第21話
緑川さんは泣き疲れたのか、その後寝室のベッドですぐに眠り込んでしまった。彼女は壁の方を向いて、こちらに背を向けて眠り込んでいた。僕はその華奢な背中に部屋に置いてあったブランケットをかけ、椅子に腰を下ろした。そして長い間心にため込んでいたものを吐き出すように、深く深くため息をついた。今日1日で起きたことを自分の中で整理するには、まだまだ時間がかかりそうだった。
壁にかかった丸時計を見ると、時刻は既に夜の9時を回っていた。緑川さんの寝室の本棚を覗いてみると、海外の小説がずらりと並んでいた。マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」は全巻揃っていて、手に取ってみるとどれも読み込まれた跡があった。僕は人生で、「失われた時を求めて」を全て読み切った人に出会ったことがなかったので、それだけで彼女を尊敬してしまった。
冷静に考えてみたら、僕は今日の宿を取っていなかった。緑川さんと話が出来たらそのまま東京に帰るつもりだったから、こんな時間になるとは思ってもみなかったのだ。ここで勝手に寝るのは流石に申し訳ないので、今夜は車中泊をするしかなさそうだった。僕は緑川さんの本棚からサマセット・モームの「月と六ペンス」を借りて、寝室の明かりをそっと消した。
緑川さんの家から出た時も、雨はまだ少し降り続いていた。辺りはもう真っ暗で、僕は足元に注意を払いながら時間をかけて姉の車まで戻った。
それから車の中で懐中電灯の明かりを照らして、しばらくの間、月と六ペンスを読みふけっていた。窓ガラスに当たる雨音が心を落ち着けてくれたせいか、僕は一心不乱に何時間もその小説を読み続けた。周りに誰もいない世界で読む小説は、いつもとは全然違う感触があった。僕の感覚はいつもよりずっと鋭敏で、文章の中に作家の息遣いすら感じられるような気がした。夜の高原の暗闇の中で、100年前のイギリスの作家と同じ時間を共有するというのは何だか不思議な気分だった。
そして気が付いた時には、静寂が辺りを包んでいた。
僕は小説のページを閉じて、外の音にそっと耳を澄ませた。やはり雨音はもう聞こえなかった。ディスプレイに映った時刻を見ると、夜中の12時を過ぎた所だった。車から外に出ると夜空は綺麗に晴れていて、そこには信じられない位沢山の星があった。姉の車に寄りかかりながら、僕はそんな星々の光をただ言葉もなく見つめていた。
今、夜空に見えている星の光って、実は何千年も昔に放たれたものだという話をいつか聞いたことがあった。そう考えてみたら、サマセット・モームと僕を隔てている100年という月日って、そんなに大したものではないのかも知れなかった。
僕は目を閉じて、緑川さんが抱えて生きてきた耐えがたい痛みのことを考えた。そしてこの星々と同じくらい多くの、世界中の人々が抱えている行き場のない悲しみを想った。この世界はあまりにも広く、避ける事の出来ない残酷な運命に満ち溢れていた。
そのうちに胸の奥に熱いものが込み上げてきて、僕はくちびるを噛んで両方の拳をぎゅっと握りしめた。そして心を落ち着けるように、美しい夜空を見上げて大きく息を吐いた。
車に入ってバックミラーを見た時、僕は自分が涙を流している事に気が付いた。僕の両目は潤んで、涙は頬に落ちかかっていた。僕は慌てて目を擦ると、気を取り直すように首を横に何度も振った。
自分が最後にいつ泣いたのか、その時の僕にはまるで思い出せなかった。社会人になってから、いつの間にか僕は毎日心をすり減らして生きるようになっていた。涙を流すような熱い想いなんて、仕事をする上では邪魔なだけだった。ただノルマをこなす事が、自分の存在価値を示す唯一の手段だったから。でも、心はまだどうやら自分の中にあったみたいだった。僕はそれを知って、静かな喜びが湧き上がるのを感じた。きっと緑川さんの告白が、僕の心の中にあった重い鉄の扉をこじ開けたのだ。
僕は車のシートを倒して、脚を伸ばして横になった。目を閉じた瞬間に眠りが、まるで待ち構えていたかのように訪れた。
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