第7話 2年5組(2)




〈ところで皆さんはこの地に伝わる《赤鬼伝承》というものをご存知ですか?〉

 唐突に本池美月の話は始まった。

「おい、一人まだ教室に来ていないようなんだが」

 テツさんが脱力した声で、黒板の上にあるスピーカーに向かって言う。

〈赤鬼伝承の起源は、平安時代以前にさかのぼるという説もあり、かなり古いものであることは確かなようです〉

 予想通り、テツさんの声は無視された。

 赤鬼の話は、知っていた。このあたりの子供なら、一度は絵本や紙芝居で、小さい頃に聞いているはずだ。昔このあたりの村に現れた赤ら顔の鬼が家畜を驚かしたり田畑を荒らしたり、悪さばかりするので、皆で寺の和尚様に相談した。和尚様が経を唱えると、鬼の頭の角がポロリと取れた。喜んだ鬼は悪さをやめ、寺の小僧になって和尚様に恩返しした……というような話だ。

〈ただ、この赤鬼伝承。皆さんが小さい時に聞いた話と実際の伝承は、かなり違っていました〉

 再び、わたしたちの心の中を見透かすような言い方で、彼女は言った。

〈この地域に伝わる古代仮名による古文書不二五国文書によれば、昔赤ら顔の喋る鬼が西の郷に現れた。鬼は千の手を持ち、人や家畜を襲った。人々は進んで鬼に喰われた……〉

 進んで鬼に、喰われた……?

 何か……嫌な響きを感じて、わたしと茜は顔を見合わせた。

「『不二五国文書』は偽書のはずだ」

 葵先輩が眉をひそめ、呟く。

ギショ……?

〈確かに不二―富士山近辺の古代五王国の創世とその後の出来事について書かれた『不二五国文書』は、実際には江戸時代後期に書かれた偽書―ニセの古文書で、使われている古代仮名も、既存の文字を変形したものに過ぎないと分かっています。著者とされる堀川弥太郎は比較的下級の藩士でしたが、博学、そして近隣伝承の収集家としては有名でした。だからこのようなものを作成できたのでしょう〉

 まるで葵先輩の呟きが聞こえたかのように、本池美月はすかさず文書を丁寧に説明した。それにしても詳し過ぎる。声は十代の女の子なのだが、本当に声を変えた、もっと年齢が上の人なのかもしれないと思った。でなければ、やはり原稿を読んでいるだけ、とか。しかしそれなら、原稿を書いたのは誰かということになる。

〈ただ、伝承収集家であった堀川が、単なる遊びでこのよう文書を作ったとは考えられません。皆さん、変だとは思いませんか。堀川はなぜ偽書というまわりくどい形をとってまで、この話を伝えようとしたのでしょう。人々はなぜ進んで鬼に喰われたのでしょう。なぜ鬼は千の手を持っていたのでしょう。なぜ『喋る鬼』なのでしょう。そしてなぜ、鬼は赤鬼なのでしょう?〉

「説明が長い……」

 葵先輩が顔を下に向け、さらに小さな声で呟いた。そばに立っていたわたしや茜、テツさんくらいしか聞き取れなかっただろう。

 確かに、言われてみれば伝承の説明は妙に詳しく長かった。この伝承が事件に関係あると言うなら、その関係の方を本池美月はさっさと説明するべきではないか。そもそもこの話は、教室とは直接関係ない。としたら、一体わたしたちはなぜこの教室に移動するよう急かされたのだろう。レナが消えた、この教室に。

〈そして最大の謎は、この話にある『西の郷』とは、どのあたりを指すのか、ということです。富士山の西と言うなら、あまりにも漠然としています。しかし地名に西が付いている場所なら、ある程度絞られてきます〉

「未央……」

 茜が問うように私のTシャツの背中を引っぱる。気がつくと教室の入り口に立っていたユウキも、こちらを見ていた。あの消えてしまった少女が気になるのだろう。そして二人とも、ウソやいい加減なことを言うような性格には思えない。

 わたしたちは何か順番を間違えているような気がしてならなかった。わたしは急いでいたことを理由に、レナに声を掛けなかった。声をかけるべきだった。消えてしまった女の子をすぐに探すべきだった。そしてこの教室には、来るべきではなかった。来てみて、さらにその気持ちは強くなった。今すぐ出るべきだ。

 ダッテ、コノ教室ハ危険ダカラ!

「先輩」

 決心して声をかけると、葵先輩ははじかれたように顔を上げ、わたしを見た。彼はもともと神経質な感じの繊細な顔立ちをしていたが、これほど凍りついた表情をしているのは初めて見た。

「え……」

「先輩。今すぐこの教室を出ましょう。そして消えたという女の子を探しましょう。でないと……」

 また、後悔する。

 どういうわけか、葵先輩の反応はぎこちなかった。それでもなんとか口から押し出すように、そうだね、と呟き、後ろに立っているテツさんの方に振り返った。テツさんも他の参加者の方に顔を向ける。


 うふふ……


 奇妙な笑い声が聞こえたのは、その時だった。

 全員が静まり返った。声のした方に恐る恐る顔を向ける。

「ふふ……あはは……」

 女の子が机の中を覗き込んで、笑っていた。隣に座って目を見開いているのはナンバーが⑧の白川詩だから、机を覗き込んでいるのは、一緒にいた⑨の高塔萌音だ。

「な、何やってんの萌音、顔を上げて!」

白川詩が焦った声で叫び、萌音の肩を掴んで机から引き剥がした。

 ぐにょんっ

 高塔萌音の首が、伸びた。

 高塔萌音の頭が机の中にズルッと引きずり込まれるのと同時に、首が餅のように伸びた。悲鳴を上げながら白川詩が手を離すと、まるで掃除機に吸い込まれるように、そのまま高塔萌音の体は上下左右にブランブランと振れながら机の中に吸い込まれた。

「いや! いやぁああああああっ!」

 逃げようとした白川詩が、他の机の脚に引っかかって転び、這って逃げながら泣き叫ぶ。

「全員今すぐこの教室から出ろ。ここに集められたのは……餌食にするためだ!」

 立ち上がりながら叫んだのは葵先輩だった。呆然としていた全員が弾かれたように立ち上がった。我先にと教室から走り出る。

 なぜこんなことになったのか、分からなかった。確かに高塔萌音は、妙に長い本池美月の伝承にまつわる話を聞いているうちに退屈して、机の中を何気なく覗き込んだのかもしれない。

 しかし机の中は結構幅がある。『隙間』ではないはずだ。違う。最後にこの教室を出たあの時、先生は言っていなかったか。

―机の中も見ないで!

 あの時なぜ先生はあんなことを言ったのだろう。先生はわたしたちの知らない何かを知っていたの? 隙間って……もしかして机の中くらいの幅があっても、危険なの……?

〈この地区の名は学校名にも使われているように、大藤です。江戸時代の古地図で見ても『大藤』。しかしさらに時代を遡ると、『大不二』の地名が現れます。地方の一地名にしては立派過ぎるので、時代のいずれかの時点で、藤の一字に置き換えられたのでしょう。そして……〉

 たぶん、もう誰も聞いていなかった。走る途中で、うっかり高塔萌音を呑み込んだ机を見てしまった。ボギッ、という太い何かが折れる音に、つい振り返ってしまったからだ。机の口からゴムのように跳ねる両手と両足。嫌だ。助けて。一体何をどうしたらあの小さな机の中に、人一人の体を引き込めるの? レナもこんな目にあったの? 引き込まれた体は一体どこに……?

 しかし現実のわたしは、ただ顔を背け、両耳を塞ぎ、他の参加者と一緒に廊下に走り出ただけだった。

 キーガガガガガガガガガガガガ

 廊下に出たわたしたちを迎えたのは、耳を塞いでも否応なく聞こえる金属音だった。シャッターが下りる音だ。階段の手前の防火シャッターは、もうほとんど下に届きそうになっている!

「机の位置が変わってる!」

 誰かが叫んだ。

 本当だった。シャッターが下りないようにと葵先輩とテツさんが真下に置いたと聞いていた机は、もっと教室側に近いところにあって、下りるシャッターには掠りもしない。

 完全に閉まる、と思った時、何かに反応したシャッターが少し上に戻った。防火シャッターは逃げる人を挟みこまないように、何かにぶつかると数秒上に上がる仕組みがあると聞いたことがある。よく見るとシャッターの真下の白い壁際に、白い黒板消しが挟み込まれていた。

「こっちには気づかなかったということか。念のため咬ませておいて正解だったな」

 テツさんが呟き、葵先輩が頷く。黒板消しを置いたのは二人だったらしい。ということは、二人とも目立つ机は役に立たないかもしれないと予期していたことになる。


 タタタタタ……


 再び下り始めたシャッターの向こうで、誰かが走り寄ってくるような足音が微かに聞こえた。これが机を動かした犯人? 本池美月? それとも茜たちが言っていた、もう一人の参加者?

 と思った時、足音は階段を駆け上がってくる大きな音に変化した。

「助けて、お願い、助けてっ!」

 女の子の叫び声が聞こえる。床ギリギリまで下りたシャッターは、また黒板消しにあたって少し上昇している。その隙間にわたしたちの足が見えたので、女の子は助けを求めたらしかった。

 一瞬、皆で顔を見合わせた。この女の子を助けていいのか。この子は味方なのか、それとも机を動かした犯人であり敵なのか?

「助けて。何か来る。いやあ、いやあああぁっ!」

 シャッターの向こうで、女の子が絶叫した。

 何か……って、何?

 それは最初、微かな幻聴のように思えた。

 誰かが……大勢の誰かが、遠くからザワザワと話しながら、だんだんこちらに近づいてくる感じ。一瞬だけ、わたしはそれが、ここに皆がいることに気づいた大人たちが助けに来た声なのではないかと期待した。

 声が多すぎた。

 百人? 千人? 万人……?

 こもった感じのする信じられないほど大量の声が校内で反響しながら、だんだん大きくなって、こちらに近づいてくる。声が何を言っているかは分からない。しかし女の子が絶叫する理由は分かった。怖い。気が狂うほど怖い。これだけ大勢の声が近づいてくるのに……

 ナゼ足音ガシナイノ⁉

「お願い、助けて! 助けてぇっ!」

 また下り始めたシャッターの下に、葵先輩が素早く足を入れて止めた。シャッターの向こう側から延びた女の子の手をテツさんと横にいたわたしが引っぱる。女の子を引き入れ足の先まで抜けると、すぐに葵先輩がシャッターを止めていた黒板消しを取った。

 ガシャン……

 シャッターが落ち、廊下にある溝にはまった。

 気がつくと、葵先輩が軽く肩で息をしながら、わたしを見ているのに気づいた。

 今度はなんとか間に合ったよな。

 そう言っているように見えた。そうだ。わたしはこれが怖かった。また何かを見過ごして、誰かを見殺しにしてしまうのが怖かった。この気持ちが分かるのは……確かに葵先輩だけに違いない。

 今度は……間に合った……

 そして女の子は茜やユウキが言っていた通りだった。白いシャツにカーキ色のハーフパンツ。髪はショートヘアだが、かなり濡れている。

「外にいたの?」

 わたしが立ち上がらせながら尋ねると、女の子は意外に大きな瞳に涙を溜めながら、わたしを見上げた。

「と……友達を待っていたの。一階の外の、軒下で……。その子は、手紙は貰ってないけど、あたし一人は怖かったから、一緒に行ってと頼んだら、いいよって……だから、もうフェンスは閉まってるけど、その子が来たら、お母さんとか警察に知らせてもらおうと思って……でも……」

「友達は来なかったんだ」

 テツさんが言うと、女の子は涙を一粒こぼして頷いた。茜がタオルハンカチを差し出すと、彼女は小さく頭を下げて受け取った。

「あたし、気がつかなくて。さっきスマホをもう一度見たら、ずっと前に「急用ができたからムリ」ってラインが来てた。それで急に一人でいることが怖くなって二階に上ろうとしたら、あの声が……どこか方向は分からないけど遠くから聞こえだして……」

「とりあえず君の名前と学年と番号を聞いていいかい?」

 葵先輩が尋ねる。

 女の子の名前は藤田紗友莉、中一。三人目の失踪者、マユリの妹だった。番号は⑥。

 もし、残りの⑩が本池美月の番号だとしたら、フェンスの外に直接この集まりを知っている者は、紗友莉の友達だけということになる。

 雨は小降りだったが、既に外も校舎の中も薄暗い。夕闇が迫っているのが分かる。もしこのまま夜になっても、わたしたちがここから出ることができず、大人が探し始めたとして、紗友莉の友達にすぐに行き着いてくれたらいいが、そうでなければ……

 しかしそれ以上、この場で話すのは無理だった。

 声が……大量の声が洪水のように階段を吹き上って来る!


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