第8話 2年5組(3)
がちゅもひらんがゆもちょばがりらぐぎゅもひらちょあみょぎゅんそりもにゃらんぴやんぽひぎだやきゅ……
それが会話なのか念仏なのか外国語なのか唄なのかさえ分からなかった。
とにかく近づいてくる。すぐそばだ。近い。近い!
ぬーっと、重いシャッターの表面が、向こう側から押されて飴のように伸びて突き出した。突き出た先端を突き破って、何か黒いものが現れる。小さな、赤ちゃんのような黒い手。手は何かを探すように広がり、五本の指はバラバラの方向にぎゅにゅぐにょと蠢きだす。
ドンッ、とシャッターが揺れた。シャッターの表面に大きなでっぱりができる。
ドンッ ガンッ ダンダンッ
一斉に向こう側からシャッターが叩かれ始めた。堅牢なはずのシャッターの表面が、手のひらのような大量の出っ張りで泡立っていく。その泡を突き破って無数の手が伸びた。その圧力に押されてシャッターそのものが、ギギッと歪む。
「うわっ、わああああああっ!」
「ぎゃあああああああっ!」
皆一斉に廊下を走りだした。方向は南階段から一番離れた北階段の方だ。通り過ぎる教室のスピーカーからは、まだ本池美月が何かを話しているのが聞こえる。もちろん聞き取る余裕はない。
「あっ……」
南階段の前にたどり着いた途端、佐々木梨歩が声を上げた。
「ママ!」
え、と全員が振り向いた。彼女が見つめている、一階に下りる階段の踊り場。そこにある窓からは、暗いが校門のあたりが眺められ、確かにフェンスの向こうに白い車が一台止まり、誰か女の人が外に出て周囲を見回しているのが見える。
わたしは振り返った。あの異常に大人数の声と手のひらの「何か」は……
追ってこない。いつの間にか声も、シャッターの軋む音も聞こえなくなっていた。
消えた……?
佐々木梨歩は、もう追われて走ってきたことも忘れた様子で目を輝かせていた。
「そうだ。昨日の夜あたしがうっかり『あの事件、覚えてる?』って聞いたから。塾の時間が近いのに姿の見えないあたしが、もしかしたらここにいるかもって、ママが探しに来たんだ!」
いきなり横から、眩しいほどの光が漏れた。
廊下の突き当りにある家庭科室の戸はもともと開いていたが、その内側にある照明のスイッチに、横井修が手を伸ばしている。
「こっちだ!」
横井修が震える声で叫ぶ。踊り場の窓は壁のかなり高い位置にあるので、外に呼びかけにくいと考えたようだ。それに明るい。家庭科室には普通の教室にあるような机はないことも、恐怖を弱めた。佐々木梨歩が部屋に走り込むと、ほっとした表情で数人が続いた。
佐々木梨歩は校門側の窓を開け、身を乗り出した。
「ママ、ここだよ。ママ、助けて!」
「ここから出られないんです。助けてくださーい!」
梨歩も、隣の窓から身を乗り出した横井修も大声で叫ぶ。
雨はほとんど止んでいたので、声が届かないはずはなかった。まして室内には明かりが点いているのだ。ずっと廃校だった校舎に明かりがついていたら、それだけで変だと思うに違いない。
梨歩の母親は何度かこちらを―校舎を見たような気もした。しかし反応はなかった。梨歩の母親は左右を何度か見回すと車に乗り込み……そのまま走り去ってしまった。
「うそ……」
梨歩は窓から身を乗り出したまま、信じられない様子で校門を見つめた。
「何で……どうして!」
「スマホの通信を遮断するのは、ある程度の技術と金があればできることだと思うが、明かりもつけて大声で呼んでいるのに、それが向こうから認識されないというのは……」
テツさんが家庭科室の入り口に立ったまま呟く。
「別におかしくもなんともねえだろ!」
窓から身を離した横井修が、吐き捨てるように言った。
「この校舎に入ってからずっと、訳の分かんねえことばっかりじゃねえか。なんでタカシやシューイチがあんな目に合うんだよ。こんなことになると分かってたら、絶対近づかなかったよ。もう訳分かんねえ。この学校はただのバケモノ屋敷じゃねえか。俺たちは全員死ぬんだよ。死ぬんだ、死ぬんだ、死ぬんだ!」
そう言いながら横井修は家庭科室の壁を蹴ったが、誰も止める者はいなかった。
この状況でも、その本池美月の放送は続いていた。
〈そう、もう一つのキーワードは隙間です。皆さんは小さい頃、ドアや戸はきちんと閉めなさい、と注意されたことはありませんか? 夜に、ほんの少しだけ開いている引き戸や引き出し、あるいは天板の隙間にできる黒くて細長い空間が、気になったことはありませんか? 何かに覗かれているような不気味さを覚えたことはありませんか? なぜきちんと閉めて、隙間を作らないようにしなければならないのでしょう。きちんと閉められていれば、それは別々の空間です。大きく開いていれば、それは同じ空間です。しかしうっかり細い隙間を作ってしまった時、それは別の空間と―異界との細い回廊を作ってしまう可能性があるのではないでしょうか。その細い隙間から見えるのは……本当に隣の部屋ですか?〉
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