第5話 校門(3)




「ぎゃっ!」

 周囲にいた参加者が悲鳴を上げて一斉に飛び退く。その間にも引きずり込まれた少年の首が、肩が、胴体が、ぐぎゅっ、みしっ、ごぎっ、ぐぽっ、べぎっ……聞いたこともないおかしな音を立てながらシャッターの向こうに引きずり込まれていった。わずか一センチ程度の隙間を、どうやったら人間の体が通るのか、想像もつかなかった。腰まで引きずり込まれたところで、いったん動きが止まった。まだこちら側にある少年の両足が、想像を絶する苦悶を伝えるように、ボコンボコンと跳ねる。


 う~が~う~ご~……


 シャッターの向こうから、くぐもった声が微かに響く。


う~が~う~ご~……


 わたしはこの声を聞いたことがあった。

「い……やあっ、いやだあああぁぁぁ……っ!」

 茜が絶叫しながらわたしにしがみついてくる。茜は痙攣かと思うほど震えていたが、気がつけばわたし自身も立っていられないほどガクガク震えていた。

 そうだ……わたしはこの声を茜の家で聞いた。

 まだ小学生の頃。

 カゼで学校を休んだ茜に、家が近かったわたしがその日のプリントを届けに行くと、いつもは締まっている廊下の奥のドアが開いているのに気づいた。わたしはずっと、そのドアの奥は物置だと思っていたので、薄暗い中にも障子の格子が浮かび上がり、そこに一つの部屋があることに気づいて、少し驚いた。すぐに、平日の午後なのに、そこに布団が敷いてあって、小柄な誰かが上体を起こしているらしいことにも気づいた。

 茜ちゃんのお姉ちゃん、退院したんだ。

 よかったね、と言おうとして口を開いた時、その地の底から響いてくるような声は、聞こえ始めたのだった。


う~が~う~ご~……


う~がぁ~いぃ~ご~


うぅ~だぁ~いぃ~ごぉ~


 茜が持っていたプリントを廊下に落として走り出した。奥の部屋に走り込み、乱暴にドアが閉まる。泣き叫ぶような声が聞こえてきた。

―お姉ちゃん、もう大丈夫だよ、大丈夫だよ、大丈夫、大丈夫、大丈夫……!


いぃぃ~だぁぁ~いぃぃ~よぉぉぉ~


「い、いやだぁぁぁぁーっ!」

 あの塾に行くと言っていた少女が絶叫し、両耳を手で押さえて走り出した。

「帰る! 助けて! 助けてぇっ!」

 叫びながら入口のところにいる私達の方に向かってくる。シャッターから離れた校舎の外、学校の敷地の外、とにかく遠くに逃げたいのだろう。まだ雨が地面を叩く外へ目を向け、テツさんが息をのむ。

「待て!」

 もう少しで雨の中に飛び出そうとした少女を、テツさんが抱きとめた。

「いやだ、放して。あたし帰る、帰るの!!」

「よく見ろ!」

 テツさんが怒鳴りながら、雨の向こうの校門を指さした。わたしや茜も、葵先輩も他のみんなも、思わずそちらに目を向ける。

「閉まってる……!」

 誰かが掠れた声で叫んだ。

「なんで……」

 わたしも茜も、おそらくそこにいた全員が震えも止まるほどのショックを受けた。葵先輩が観念したように両目を閉じるのが、視界の端に映る。

 出られない……

 頭が真っ白になる。

 ミシ、ポキ、ペキ、メキ……ビシッグギッ……

 背後で乾いた小枝の折れるような音が響いた。わたしは音の方を絶対見たくなかったが、しかし見ないでいるのはさらに恐怖だった。

 乾いた音を立てながら、まだシャッターのこちら側に残っていた両足を覆うズボンが平たく潰れていくのを見てしまった。比較的まだ近くにいた数人が、悲鳴を上げながら離れ、入口側に寄ってくる。

がっ、ぎゅがっ!

 異様な叫び声とともに、潰れた両足が一気にシャッターの向こうに引きずり込まれた。

 ガシャン、とシャッターが下まで落ちる。まるで獲物を呑んでしまった蛇が口を閉じるように。

 耳の中に、自分の荒い息の音が騒音のように響いていた。

 パキポキミシベキゴリペシ……

 シャッターの向こうでは、まだ乾いた折れる音が続いている。気がつくとわたしは、茜と同じように両耳を塞いで目を閉じていたが、激しい雨音の中で手をどれだけ耳に押し当てても、どうしてもその音を完全に消すことはできなかった。何が起きているか、考えたくなかった。想像したくなかった。

 音が、止んだ。

「ひっ……」

 誰かが微かな悲鳴を上げる。

 音もなく、再びシャッターが上がり始めた。ほんの少しだけ。わずかな隙間ができたところで、止まった。

 隙間。

わたしは思い出した。この学校に来た最後の日のことを。どの先生も皆、顔を引きつらせていた。

―みんな忘れ物はありませんね。じゃあすぐに校門の外に走って出てください。絶対に教室に残らないで。もし忘れ物を思い出しても戻ってはダメ。ロッカーも机の中も、もう見なくていいです。とにかく隙間を覗いてはいけません。隙間を作らないよう、教室の戸も開けたままで。早く、さあ早く外に出て!!

 悲鳴のような声だった。

「そうだ。隙間を見ちゃダメだった……」

 誰かが放心した声で呟く。

 ガリッ、と天井から聞こえた音に、皆飛び上がった。マイクを取る音だ。

〈皆さん、二年二組への移動は終わりましたか? まだなら、今すぐ移動してください。わたしは本当にあの日の真実を皆さんと一緒に解き明かしたいのです。途中で邪魔が入らないように、フェンスの出入り口も一時的に閉めさせていただきました。二組の教室は、階段を上がってすぐのところです。……皆さんの、勇気と友情が試されています〉

 相変わらず声は十代の女の子のものだが、今はあまりにも冷酷に感じた。考えてみれば、声なんていくらでも機械で変えられる。本当は大人の男の人かもしれないと思うと、同じ雨を見ている、というユウキの言葉に一瞬感じた身近さが、また遠のいた。

「一時的……? ふふ、ふざけんな、ひ、人一人がまた消えたんだぞ。さっさとフェンスの出入り口を開けろ!」

 引きずり込まれた少年と一緒にシャッターを上げようとしていた少年が、大声で叫んだ。そばにいた仲間らしい少年も叫びだす。

「俺たちをここから出せ!」

「人殺し!」

 放送室までその声が届いたかどうかは、分からない。返事はなかった。まるで私たちが、教室に動くのを待つように。

 皆、頭の中が恐怖と動揺で真っ白になっていたとしか思えなかった。

「あっ……」

 一人がようやくスマホを取り出し、外に連絡を取り始める。なぜ気づかなかったのだろう。わたしも皆も一斉にスマホを取り出した。

「圏外だ……」

「そんなバカな。山奥じゃないんだぞ!」

 本当だった。ラインで母に宛てたメッセージも保留状態のまま届かない。

 おかあさん、助けて

 たった一行の文なのに!

 一緒に画面を見ていた茜が息をのみ、再びわたしにしがみつく。

 葵先輩が閉じていた目を開いた。

「……じゃあ、僕は行ってみるよ。退路が断たれているなら、進むしかないだろう。それに、これは大きな罠だとは思うけど、同時に本池美月という人物も、この罠の中に一緒にいるのは確かな気がする」

「僕も行きます」

レナの弟のユウキが続く。

「俺も行くよ。ここであの人食いシャッターと睨めっこしてる方が、よほど怖い……が、君はどうする」

 テツさんはそう言いながら、先ほど引き止めた、雨の中に飛び出そうとした少女を見た。

 彼女は多少落ち着きを取り戻しているように見えた。黒いセミロングの髪をかきあげ、小さく頷く。

「私も、ここに残るのは怖いです……」

 わたしは茜を見た。行かねばならないのは分かっていた。茜も無言で頷く。

「いやだ、いやだ、俺は絶対イヤだ!」

 誰かがいきなり叫びだした。シャッターの奥に引き込まれた少年と一緒に引き上げようとしていた、もう一人の少年だ。

「おまえらバカか。何大人しく、顔も見せないやつの言うなりになってんだよ。学校を取り囲んでるのはただのフェンスなんだぜ。いくら高くても、金網に手と足引っ掛けて登ればいいことじゃねえか。クソッ、最初から反対だったんだよ。それなのにタカシが動画のいいネタになるって言うから……とにかく俺はまだ死にたくない。こんなところでタカシみたいになって死ぬのはいやだ。絶対いやだ!」

 そう言うと、少年はいきなり薄暗い雨の中に走り出た。

 今度は誰かが引き止める間もなかった。すぐにずぶ濡れになり、彼が着ていた白いTシャツが体に貼りつくのが、遠目にも分かった。泥水を跳ね上げながら走り、校門にたどり着くと、柵の上によじ登り、外側のフェンスに飛びつく。一瞬落ちそうになり、靴を履いたままでは金網に足が引っかからないと知ると、すぐに靴を脱ぎ捨てた。フェンスの高さは少年の背丈の3倍近くあるように見えたが、恐れる様子もなく登っていく。

 誰も声もかけず、動きもしなかった。止めても無駄だと分かっていたし、もしこのまま外に出られたら助けを呼んでくれるに違いないという期待も確かにあった。

 少年が伸ばした右手がついに、フェンスの一番上まで届く。そのまま外側に身を移したと見えた時。

少年の動きが止まった。フェンスの上に片足を掛けたまま、なぜかこちらに前髪の貼りついた顔を向けたのだ。

 その時、彼に何が見えたのかは分からない。でも何かを見たのだと思う。彼の目と口が裂けんばかりに見開かれるのが分かったから。

 絶叫していた。この世のものならざるものでも見たような、異様な表情で絶叫していた。

 彼の体がゆっくりとフェンスから離れ、頭から外側に落下していく。薄暗い雨の中なのに、おかしなほど鮮やかに見えた。何人もの悲鳴が同時に耳に入ってきた。もちろん、わたし自身の悲鳴も。両耳を塞いで目を閉じる。

 数秒の空白があった。

 恐る恐る目を開け、耳から手を離した。

 聞こえてきたのは、やはり雨音だけだった。雨の向こうに見えるフェンスに、すでに人影はない。すべては夢だったのではないか。元々誰もフェンスに上ったりしてはいなかったのではないか……

「あそこの向こう側は、コンクリートを打ち付けた斜面になってるんだ……」

 誰かが呟いた。

「その下はやはりコンクリートの深い溝。何もクッションになってくれる場所はない……」

「そんなこと言わなくても、あの高さから落ちたらもうダメなことくらい、分かるよ」

 別の誰かが言う。後ろの方にいた女の子がウッと口を押えた。横にいた別の女の子が急いで近くの手洗い場に引っ張っていく。しばらく雨音と水道水の音と、もういや、もういや、という嗚咽の音が続いた。

「未央ちゃん。大丈夫?」

「……え?」

 いきなり目の前に葵先輩の顔が現れた。茜も心配そうにわたしを見ている。随分長くぼんやりしていたらしい。とりあえず、頷いておく。

 でも……ダイジョウブって……何だっけ……

「じゃ、行くよ」

 葵先輩が言い、まずテツさんが階段を上り始めた。葵先輩、その後にわたしと茜が続き、他のみんなも今度こそ誰も何も言わず、階段を上り始める。

「この全員が持っているナンバープレート。ICチップか何かが埋め込まれてると思いますか?」

 上りながら、葵先輩がテツさんに尋ねるのが聞こえた。

 テツさんは上りながら、浮かない顔で振り返った。

「たぶん。少なくとも位置情報はあれで取ってるだろう。そうでなくても、あのスピーカーも怪しいし、あちこちに監視カメラが仕掛けられているのは間違いない気がする。音声収集もね。だから俺たちの行動も会話も、たぶん筒抜けなんじゃないかな」

「どういう……ことなんですか?」

 わたしは気分が悪かったが、気になって葵先輩に尋ねた。わざわざまだ十代の子供を集めて、死と隣り合わせの状況に追い込み、その映像や音声を取ることに、何の意味があるのか。

 葵先輩はわたしを眺め、一度視線をそらし、もう一度わたしを見た。

「つまり……僕たちは今、何かの実験場にいるのではないか、ということだよ。僕たちはモルモットで、同じ実験場には遥かに僕たちの理解を越えた〈モルモットの捕食者〉がいる。観察者はモルモットの捕食のされ方やその状況を分析し……捕食者への理解と、対応を検討する……」

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