第15話 困惑の味
じわりと広がるチーズの濃厚な味わい。
けれど、そのほとんどは緊張し切った俺の舌には伝わらず、口内を撫でて喉奥へと消えていく。
「ふふっ、おいしいですか?」
「あ、あぁ……」
味なんてほとんどわからなかった。
口を通して俺の頭に伝わってきた情報はただ一つ。
間接キスをしたということ。
その情報で頭がいっぱいになり、他のことを考える余裕などなかったのだ。
「それはよかったです。お口に合わなかったらどうしようかと思いましたよ」
ホッとしたように胸を撫で下ろす彼女の姿からは微塵も悪意を感じられない。
純粋に誰かに喜んでもらいたいという思いだけが伝わってくるようだった。
「そ、そんなに心配しなくても、美味しかったぞ……」
「本当ですか? 嬉しいです♡」
そんな眩しい笑顔を向けられてしまっては、邪推していた自分が恥ずかしくなってしまうじゃないか……。
毒とか……媚薬とか……そんなの入る余地がない。
純粋な善意で作ってくれたのだろう。そう思うとなんだか申し訳なくなってきてしまった。
「うぅ……」
いや違うだろ……なにを絆されそうになってるんだ!
相手はストーカーだぞ! 胡狼さんだぞ! 不法侵入露出魔だぞ!
どうせ何か悪い企みのために動いているんだ。
俺を喜ばせる気なんてないに決まってる……。
「どうしました? 顔が赤いですけど、大丈夫ですか?」
「はっ!?」
気づけば、胡狼さんが俺の顔を心配そうに覗き込んでいた。
「だ、大丈夫だ! 問題ない!」
「そうですか? でも、体調が悪い時は遠慮せず言ってくださいね。私が看病しますから」
「お、おう」
なんだこのムズムズする、こそばゆい感じは……。
罪悪感に苛まれているような……。
嬉しいような……。
とにかくいろんな感情が込み上げてきて、もう何が何だかわからなくなってきた。
「本当に大丈夫ですか? やっぱり調子が悪そうですけど……」
「だ、大丈夫だから! それ食ったら、とっとと帰ってくれ!」
これ以上胡狼さんと一緒いたら、頭がどうにかなってしまいそうだ。
やはり、胡狼さんは危険人物。
近づいてはいけなかったのだ。
「唯人さんが言うのなら、仕方ないですね。けど、その前に洗い物だけさせてくれませんか?」
「いや、それくらい俺がやるからいいよ」
「いえいえ、唯人さんはゆっくりしていてください。配信で疲れているでしょう」
「それはそうだけど……」
「いいから、任せてください」
そう言うと、胡狼さんは食器を持ってキッチンの方へと向かっていく。
もうこうなってしまっては止める術はない。
「お、俺が拭くからさっさと済ませろよ!」
「休んでと言っているじゃないですか……もう……」
呆れたように笑う胡狼さんを尻目に、俺は布巾を片手にシンクの前へと向かう。
そんな俺の姿を見て彼女も諦めたのか、水を流す音と共に、カチャカチャと食器同士がぶつかり合う音が聞こえ始めた。
「はい、拭いてください」
「お、おう……」
不思議な感覚だ。
いつもは一人で黙々と作業をこなしているだけに、こうして誰かと一緒にいるというのは慣れない感覚だった。
特に、それが異性ともなればなおさらである。
なんというか、落ち着かないというか、ソワソワしてしまうというか、ともかく不思議な気分だ。
しかし、そんな俺の思いとは裏腹に、彼女はテキパキと慣れた手つきで家事を進めていく。
その様はまるで新婚夫婦のようだ。もちろん、そんなことは口が裂けても言えないが……
「まるで私たち夫婦みたいですね。これは初めての共同作業ってやつですかね♡」
「断じて違う!」
胡狼さんは平気でそういうことを口にするので心臓に悪い。
「残念ながら、これが最後の一枚のようですね。はいどうぞ」
「よし、これで今度こそ帰ってもらうぞ」
最後の一枚を受け取り、それを拭き終えたところで、俺は彼女に帰るよう促す。
「本当に私が帰っても大丈夫ですか? 唯人さんの生活が心配で仕方ないです」
「大丈夫だから……。ほら、早く帰れって」
「うぅ……はい……」
俺の言葉に渋々といった様子で頷くと、玄関に向かって歩き出す胡狼さん。
「では……お邪魔しました……」
その顔は、とても寂しげで、切なげで、今にも泣き出してしまいそうなほど悲しそうだった。
「…………」
ガチャリと音を立てて玄関の扉が開く。
これでやっと平穏が訪れる……そのはずなのに
「ちょっと待て」
気づけば俺は、彼女を引き止めてしまっていた。
「え?」
驚いたように彼女が振り返る。
「あの……その……えと……」
なんで俺は引き留めたんだ……。
早く胡狼さんから離れたいはずなのに……。
なんで……
「どうかしましたか?」
彼女の引き攣ったような笑顔を見た時、ようやく俺は思い出した。
こう言う時に伝えなければならない言葉があることを。
「あ、ありがとうな……。グラタン、う、うまかったぞ……」
「っ!?」
クソ恥ずかしい……。顔から火が出そうだ。
こんなことなら言わなければよかったかも……そんな後悔の感情が溢れてくるが、目の前の彼女を見るとすぐにそれらの気持ちは全て吹き飛んだ。
「どういたしまして……」
柔らかに微笑む胡狼さんの顔は、これまでにないほど嬉しそうなものだったからだ。
心の底から嬉しそうな笑み。先ほどまでの暗い雰囲気はどこにもない。
今はただ、幸せに満ち溢れているようだった。
そんな彼女を見ていると、気を許してしまいそうになる。
「で、でも不法侵入を許したわけじゃないからな! 次やったら警察に突き出すからな! 二度とするなよ!」
「ふふっ。それはどうでしょうね?」
「あ、おいっ! まてっ!!」
そう言っていたずらっぽく笑うと、胡狼さんはひらりと身を翻し、暗闇の中へと消えていった。
「く、くそ!」
慌てて追いかけようとしたが、すでに手遅れだったようだ。
ドアの外を見ても、そこには誰もいない。
「はぁ……もう……」
胡狼さんに逃げられた……。
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