第9話 2年5組(4)
ようやく本池美月の声が途切れた。
「未央ちゃん」
入口の外にいた葵先輩に呼ばれて、わたしは振り返った。ぎこちない動きなのが自分でも分かった。これから何が起きるのか、怖くて考えたくない。隣にいる茜はほとんど無表情になっていたが、たぶん私も同じような顔をしているだろう。
葵先輩はなだめるように、ほんの少し口許に笑みを浮かべた。
「次のチャンスがあるかどうか分からないから、今のうちに君に、それから茜ちゃんにも、謝っておきたいと思って」
何の事だろうと私は思ったが、葵先輩の表情が見たことがないほど真剣、というより深刻に思えたので、黙って先輩を見ることしかできなかった。
「ごめん。ここのフェンスを―校門をくぐる前にもっときつく来るなと言えばよかった。絶対参加するなって」
そう言いながら、葵先輩は本当にわたしと茜に向かって頭を下げた。
「え……」
実を言えば、いろいろなことがあり過ぎて、わたしはほとんどそれを忘れていた。
「た、確かに来ない方が良かったとは思うけど、先輩の忠告を無視して参加したのは、わたしたちだから……」
わたしは茜と顔を見合わせて言った。しかし葵先輩は首を横に振った。
「いや、そうする君たちを怒鳴って押し返しても、参加させるべきじゃなかった。僕は……ここまでとは思わなかったけれど、なんとなく変だ、まずいことになるのでは、という予感はあった。あの時と同じだ。転校してきたばかりの平田君が階段の下を覗き込んで笑っているの見た時も、明らかにおかしいと分かっていたのに」
「それはわたしも同じです」
なんとなくそれ以上言わせてはいけない気がして、わたしは急いで葵先輩の話を遮った。
「同じです。わたしも変だと分かっていたのに、レナに声を掛けなかった」
「いや……違うんだ」
葵先輩は苦笑いのような笑みを浮かべた。
「全然違うよ。君は知らなかった。でも僕は、少なくとも一人の児童が、何もない戸棚の隙間を覗き込んで笑い、その後行方不明になったことは知っていたんだ。君は急いでいたから声を掛けなかったけど、僕はそれほど急いでいたわけじゃない。なにより僕はあの時すでに……」
葵先輩は一瞬、目を伏せた。
「赤鬼伝承の詳細を知っていたんだ。……信じてたわけじゃないけど。本池美月の説明には抜け落ちているところがある。村人はただ自ら喰われたのではなく、笑いながら喰われたんだ。だから平田君が消えたと知った時は、あの最後の笑い声が耳から消えなくて……三人目の藤田マユリが消えるところを目撃した難波涼音の証言内容を知った時は、これは絶対に伝承と関係があると思った。でもあの赤鬼伝承を伝える文書が偽書だということも知っていたし、こんな荒唐無稽なこと、誰にも言えなかったんだ。だから……今日も、言っても未央ちゃんたちは信じないだろうと思って、あまり強く来るなと言えなかった。全部僕の判断ミスだ」
「そんなこと……ないです」
「ま……いつでも百パーセント正しい判断をするなんて、大人だって無理な話とは思うけどね」
言葉に詰まっていると、テツさんが助け舟を出してくれる。
「とにかく今最優先なのは、ここから逃げ切ることだ。他に赤鬼伝承について知っていることはないのか。情報は共有しておこう」
問われて葵先輩は、情報か……と言いながら、ようやく少しだけいつもの冷静な表情に戻った。
「赤鬼……つまりさっきのバケモノだが、必ず一つの土地、一つの家に居ついていると言われている。いわゆる狐など憑きものの一種のようだ。そしてそれへの供物が多ければ多いほど、その家の人間は富み栄える。ただ赤鬼の場合の供物は油揚げや天ぷらじゃない。人間だ。もちろんこういう話のほとんどは迷信で、僕が読んだのも、郷土史研究家が地元の言い伝えや、それこそ偽書の内容まで雑多に拾った、とても一級とは言えない文献ばかりだ。おそらくまとめた本人だって、実際にそれが存在すると思ってはいないだろう」
「でも……誰かがそれに興味を持った」
テツさんの言葉に、たぶん、と葵先輩は呟いた。
「ただ、ここから逃げる、ということに限定して言えば、やはり気をつけなければならないのは隙間だ。これは本池美月の説明のとおり。だからすべての戸や窓は完全に閉めるか、または開け放しておく。実はこの校舎の建築中に作業員が一人、そして開校直前の五年前の三月、学校に赴任予定だった若い教師が一人、すでに消えている。でもこれは事件とか記事にはならなかった。作業員は下請けでどうも合法な働き方ではなかったらしい。急に仕事に来なくなっても、いやになったんだろうで済まされたようだ。一方の講師の方はよく分からない。三月に学校に来て、担任をする予定だった教室に一人でいた後、姿を消している。ただ二人とも直前の目撃者がなく、しかも教師の方は、元々周囲に、あまり教師になりたくない、と漏らしていたそうなので、ただの行方不明として処理されたのかもしれない」
違う。
わたしは思わず、心の中で叫んだ。ただの行方不明なら、あの時先生は『机の中も見ないで』とは言わないはずだ。先生は、見たんだ。あれを。でも茜のお姉さんみたいに他の人には全然信じてもらえなくて、葵先輩みたいに誰にも言えなくて、そのあと三人も子供が行方不明になってからようやく……
―わが校のために土地を貸して頂いた……さんには、感謝の言葉もありません。
また、記憶がふわりと浮いてきた。
あの時……確かに校長室には校長先生と一緒に、もう一人いた。
もう一人……
「それからもう一つ」
葵先輩は全員を見渡して続けた。
「昔話にタヌキやキツネに化かされた、というネタはよく出てくるが、このバケモノもまた、かなりの心理操作を行うと考えた方がいい。でないと笑いながら喰われることの説明がつかない。探しに来た佐々木梨歩さんのお母さんが、そのまま帰ってしまった説明もつかない。フェンスに登った古橋徹君が、まるで何かに呼ばれたように動きを止めて振り返った説明がつかない。あの時、彼は何を見た」
古橋徹は笑ってはいなかった。しかし何かを見たとしたら、それまでの犠牲者と同じだ。レナも平田翔も、マユリも、戸田孝も高塔萌音も……何を見た。
「待って。……なら夜になってもあたしたちが帰らなかった……としても、家族は変に思わないかもしれないということ?」
茜が消え入りそうな声で言った。
「だって……そういうことでしょ。だからさっき車で探しに来た人も……」
雨の上がった家庭科室は、波を打ったように静かになった。
助けは……来ない。
「だから、だから何だっていうの? どうせみんな死ぬんでしょ!」
佐々木梨歩が頭を抱えながら金切り声で叫んだ。葵先輩は溜め息をついた。
「とにかく……一人にならないことだ。一人が一番狙われやすい。全員なるべく一緒にいた方が狙われる確率は低くなると思う」
「でも……あのシャッターに吸い込まれた人も、机に吸い込まれたお姉さんも、一人ではなかったよ」
それまで黒板の前でずっと黙っていたユウキがぽつんと言った。葵先輩は苦笑いした。
「そうだね。だから確率がゼロとは言わないよ」
「集団でいたら、最悪でも一度に狙われるのは、その内の一人だからってこと?」
白川詩が納得のいかない様子で呟く。葵先輩は大きく息を吸い込んだ。
「一人……かどうかは分からない。やはり初めに言ったように、リスクを避けることが大前提になる。なぜ一人かどうか分からないかというとね……さっき2年5組の教室で、僕ももしかしたら机に吸い込まれていたかもしれないからだ」
えっ……
頭を抱えていた佐々木梨歩も、そっぽを向いていた横井修も、全員が葵先輩に顔を向けた。
葵先輩は、教室で声を掛けた時と同じように、死人のように白い無表情な顔をしていた。
「僕は机の中を覗き込んだわけじゃないんだ。ただ下を向いただけ……だが、変な夢のようなものを見た。予想もしなかったものを見せられた……気がする。あの時未央ちゃんが声を掛けてくれなかったら、僕はあのまま夢の中に……」
「予想もしなかったものって、どんな……」
わたしは恐る恐る尋ねた。葵先輩はあの時と同じように、ぎこちなくわたしの方に顔を向けた。
「僕に見えたのは……」
テツさんが息を呑む。
「おい。来るぞ……!」
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