第2話 手紙

 



 私はまた学校の廊下を走っていた。窓の外は雨が降っていたが音はしない。走る私の足音だけが、誰もいない廊下に響き渡る。

 あった。

 廊下の笠掛けのフックに、黄色の傘が掛かったままになっていた。私は傘を取り、なんとなく戸が開いたままの教室の中に目をやった。

 誰かが窓際の戸棚を覗き込んでいる。戸棚の戸がわずかに開いている、その隙間。

 ああ、まただ。何度も繰り返す、あの場面。今度こそ声を掛けないと。友達を救わないと。

―レナ、ダメだよ、レナ。その隙間を覗き込んではダメ。ダメ! 絶対ダメ!

 口を開けてそう言おうとした時、教室が暗転した。

 真っ暗だと思った部屋の奥に、誰かがいた。口が開いて、喉が震えている。


 う~が~う~お~……


 う~がぁ~う~おぉ~……


 地の底から響いてくる、呪いのような呻き声。

 やめて、やめて、やめて!

 その声を聞かせないで!



 その手紙が届いたのは、中学最初の夏休みが始まって間もなくのことだった。

「未央―。手紙来てるわよー。お友達からー」

 仕事から帰ってきた母が、玄関から二階の自室にいるわたしに声をかける。わたしは机に向かって夏休みの宿題をやっている……ことになっていたが、実際はエアコンが提供する涼しい空気の中で、ほぼ寝ていた。

 手紙……?

 目を開けるのと同時に、心臓がドクドク鳴っているのに気づいた。胸元が汗で濡れて気持ち悪い。寝ながら酷く緊張していた気もしたが、起きがけの夢は思い出そうとすると瞬時に蓋が閉じて、何も記憶から取り出せなくなった。

 ……友達から、手紙?

 寝ぼけた頭の中で、母の言葉をもう一度繰り返す。

 自分に手紙を出すような友達の顔を、わたしはどうしても思い浮かべることができなかった。通常のやり取りは全部ラインで済ませている。年賀状が届くことさえほぼないので、暑中見舞いもあり得ない。それに暑中見舞いなら普通は葉書のはずだ。母は手紙、と言っていた。

 ひょっとして何か学習塾の案内のようなものを、母は勘違いしているのではないか。

 とにかく実物を見れば分かることだと思い、わたしは仕方なく机の上から頭を上げ、垂れかけていた涎をぬぐい、部屋を出た。

 母はまだその手紙を持ったまま、階段の下にいた。

「ほら、あんたのでしょ。赤い封筒なんて悪趣味だね」

 そう言いながら階段を下りた目の前に突き出された封筒は、確かに赤一色だった。表の中央にこの家の住所とわたしの名前。萩原未央様。子供っぽい字だ。裏を見る。

 本池 美月

「誰、それ。新しくできた友達?」

 母が探るように尋ねてくる。

「ああ……うん」

 受け取りながらあいまいに答え、さっさと二階の部屋に戻った。実際には全く心当たりのない名前だった。

 美月……ミツキ……そんな子いたかな?

 机に置いたまま考え込む。開いてみて嫌なことが書いてあったらどうしよう、とも考えた。匿名の嫌がらせとか、チェーンメールっぽいのとか。そもそもクリスマスでもないのに赤い封筒というのも、確かに引っかかる。そのまま捨てようとも思ったが、内容も少しは気になった。

 結局、少しだけ内容を呼んで、嫌な内容になりそうならすぐ捨てようと決め、封を開き、中に一枚だけ折り畳んで入っていた、やはり赤い紙を取り出した。


〈あの事件の真実を知りたいと思いませんか?〉


 紙を開いた途端、その文章が飛び込んできた。

 ぐっと息を呑み込んだ。ぞわりと冷たいものが足元から這い上がってくる。指の間から紙が滑って床に落ちた。落ちてもやはり文面の方が上になって、わたしをじっと見上げていた。


―レナのこと、忘れちゃったの?


 赤い紙がそう言っているような気がした。


―あたしまだ、見つかってないんだよ?


「分かってるよ。忘れるわけないじゃん!」

 頭を抱えながら、わたしは紙に向かって叫んだ。叫んだつもりだったが、口から洩れたのは掠れたような囁き声だけだった。

 忘れてなんかいない。でも、五年も経つ今になって、なぜ。誰が……?

 ようやく私は、便箋の折り目の下に文章がまだ続いていることに気づいた。


〈知りたかったら二十二日の午後三時。誰にも言わず手紙を持って、あの小学校の前まで来てください。あなたの勇気と友情が試されます。〉


 何、これ。招待状?

 少し冷静になった。

 最後の一文―あなたの勇気と友情が……というところが妙に押しつけがましくて、わたしの動揺を冷ましたのだ。

 この本池美月という子が何者かは知らないが、勇気とか友情とか、軽々しく言ってほしくなかった。あの時どれほど学校中が大騒ぎになったか。子供だけではない、先生も親も、どれほど恐怖に怯え、混乱し、そして後悔したか……

そう、わたしはずっと後悔していた。

 小柄でかわいくて、いつもニコニコ笑っていたレナ。勉強は苦手だったけれど、一度も怒った顔は見たことがなかった。あの時わたしがレナに一声掛けていたら。一緒に帰ろうと言っていたら。

 レナ、ごめん、ごめん、ごめん……

 こんな手紙、さっさと破いて捨てようと思った。どこの誰かは知らないが、真実なんて本当は知らないに違いない。警察も何年も捜査して、それでも結局迷宮入りになってしまったくらい、犯人の手掛かりも証拠も、何も見つからなかった連続失踪事件なのだ。真っ赤な封筒といい、悪趣味なただの悪ふざけに決まっている。そもそも二十二日といえば明日ではないか。明日の午後は部活がある。

 ハイ、無理。

 心の中で冷たく答え、紙と封筒を重ね、思い切り破こうとして、何か硬いものに当たった。

「……?」

封筒の底にまだ何か入っていた。取り出してみる。ピンのついたプラスチックのプレートだった。手のひらに握り込めるくらいの大きさだ。

名札? しかし表には「1」という番号が描かれているだけだ。

 何、これ……


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