第18話

「中学3年の夏に全国の絵画コンクールがあって、私はそれにずっと前から準備していた自信作を出したの。私は長年の地下室の教育で心がおかしくなって来ているのを感じていたけれど、自分ではそれに気付かないふりをしていた。きっとそれを認めてしまえば、今までの努力が全て崩れ落ちてしまうような気がしていたのね。それに、その全国のコンクールでいい成績を収めれば、母はきっと変わってくれるはずだと信じていたの。私がどんな私であったとしても、愛してくれる優しい母に変わってくれるはずだって。それまでも信じては裏切られ続けてきたのに、やっぱりそれでも信じていたの。」


そう言って緑川さんは立ち上がり、窓辺に立って降りしきる雨を見上げた。風の中で、ニッコウキスゲが揺れていた。雨に打たれて風に揺れるニッコウキスゲは、晴れている時よりもずっと儚く見えた。


「その夏の日に全国大会の結果が出て、私は優秀賞を取ったの。凄く嬉しかった。それは全国でも10人くらいしか貰えないような賞だったから。それまでの努力が報われた気がして、誇らしかった。」

緑川さんはそこで一旦話すのをやめ、こちらに振り返ってまたくちびるを噛んだ。僕はただじっと、彼女の話の続きを待った。


「それで喜び勇んで私は家に帰って、母にその優秀賞の賞状を見せたの。母はキッチンで、夕食の用意をしている途中だった。キッチンの奥からは、ハンバーグの良い匂いがしていたのを覚えてる。」

緑川さんはそこで、困ったような顔をして僕の顔を見た。その時の彼女はどう見ても泣こうとしているようだった。でも、そのうちに彼女は自分の気持ちを、無理やりどこかに飲み込んだ。そしてまるで何かを決心したかのように、目を閉じてゆっくりと呼吸した。


緑川さんはそれから、僕に向かって淡く微笑んだ。

遠い昔に彼女の奥深くにしまい込まれた記憶が、もう一度呼び覚まされようとしていた。僕はそれに気が付いて、彼女にもうこれ以上は話さなくていいと言おうとした。呼び覚まされた記憶が、彼女をまた傷つけてしまうことを知っていたから。でも結局の所声は出てこなかった。僕はただ固唾を飲んで、彼女の次の言葉を待っていた。

彼女はやがて決心を固めて、その重苦しい扉を自分の力でこじ開けた。

「私が優秀賞を取ったって喜んで言った時ね、母はなぜ大賞が取れなかったんだって言って、私を罵倒したの。」

僕は自分が聞いた言葉を、すぐには信じる事が出来なかった。

「そんな、罵倒って…全国大会だよね?大賞が取れなかったって、ただそれだけで…?」

「母はね、中学生の大会で1番になれないようなら、世界で活躍できる訳がないっていう考えの人だったの。」


僕はその時の緑川さんの気持ちを考えたくなかった。でも、想像せざるを得なかった。その光景は、僕の中に余りにも鮮明に浮かんできた。

「その瞬間にね、私の中で何かが壊れてしまったの。私はその場に膝から崩れ落ちて、キッチンの床に座り込んで、そして立ち上がることが出来なくなった。母が叱る声も、もう遠くの方でしか聞こえなくなった。まるで救急車が通り過ぎた後の、いつまでも鳴り続けるサイレンみたいに。」

緑川さんは窓辺に腰かけて、放心したように何もない空間を見つめながらそう言った。


「きっと私の心の奥底には、ずっとガラス細工みたいに繊細な部分があって、その場所だけはどんなことがあっても、大切に守って生きていたのね。でもあの夏の日に母に罵倒されて自分の全てを否定された時、私はそのガラス細工が粉々に砕けてしまったのを感じたの。そういうものが子供の心の中で砕けてしまうとね、残念だけど、もう2度と元の形には戻らないのよ。」

そう言って緑川さんは、寂しそうに笑った。

その時僕はようやく、彼女が背中にまとっている淡い影の片鱗を、少しだけ垣間見たような気がした。


「私その日からね、2度とハンバーグが食べられなくなったの。昔は大好きだったのに、ハンバーグが焼ける匂いを嗅いだだけで、もう耐えられないほど苦しくなるの。」

緑川さんは悲しみに満ちた声でそう言った。


彼女はその後も、心に積もっていた思いを驚くほど穏やかな口調で話し続けた。

「それから私は学校にも行けなくなって、1日中自分の部屋のベッドで膝を抱いて、ぼんやりと窓の外を見て過ごすようになった。母も最初は怒っていたけど、そのうちに私がもう自分の自慢の娘では居られなくなったことに気が付いたみたい。その年の秋から冬にかけて、何度も結論のない話し合いが続いたの。母は泣きながら、あなたの望みは何なのと私に問い正した。私は、ただあなたと離れて暮らしたいだけって答えた。それで高校生の時から、私は東京で暮らすことになったの。」

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