んでた母が愛していたアトリエが、結局私が最も必要としていた場所だったの。」
そう言いながら緑川さんは、自分が腰かけている窓枠を指でゆっくりとなぞった。
「それから私はここで自然を感じながら、絵を描くようになった。朝と晩は霧ヶ峰高原を散歩して、昼は絵を描いて、自炊をしてっていう、そういう生活。週に一度生協の人が来てくれる以外は、何でも一人でするようになって、本当に少しずつだけど、私は自分が立ち直っていくのを感じるようになった。運良く昔母がお世話になってた画商の方が声をかけてくれて、私は別の名前を使って東京のギャラリーに絵を出すようになった。もちろんそれだけじゃ生活できないから、母の遺した遺産を使いながらだけど。」
緑川さんの向こうに見える窓の外の景色は、もう暗くなり始めていた。今日はずっと天気が悪かったから気付いていなかったけれど、時間は確かに過ぎつつあるのだ。
僕は深く頷いて、
「本当に…良かった。」と言った。笑おうとしたのだけれど、何故だか上手く笑顔が作れなかった。
緑川さんはそこで視線を落として、
「でもね…私、今でも時々分からなくなるの。」と言った。
「夜中に急に目が覚めて、高原の中でたった一人で暮らしていることを思い出して、寂しくてたまらなくなるの。そして、私は結局、いつまでも母の呪縛からは逃れられないんだって気付くの。この場所で一人で生きて行くことが、私の宿命なんだって。」
そこで緑川さんは口をつぐみ、僕は彼女の話の続きを待った。でも続きはどこにもなかった。
ただ長い沈黙が、僕ら2人の間を静かに流れていた。
緑川さんの長い告白は、そこで唐突に終わっていた。
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