第10話 2年5組(5)

本当だった。


 ごにゅぽき……どずぎぶほんだぐきがだじじゅくもちじゅあぎゃごだずんへがぎゅぎゅぎゅ……


 どこからか、微かにあの大勢過ぎる声が近づいてくるのが聞こえだした。最初は方向が分からなかった。あの意味不明の声が少しずつ音量を増しながら、こちらに向かって増殖して来る。皆息を詰め、あたりを見回す。上のような。横のような。下のような。いや、全方向のような……

 下だ!

そう気づいた時、ガン、といきなり床下から突き上げられた。

 ガンガンガンガンガンガンガンガンガン!

板張りの床のあちこちが波打って裂ける。床の裂け目を押し上げて、大量の黒い手が伸びた。黒い血だらけの小さな手が、押し合いへし合いしながら床板を退けようとする。

 「ぎゃああっ!」

 悲鳴を上げて、全員が走り出した。

「一緒の方がいいと言うなら、どっちに逃げる、葵!」

 テツさんが怒鳴る。

「下に」

 すかさず葵先輩が答える。

「三階に行ったら逃げ場がなくなる」

 それならすぐに家庭科室を出て、左の北廊下を下りなければならない。

「一階? だってこのバケモノは下から来たんだよ!」

 階段でバケモノに追いかけられた藤田紗友莉が、泣きそうな声で叫ぶ。

「それでも一階の方が逃げ場の選択肢が広いだろ!」

 テツさんが怒鳴る。

「ウソつき!」

 佐々木梨歩の絶叫が聞こえた。もう廊下に出ていたわたしたちは思わず振り返った。梨歩はまだ窓際に貼りつくようにして立ち、私たちを睨んでいた。

「全員一緒が安全なんて、本当は自分が助かる確率を上げたいだけでしょ。みんな善人面のウソつきじゃない。分かってるんだからね。ウソつき、ウソつき、ウソつき!」

 テツさんが舌打ちして家庭科室に引き返す。

 間に合わなかった。

 バシンッ!

 家庭科室中央の床が、噴水のように吹き飛んだ。大量の手が一気に噴き出してくる。それとともに唸るような声が教室中に充満した。耐えがたいほどの大音量だ。苦悶、絶叫、絶望、妄執、怨念、慚愧、ありとあらゆる負の感情が渦巻き、反響する。両耳を塞いでも頭に直接響き渡る意味不明の声、声、声!

「ぎゃあああああああっ!」

 大量の黒い手が波のように伸びて、窓際の佐々木梨歩を呑み込んだ。無数の手指に貼りつかれて、佐々木梨歩の顔が粘土のように引き歪む。

「ハ……ハハ……白川さん。あたしや高塔さんがいなくなったからって、口封じ出来たと思ったら、大間違いだからね! ハハハ……いつか……いつか絶対あたしたちのしたことは……はが……ぎ…ぎゅぎょごっ…!」

 佐々木梨歩の顔が、粘土が捩じれるように引き歪んだ。

 ぽくっ!

 聞いたこともない変な音がして、佐々木梨歩の顔は上下に分裂した。目をむき口を開いたまま、手の波の中に呑み込まれる。最後まで黒い波の上に残っていた梨歩の白い手の指が、ありえない方向に折れ曲がった。

「ひ……ひいぃっ!」

「ぎゃああっ!」

 皆が絶叫し、廊下に引き返したテツさんが急いで家庭科室の戸を閉めた。

 ガンッ、バンバンバンバンッ! ダンダンダンッ!

 内側から大量の手に叩かれる音がして、激しく戸が揺れる。

「未央ちゃん!」

 葵先輩が一番近くにいた私に声をかけ、階段を走り下りた。慌ててわたしと横にいた茜、ユウキも続く。

 え?

 階段を上がる音が聞こえて、思わず私は上を見た。

「あんな人食いシャッターのいる一階に戻れるかよ!」

 そう吐き捨てながら、横井修が階段を三階へ駆け上がって行くのが見えた。続いて白川詩が上下を見比べ、やはり階段を上っていく。一階に戻るのは嫌だと言っていた藤田紗友莉も後に続く。

「あんの、バカ……!」

 一番後ろにいたテツさんは上を見上げ、それからわたしたちを見下ろした。

「早く下りろ!」

 それから意を決したように、一気に階段を駆け上がった。

 ダンッ!

 バケモノを押さえていた家庭科室の戸が外れた。タールのように真っ黒な塊が廊下に噴き上がる。


ぼぎゅっちょがばがんにんぎゅわがじ わがじぎゃ わがじぎゃ わがじぎゃごぶもんじょあげだご わがじぎゃごぶもんじょあげだぎょ


「未央ちゃん、急いで」

 ユウキに急かされ、わたしも茜とともに必死で階段を駆け下りる。しかし一緒にいるのがベストと言っていた葵先輩の判断は活かされなかった。わたしたちは二つのグループに分かれてしまったのだ。


 一階の廊下は真っ暗だった。

 葵先輩が照明のスイッチを見つけ、オンにする。廊下の天井に取りつけられた蛍光管の照明が二カ所ほど点灯したが、古いせいか思ったより薄暗い。

 そして、静かだった。

 今にもあのバケモノが追いかけてくるとばかり思っていたが、その様子はない。三階からも悲鳴は聞こえてこない。

「やはり、距離が大事なのかな……」

 壁にもたれて肩で息をしながら、葵先輩は呟いた。

「二階のシャッターから逃げた時と同じだ。ある程度距離が開けば追ってこない。気配も消える。しかしあっちも一カ所にじっとしているわけではないから、また偶然接近してしまえば……」

「未央ちゃん……」

 背中から茜につつかれた。

「今のうちに、トイレ行っとかない?」

 小声で提案される。そ、そういえば……

 児童用のトイレがすぐ近くにある。正確に言えば、一階にある長い南北廊下の西側はすべて窓。東側には保健室や会議室がある。その東側の一番手前のところが、男子トイレ、女子トイレになっているのだ。

「でもトイレ、使えるのかな」

「まあ電気も通じていて水道も使えるのだから、大丈夫とは思うよ」

 いきなり葵先輩が口を挟んできたので、わたしと茜は飛び上がった。

「そうだよな。今のうちに……ユウキ、おまえも行っとく?」

 葵先輩が大真面目な表情で言うと、ユウキは少し嬉しそうに頷いて、先輩の後に続いた。ユウキは葵先輩を兄のような感じに見て、懐いているようだ。なんとなくレナと同じで甘え上手な感じがする。

 わたしと茜が女子トイレから出てくると、葵先輩は既に廊下に戻って、スマホの画面を眺めていた。

 え? スマホって使えないんじゃなかったの?

「使えるようになった時のためにね……。すぐに助けを求められるよう、先に文章を作っておこうと思って。作っておいたら後は送信するだけだろ?」

 葵先輩が苦笑いしながら説明する。なるほど……さすが先輩。わたしも茜もスマホを取り出してみた。まだ保留になっている自分のメッセージを読み返す。

〈お母さん、助けて〉

 これだけではどこにいるのか分からない。もう一文を付け加えた。

〈フジニの廃校になった校舎に閉じ込められて、出られないの〉

 これで伝わりそうだ。ただ……このメッセージに既読がつく時は来るのだろうかと思うと気持ちが沈んだ。

「実は家にも置き手紙のようなものを残してきたんだ」

 葵先輩はそう言って、溜め息をついた。

「少し探したら見つかる、くらいの場所にね。夜になっても帰らなかったらここを探してくれって。でも……佐々木梨歩さんの母親の反応を見ると、帰らなくても、手紙を見つけても、反応は薄そうだな」

「これからどうするんですか?」

 スマホを仕舞いながら茜が尋ねると、葵先輩は表情を引き締め、北階段のすぐ横にある短い東西の廊下を見た。

廊下の明かりも届かない階段下の暗がり。今はもう運動会で使う道具も置かれていない、広々とした空間。その先に校門側に出る引き戸があり、戸の上半分のすりガラスからわずかに青い光が漏れている。

「たぶん……順番としてはここしかないと思う」

 葵先輩はゆっくり歩き、その暗い空間に立った。わたしたちも後に続く。

 いきなり私たちは眩しい照明に照らされた。

 引き戸の上に、真新しいスピーカーとライトが設置されている。これは絶対、五年前にはなかったものだ。

〈ようこそ。第二の人間消失現場へ〉

 まるで原稿を読むような本池美月の声が響いた。


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