第13話 階段下(3)
わたしは弾かれたように全力で廊下を走り出した。もう茜もユウキも走っている。真後ろには葵先輩の足音。夢中で走った。
南北の廊下はかなり長い。ようやく最初にいた生徒用昇降口の手前まで来た時には、息切れしそうになっていた。葵先輩が言っていた、バケモノとは数メートル離れたら大丈夫、ということなら、もう十分距離は取っているはずだ。茜とユウキはすでに走るのをやめて振り返り、肩で息をしている。
わたしも立ち止まり、振り返った。
振り返ると、廊下の中間点あたりに葵先輩がぼんやりと立ち、背を向けているのが見えた。その向こうは?
廊下を覆うほどのバケモノが噴き出し、ナンバープレートを襲った場所には……
何もなかった。ただの薄暗い、しんとした廊下が見えるだけだ。
「え……え?」
葵先輩が急に歩き出し、バケモノが消えた場所に引き返す。わたしたちも慌てて後を追った。
「だ、大丈夫なんですか?」
追いついて、葵先輩が見ている鍵のかかった階段下の戸を見た。
ガラスは……割れていない。あんなにはっきり粉々に割れたのを見たのに。……幻だったの? しかし私たち四人分のナンバープレートは消えたままだ。そうだ、幻のはずがない。佐々木梨歩だって呑み込まれたままだ。
「目に見えて、耳に聞こえている間だけ、実体としてそこにある、ということなのかな……」
葵先輩も理解できないらしく、首を傾げる。一番後ろにいたユウキがいきなり走り出した。二年五組に登る時に使った階段を駆け上がり、またすぐ下りてくる。
「やはり二階のシャッターも元どおりです。あれだけデコボコになっていたのに」
どういうことだろう。
「でも……とにかくよかった。四人とも何もなくて」
私が言うと、葵先輩は無理に調子を合わせるように、笑った。
「そうだね。でも……とにかく警戒は緩めないようにしよう。今までどおり、隙間は見ない。バケモノが近づいて来たら全力で逃げる……。さて、これからどうするか……」
葵先輩の言葉が途切れると、急に廊下は静まり返った。しんとした暗い廊下に、再び激しくなってきた雨音だけが響いている。四人一緒にいるのでなかったら、気が狂うほどの状況だと、一瞬思う。
「あの……」
ふいに後ろにいたユウキが言った。
「僕、放送室に行ってみたいです」
振り返ると、ユウキは意を決した目で私たちを見ていた。
「放送室に本池美月がいるなら、彼女に直接会ってみたいんです」
「でも、どうやって行くの? 放送室に行く廊下はシャッターが閉まってるんだよ。あのシャッターだよ?」
茜が気のすすまない様子で言う。あの、と強調したのは、やはりそれが人一人を呑み込んだ〈人食いシャッター〉だからだ。ユウキは一瞬口ごもった。
「確かに、校舎内から向かえばそうだけど、学校の外側からなら……雨は降ってるけど、軒下を通って……窓を割るとかしたら、なんとかなるかなって……」
「なるほど……」
葵先輩は頷き、わたしと茜を見た。
「……どうして会いたいの?」
わたしはユウキに聞いた。これまでユウキは、自分からこうしたいと発言したことは一度もない。どうしてそれほど本池美月に会いたいのか、気になった。
「だって……さっき葵さんにやり込められて、反論できなかった時の、あの人の癖が……」
ユウキが口ごもる。
ようやくわたしは思い出した。あの癖は……すぐにいい言葉を思いつかないとき、何度も息を呑むあの癖は、レナだ。
「レナなの?」
わたしは思わずユウキに尋ねた。
「放送室にいるのはレナなの?」
「それは……分からないけど……」
ユウキはまた口ごもる。ユウキもまたレナに似ている。葵先輩は茜を見た。
「茜ちゃんは?」
茜は頷いた。
「外から向かうなら……」
「決まり」
葵先輩は廊下の窓を伝う雨を眺め、表情を引き締めた。
「ただ……これでこの学校という実験場に、一つの破綻が起きた、ということになるのかな」
「……え?」
葵先輩が何を言いたいのか分からなくて、わたしは聞き返した。葵先輩は窓を見たまま、目を細める。
「ここは見られているということだよ。でも監視カメラで見える範囲は完全じゃないはずだ。僕たち四人はナンバープレートを失ったが、三階にいる三人はまだ持っている。今後それをブラフに使って、僕たちは構内にいる自分たちの位置を、少しだが偽装することができるようになった。でも、それは僕たちを逆に追い込むかもしれない。観察者はモルモットが勝手に動いたり、策をめぐらすことを、良しとはしないだろうから……」
それでも意味が分からず、わたしと茜とユウキは顔を見合わせる。
いきなり雨に乗って、悲鳴が聞こえた。女の子の悲鳴。
葵先輩が息を呑む。
「え、な、何!」
茜が泣きそうな顔になった。
絶叫は、三階からだった。
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