レミントン神父の最後
「シスター・マリア」
廊下を歩く日菜子が、不意に一緒に歩いていたシスター・マリアに訊ねた。
「妖魔についてどうお考えですか?」
「はっ?」
突然の問いかけに、シスター・マリアは困惑した顔で日菜子を見た。
「妖魔について、です」
「許されざる存在ですわ」
シスター・マリアは言った。
「神に逆らった者、汚らわしい者、そんな者達がこの世に存在することは許されません」
「……そうですね」
「必ずや、奇跡が起きて、この世から悪を一掃してくれるでしょう」
「奇跡?」
「ええ。奇跡です」
シスター・マリアは言った。
「この地上のどんな権力にも従わない強大な力。それが奇跡です」
「恐ろしい、ですね」
「ええ。恐ろしいですわ」そういうシスター・マリアの口調は楽しそうだ。
「圧倒的な力の前に、人は常に無力。違いますか?」
「ちなみに、その力は、誰の者ですか?」
「神と、神を信じる者の力です」
「もし、神を信じなければ?」
「消えるのみです」
「消える?―――死ぬ……そういうことですか?」
「勿論」
「……そういえば」
日菜子は、今、思い出したという顔でシスター・マリアに訊ねた。
「あの時、詩編143編を読まれていましたが、あれはどういう?」
「―――ああ。あれですか」
シスター・マリアは、喉の奥で笑って答えた。
「私が最も好きな一説なのです。
主よ、私の祈りをお聞き下さい。
嘆き祈る声に耳を傾けて下さい。
あなたのまこと、恵みの御技によって
私に答えて下さい。
あなたの僕(しもべ)を裁きにかけないで下さい。
御前に正しいと認められる者は
命あるものの中にはいません。
敵は私の魂に追(お)い迫(せま)り
私の命を地に踏みにじり
とこしえの死者と共に
闇に閉ざされた国に住まわせようとします。
……これこそ神への祈りです。
神の力―――奇跡を望む声です。
神の僕たる我らを窮地よりお助け下さい。そういう意味です」
「確かに、私たちは窮地に陥っていましたからね」
日菜子は表情すら変えずにそう言った。
「そうです」
「では、
あなたの僕(しもべ)を裁きにかけないで下さい。
御前に正しいと認められる者は
命あるものの中にはいません。
……とあるのは?
窮地に陥った者、すなわち我らは死者ではありません。
命ある者です。なのに、シスター・マリア、あなたは我々が神の前に正しくないとおっしゃっていたように聞こえてならないのですが」
「ご関心があるのなら、聖書の講義をなさっても結構ですよ?」
「解釈の問題……そういいたいのですか?」
「そうです」
シスター・マリアは冷静に答えた。
「私個人の解釈ですが―――“御前に正しいと認められる者”とは、すなわちただお一人、主イエスのみ。すでに人としての命を終えられた方のこと……そういうことですわ……さて。殿下。次の授業が始まります。遅刻はなさらないよう。ご機嫌よう」
「……ご機嫌よう」
―――おかしい。
教室へ歩きながら、日菜子は考えていた。
妖魔が現れた時、そして撃破された時の狼狽ぶりは何だ?
何より、あのタイミングで現場に居合わせたのは偶然か?
あの詩編の朗読の意味は、本当にシスターの言う通りなのか?
詩編の朗読で、なぜ、妖魔は姿を消したのだ?
偶然。
シスターはそれで片づけるつもりだろう。
だが、偶然がこうも重なることはありえない。
何より、時間もない。
イーリスや水瀬が何か朗報を持って来てくれることに期待しよう。
いや
日菜子は思った。
私にも出来ることがあるはずだ。
シスターは、水瀬やイーリスは警戒しているだろうが、何の力もない私を警戒しているはずがない。
つまり、私の手駒の中で、最もシスターに近づきやすいのは、私だ。
よし。
日菜子は踵を返してシスター・マリアの歩いていった方へと向かった。
ちなみに、授業はすべてサボったことになるが……。
そうだ。
日菜子は名案が浮かんだ。
「補修は、春菜に受けてもらいましょう」
シスター・マリアが向かった先は、使われていないはずの迎賓館だった。
明治時代に建てられた煉瓦造りの瀟洒な建物内は学校の貴重品が集められた資料館となっており、普段は閉鎖されている。
シスター・マリアは、通用口のドアをあけると、そのまま中へと入っていった。
その様子を物陰から見ていた日菜子がドアへ向け歩き出そうとして動きを止めたのは、別な集団がシスター・マリアを追って迎賓館のドアへと殺到したからに他ならない。
「?」
よく見ると、神父の服装に身を固めているが、手には武器が握られている。
「……」
日菜子は、一瞬だけ躊躇したが、彼らが全員迎賓館に入ったのを確かめると、ドアへ向かって駆けだした。
「やっと合流できましたね」
「はっ」
部屋に入ってきたシスター・マリアに恭しく頭を下げたのは白銀だ。
「さすが“滅の天使”……やってくれました」
シスター・マリアは壁に隠された閉鎖空間を開きながら言った。
「彼女の介入は、本当に予想外のこと……ですが、この落とし前はきっちりとつけていただきましょう。白銀、“媒体”は?」
「そこに」
白銀があごでしゃくった先には、重なるようにして倒れ伏している舞とうららの姿があった。
シスター・マリアは、憔悴しきった二人の表情に満足気に頷いた。
「それで?どうだったのですか?逃走ルート上に敵は?」
「はっ。地下礼拝堂経由でここまで。地下礼拝堂は木戸達が押さえています。連絡がありましたが、ヴァチカン第十三課(イスカオリテ)を殲滅したと」
「ヴァチカンが動いたのですか?」
「大したことはありません」
白銀は言い切った。
「木戸達は敵を殲滅したのです。すぐにこちらから別ルートを経由して移動するよう、指示してあります」
「結構。では、ここも危険です。移動しましょう。すぐに閉鎖空間へ“媒体”を移しなさい」
「はい」
白銀が舞とうららを抱え、閉鎖空間へ入り、その後にシスター・マリアが続いた、まさにその時だった。
バンッ!!
ドアが蹴り破られ、黒装束の男達が室内になだれ込んできた。
手には銃が握られ、その銃口はシスター・マリア達を捉えている。
「?」
「シスター・マリアことマリア・テレーヌ、ここまでだ」
男達の壁の中から声を上げたのはレミントン神父だった。
「奇跡に執着するあまり、神の道を踏み外した愚か者め。神の裁きを受けてもらおう」
「神の―――裁き?」
シスター・マリアは鼻で笑って言い返した。
「神の名を借りて己の都合で人を裁くことを神の裁きと言うのですか?―――汝、人を裁くなかれですわよ?」
「これはこれは―――」
喉の奥で笑うレミントン神父は言い放った。
「何か勘違いをなさっている様だな。シスター・マリア……これは猊下のお決めになったことだ。我らの任務は調査や逮捕ではない。あなたの身辺調査など論外……いいか?シスター・マリア……これは宗教裁判なのだ!」
「さしずめ私は魔女?……女を公に殺す一番の口実ですね」
「シスター・マリア。ふさわしい居場所……地獄へ、サタンの元へ赴くがいい」
「さぁ―――どうかしら」
突出しようとする白銀の肩を押さえ、シスター・マリアは凍った笑みを浮かべながら答えた。
「地獄?私とあなた方、どちらがお似合いかしら?」
「―――撃て」
連続した銃声が室内に響き渡る。
「!?」
銃を持つ男達、なによりレミントン神父自身が驚愕した。
発射された銃弾が、空中で静止していた。
「無駄です」
「ど、どういうことだ?対呪用特殊加工弾が」
「神父……だからヴァチカンは愚かだと言うのです……以前、申し上げませんでしたか?」
勝ち誇ったわけではない。
ただ、冷たい視線でシスター・マリアは言った。
「この種の弾丸は、魔法の楯を破壊する、いわば徹甲弾……魔法の楯という装甲を打ち抜くために開発された存在。空間を自在に操る空間魔法には何の役にも立ちはしないと」
「空間魔法?まさか、シスター・マリア……貴様」
「いかなる弾丸でも、運動エネルギーを奪われては飛ぶことは出来ません。その程度のこと―――では、神父。サタンによろしく」
シスター・マリアは一礼の後、閉鎖空間を閉じた。
「まっ、待て!」
神父達が閉鎖空間が消えたあたりに殺到した途端―――
「!?」
空間が白くなった。
同じ頃
「……」
日菜子は恐る恐る地下へ通じる階段へ震えるつま先を階段に乗せた所だった。
その途端、
ズンッ!!
空気を揺るがす鈍い音が響き渡り、建物が揺れた。
「!?」
とっさに耳を塞ぎ、身体を低くする。
爆発音だということはすぐにわかった。
建物を破壊するほどではない。
何かを爆破した程度。
でなければ死んでいる。
爆発音は、地下からだ。
日菜子は階段を駆け下りた。
「これは―――」
日菜子が見た光景。
それは丁度、写真で見た爆撃直後の惨状そのものだった。
煙と爆薬特有の臭い、さらに胸がムカムカする嫌な臭いが嗅覚を襲い、煙に遮られがちな視界には、崩れた壁、原型を留めていない得体の知れない物体が転がる床が見える。
物体?
違う。
それは、年頃の女の子が見るべき代物ではない。
日菜子は胃液が逆流しそうになった。
人間の破片だ。
あたりに散らばる赤黒い物体はすべてそうだと見て間違いない。
「これは一体……」
生存者はいないのか?
日菜子はあたりを見回し、発見した。
そこにあったのは、人の山
上辺は炭化しているものの、間違いなく、人だったモノの山があった。
そして、その中からうめき声が聞こえてくる。
「……っ!!」
日菜子は手が汚れるのも構わず、死体をどけにかかった。
炭化した皮膚はふれるとすぐにむけ、ピンク色のまだ暖かい肉が日菜子の手に触れた。
「うっ」
吐きそうになるのを必死に押さえ、二人の死体をどけたその下に、生存者がいた。
「……あ……ぁぁ」
そこにいたのはレミントン神父だが、日菜子は面識がない。
ただ、服装から神父だということがわかる程度だ。
服も身体も血にまみれている。
もう助からない。
日菜子には、不思議とそれがわかった。
しかし―――
「神父様!?大丈夫ですか!?」
日菜子には彼を見捨てることは出来なかった。
「うっ……ああ……生徒さんかい?」
うっすらと開いた目が日菜子を見つめていた。
「はっ……はい!すぐに助けを呼びます!頑張ってください!」
「いや……いい」
弱々しく出された手を日菜子は握りしめた。
「ダメです!神様が守ってくれますから!」
「ふっ……神……か……よし。このまま、逝くとしよう……皆、待っている」
「何を弱気な!」
叱りはするが、神父がもう長くないことは、日菜子にも明らかだった。
「君、すまないがロザリオを握らせてくれないか……ありがとう」
レミントン神父は、穏やかな表情を浮かべ、神に祈った。
「……主よ、助けてくれとは申しません。今、御元へ参ります。救われるためでなく、ただ、あなたに文句を言いたいがために……」
「……神父様」
「……アーメン」
ロザリオを握った手が落ちた。
「神父様?」
日菜子は恐る恐る神父の身体に触れ、神父が事切れていることを知った。
「……一体、何が起きたというのですか?」
神父の冥福を祈った後、日菜子は改めて室内を見回した。
室内は爆発になぎ倒され、原形を留めているものはほとんど存在しない。
何より、煙がひどく、視界が効かない。
このままでは危険だ。
他人が来たら、私の立場も危うい。
日菜子は単独で足を踏み込んだことに後悔しつつ、部屋を出ることにした。
「あら?」
突然、煙の向こうからそんな声が聞こえてきたのは、その時だ。
「変ねぇ」
女の声、ただし、気配は複数だ。
「だ、誰かいるのですか?」
日菜子の問いかけに驚いた様子で返事があった。
煙が邪魔で姿が見えない。
「あらイヤだ。こんなの聞いていないわよ?」
ただ、困惑した様子の声だけが聞こえる。
「?」
「生き残り、しかも生徒がいるなんて……どうしましょう」
「あの?どなたですか?」
「私たち?うーん。そうねぇ。本名名乗るわけにもいかないし」
「?」
日菜子は本能的に立ち上がって、ドアに下がろうとした。
危険だ。
危険すぎる。
あれは、危険だ。
日菜子の中の何かが、警告していた。
「まぁ……生き残りでも死体でも、食べちゃえばいいんだものね―――しかも、何?ものすっごい高貴な乙女の匂いがする」
「おいしそう……」舌なめずりと一緒に聞こえてきた声。
「ねぇ?心臓、私に頂戴?」
「私、生き血が欲しい」
「あの細い腕欲しい」
「あらあら。じゃ、純血は私がいただきますわよ?殺す前にたっぷりと愛してあげる」
「あ、あなた達、一体……」
「吸血鬼―――わかるかしら?」
日菜子はドアにむかって駆けだそうとして、足を止めた。
ドアに立ちふさがる彼女に気づくのが、少しだけ遅かった。
日菜子は退路を塞がれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます