第12話 階段下(2)

〈そしてこの、声を掛けなかったことが、愛内レナ、平田翔との永遠の別れに繋がってしまったのです〉

 とどめを刺すように、本池美月の声が断じた。

 先輩は……?

 わたしは葵先輩の方を見た。葵先輩は目を細めたまま、じっとスピーカーを見ていた。どう思っているのかは分からなかった。

〈話を「西の郷」に戻しましょう〉

 本池美月が再び淡々とした声で話始める。

〈富士の西側ではあまりにも漠然としていて分からない、この「西の郷」ですが、不二を本物の富士ではなく、日本に点在する○○富士、いわゆる地元富士と考えると、話は大きく違ってきます。地元富士は有名なものだけでも全国に数十、地元だけで通用するものも含めれば、数百を超えるでしょう。ではこの大藤にもあるのでしょうか。あります。それがこのフジニの西にある標高わずか112メートルの、通称天狗山です。小さいながらも円錐形の美しい姿をしたこの天狗山は古くから「小富士さん」として付近の住民に親しまれてきました。この西にはもともと、今の大藤市の母体となる大きな集落があったことが分かっています。つまり―この天狗山こそが『不二五国文書』に言う不二であったという仮説が成り立つわけです〉

 そこで数秒、本池美月は間を置いた。

〈でも……変ですよね。それならなぜ今は天狗山と呼ばれているのでしょう。何かこの山のイメージを変えてしまうような大きな出来事が、過去にあったのでしょうか。それは偽書に託さなければならないほど、直接には語れないような出来事だったのでしょうか。……天狗って……顔が赤いですよね〉

 私は思わず、息を殺した。耳を澄ます。ユウキや茜も顔を上げる。聞こえた気がしたからだ。しんとした校舎のはるか遠くから……下からか、上からか、それとも校庭からか……分からないが……


 っゅぃ……きゅじゃりもぎゅご……


 心臓が跳ね上がる。

「先輩……来ます!」

 動かない先輩に、私は小声で叫んだ。

「逃げましょう!」

 葵先輩はまだ動かなかった。下を向いたまま目を閉じ、開く。

「こっちに来たか……。頼みがあるんだけど、三人とも、自分のナンバープレートをちょっと僕に貸してくれないか。それから隣の会議室に移動してほしい。僕はここで……あいつを試そうと思う」

葵先輩は既にいつもの冷静な表情に戻っていた。

「試す……?」

 思わず私が問い返すと、葵先輩は白いシャツの裾のあたりに着けていたプレートをはずし、少し面白そうに笑った。

「このナンバープレート。これが少なくとも僕たちの位置情報を観察者に知らせているだろう、ということは前に言ったとおりだが、もしかしたらそれは、このバケモノに対しても同じかもしれないと思うんだ」

「この白いプレートが化け物をおびき寄せている、ということですか?」

 葵先輩は頷いた。

「このプレートをはずして、廊下に置く。それから僕は、近づいてきたバケモノから、プレートと同じ距離になるように、少し離れて立つ。バケモノがどっちに向かっていくかで、プレートがバケモノをおびき寄せているかどうか、分かるだろう。もしおびき寄せているのなら、プレートは今すぐ全員はずして、僕たちが近づかない場所に置く。ある程度危険の回避に役立つはずだ」

「でも……もし葵さんの方に向かってきたら……?」

 ユウキが硬い表情で尋ねた。葵先輩は肩をすくめた。

「まあその時は全力で走って逃げてみるよ。それから、もし会議室にバケモノが入ってきた時のことだけど、会議室には教室と同じで前後に出入り口がある。逃げる時は必ず逃げた出入り口の戸を閉めてから走ってくれ。多少の時間が稼げるはずだ。窓から外に逃げる時も同じだ」

「そ……それなら、あ、あたしが試します!」

 私は思わず言った。

「あたしは陸上で短距離やってるので、もしかしたら葵先輩より速く逃げられるかもしれないし、それに葵先輩は今みんなのし……司令塔だから、万一のことがあったら、みんな困るし、それに一個よりたくさん置いた方が、差が分かりやすいかも……」

「じゃ、じゃあ全員で廊下に立ちましょう!」

 茜が焦った声で言い出した。

「あたし全員一緒にいないと怖いです」

「ぼ、僕も……」

 言われた葵先輩が、一瞬イラッとするのが分かった。つまり、小学校の時の登校班で、毎日道路にはみ出す下級生を叱っていた時のような表情だ。

「おまえら司令塔の意味が分かってるのか……」

 葵先輩は視線を脇に逸らしたまま聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いたが、迷っている暇はなかった。

 外だ。外からあの大音響が迫ってくる!


 ぼっくんぎょもんぎゃひゃららびょ わがじぎゃごぶもんじょあげだご わがじぎゃごぶもんじょあげだぎょわがじぎゃごぶもんじょあげだご わがじぎゃごぶもんじょあげだぎょ


「じゃあ全員プレートをはずして、廊下の端に置こう。置いたらすぐ離れる。茜ちゃんとユウキは、僕と未央ちゃんよりもっと後ろでいい」

〈それはお勧めできませんね〉

 葵先輩も含め全員が動きを止めた。天井近くに取りつけられたスピーカーを見上げる。

〈ナンバープレートは、一定の護符の役割も果たしています。これで全ての危険を回避できるわけではありませんが、参加中の安全を保つため、必ず身につけることを推奨します〉

 声は冷静で、そしてあらかじめ原稿が準備されていたかのような、滑らかな返答だった。

「やっと双方向なことを認めたわけだ」

 葵先輩は鼻を鳴らして、冷ややかに言った。

「でも僕は君の言うことを信用しない。なぜなら君は、ウソつきだからだ」

 本池美月は沈黙していた。葵先輩は、そこに彼女がいるように、スピーカーをじっと眺めていた。

「まず、君はそんな危険があることを、手紙では何も言っていなかった。顔も見せず、双方向でやり取りが可能なのに、これまで僕たちの訴えを、聞こえないふりをして一切無視した。そして、これが一番重要だが、君は全く違った視点で事件を検証すると言いつつ、もっともらしい古文書の話もはさみながら、実際には事件の関係者である僕たちを責め、精神的に追い込もうとしている。つまり、君は僕らを騙し、あのバケモノの新たなエサとして、僕らを提供しようとしているだけだ。そんな君の言うことを聞く必要はない」

 葵先輩が言い切ると、スピーカーの向こうで本池美月が息を呑むのが分かった。

 わたしは、葵先輩は圧倒的に攻める方が得意なタイプなのだなと感じた。本池美月の話を受け身として聞いている時は、ともすれば彼女の主張に引きずられて、心が揺れているのを感じる時もあったが、直接反撃できるようになると、一気に攻勢に出た。たぶん、これが本当の真嶋葵なのだと思う。本池美月が双方向であることを知らせてしまったのは、大きなミスだ。なぜなら、葵先輩が本池美月に引きずられることは、二度とないから。

 本池美月がもう一度息を呑むのが聞こえた。さらに、もう一度。

 え……?

 わたしはこの、困ったときに息を何度も呑む癖を、どこかで見たことがあった。どこで……

〈違います。私が言っているのは全て事実です。私はただ〉

 ドンッ

 鍵のかかった戸が外側から叩かれて、大きく揺れた。ガラス一面に映る、大量の手のひら。

 バンバンバンッ ガンガンガンッ

「じゃあ、計画どおりにするよ」

 葵先輩は一瞬わたしたちを見てから南北の長い廊下に戻り、取りはずしたプレートを端に置いた。私とユウキも急いで取りはずし、同じ場所に置く。

「茜?」

 茜はまだ元の場所に立ったまま、ワンピースの襟に付けたプレートを取り外すのに手間取っていた。

「取れない。取れないよ、どうしよう!」

 わたしは慌てて茜のところに戻り、何かに引っかかっているらしいピンの部分を外そうとした。取れない理由がわかった。襟の部分の生地が厚くて、ピンの先が埋まってしまっている。

「貸して」

 葵先輩が襟をライトの方に向け、金属のピンを少し曲げるようにして、ようやくはずした。

「葵さん。早く!」

 ユウキが廊下から叫ぶ。戸のガラスには、外側から幾重にも大小の手がぎっしりと貼りついていた。ミシッとガラスが軋む。葵先輩が茜のプレートを廊下の同じ場所に置く。そこから二メートルほど離れたところに、全員で立った。プレートもわたしたちも、階段下の戸からは、数メートルしか離れていない。逃げないでいるのは、とてつもなく緊張する。

「茜、ユウキ。もう少し後ろに下がって」

 逃げきれなかったときのことを考えて私が言うと、もう少しと言ったのだが、二人は走って五メートル以上後ろに下がった。

 ま、いっか。

 そう思った時、爆発のような音を立ててガラスが内側に飛び散った。

 一気にボリュームの上がった大量の念仏のような声と一緒に、滝のように無数の手が、腕が、激流となって校舎内になだれ込んでくる。


 ごじゃびゅもげげぎじゅばじじゃ わがじぎゃごぶもんじょあげだご わがじぎゃごぶもんじょあげだぎょわがじぎゃごぶもんじょあげだご わがじぎゃごぶもんじょあげだぎょ わがじぎゃごぶもんじょあげだぎょ わがじぎゃごぶもんじょあげだぎょ


 悲鳴を上げる間もなかった。億の手が凄まじい速さで床を這い、ネームプレートとわたしたちが待つ南北の廊下に濁流となって押し寄せてくる。

 怖い。逃げ出したい。唐突に葵先輩がわたしの手首をつかむ。バケモノの動く方向を見極めて逃げるタイミングを計っているらしい。心臓がさらに跳ね上がったが、恐怖のためなのか、先輩に腕をつかまれているせいなのか、もう分らなかった。

 目の前まで来た大量の手が溢れて、天井の高さまで膨れ上がった。好き勝手に動く一面の手を間近に見て、吐き気がする。思わず身を縮める。バケモノはどちらに向かうのだろう? もしもわたしと葵先輩の方に向かってくるなら、たぶん逃げきれない。

 そこまで考えた時、ふいに、それでもいいじゃない、と思った。私も葵先輩も、レナに、平井翔に、声をかけず、救えなかった。その代償を払う時が来ただけだ。一人じゃない。葵先輩も一緒だ。それにもし……もしこの手の中にレナもいるのなら……また、会えるのかな……

 大量の手が襲いかかってくる。獲物に飛びかかるように。四つのナンバープレートが一瞬でバケモノの下敷きになって消える。

「走れ、未央ちゃん!」

 葵先輩が手を離し、わたしの肩を押して叫んだ。

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