第17話

「父が亡くなったのは、私がまだ6つの頃だった。」と緑川さんは言った。

「私が覚えているのは、とにかく大きくて優しい人だった、っていう事だけ。普通の会社の営業マンで、母とは共通の知人を介して知り合ったみたい。絵には全く興味がない人で、ゴッホとモネの違いも良くわかっていなかったらしいんだけど、それが逆に母にとっては良かったの。」

「それは…どういう意味で?」と僕は尋ねた。


「母は、何も言われなければ1日中絵の事を考えているような人だったから、絵のことを何も知らない父と他愛もない話をしていると、きっと良い息抜きになっていたのね。でも、父が亡くなって、色んなバランスがおかしくなってしまったの。」

そう言って緑川さんは、ようやくティーカップを手離して脇へそっと置いた。

「それから半年くらいの間母はふさぎ込んで、家事は住み込みのお手伝いさんに任せっきりになってしまったの。2人で向かいあって食べる食事の時も会話がなくて、私はどうしたら良いのか全く分からなかった。」


緑川さんはそこでひと息ついて、

「でもその期間が過ぎると、母は突然決心したみたいに私の教育を始めたの。」と言った。

「教育?」と僕は怪訝な顔をして尋ねた。

緑川さんは眉を少し寄せて、

「母の目標はね、私を母のような世界的な画家に育て上げること。父が居なくなってから、それが母にとって唯一であり最大の目標になったの。私にある程度絵の才能があることは、きっと幼いころから母は見抜いていたんだと思う。」と言った。

僕は嫌な予感を感じながら、緑川さんの話の続きを待った。


「それから、母による徹底的な絵の教育が始まったの。小学校から帰ると私は地下室に入れられて、夜中まで絵を描き続けた。来る日も来る日も、私は母が満足するまでその地下室で何十枚も絵を描いていた。母が良いと言うまで、私は自分の部屋に上がることは出来なかった。描いているうちに手が痛くなって、私は泣いて、それでも絶対に母は私を許してはくれなかった。そしてひどい絵を描くとね、母はその絵を、私の目の前で破り捨てたの。」

そう語る緑川さんの言葉には、もういかなる感情も含まれてはいなかった。まるで長く経過した歳月が、彼女の記憶を麻痺させてしまっているかのようだった。


僕は何と言ったら良いのか分からずに、ただ唖然として緑川さんを見つめていた。彼女の飛び抜けた絵の上手さは、決して純粋な才能だけによるものではなかったのだ。

彼女はそんな僕の姿を見て、諦めたように笑って言った。

「そうだよね。こんな話聞かされても、安田くんも反応に困るよね。」

僕は首を振って、

「いや、聞きたいよ。もし緑川さんが話したいのなら、もちろん最後まで聞くよ。」と真剣な表情で答えた。


緑川さんはありがとうと言って、話を続けた。

「私はずっと、母の期待に応え続けたの。もし母が望むような子でなくなったら、それからは愛して貰えなくなることが分かっていたから。そのせいで私は小学校の時からずっと、絵のコンクールで最高の評価を取り続けた。そうすれば母は、私を手放しで褒めてくれた。さすが私の娘ねって。」

緑川さんはそう言うと、両方の手のひらをギュッと握り合わせた。

「地下室での教育は、私にとっては拷問に近いものだったの。でも私はその苦しみを心の中にしまい込んで、母の期待に応え続けた。中学校に上がってからも同じように。でも中学3年生のある夏の日に、そんな日々は突然終わったの。」

「突然?」と僕は尋ねた。緑川さんはぼんやりと上の方を見つめながら、微かに頷いた。

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