第22話 懸想、時どき嫉妬

 …やってしまった。


 クリスティーナの前で“発作”を起こしたルイスは、心の中でそう思った。


 自慢するようなことではないが、ルイスは自分を誤魔化すのが得意だ。

 体調が良くないことが多い彼は、多少自分の体を押して仕事や参加必須の式典などにあたることが少なくないので、周りに不調を悟られないように振る舞うことには昔から慣れていた。

 もちろん無理がある時は休むし、身内や親友のウィリアムにはすぐにバレてしまう事もある。しかし、他人の前で自分を取り繕うことがほとんどで、それが当たり前だと思って生きてきた。


 だから夜に会った瞬間にクリスティーナが自分の不調に気づいたのは、ルイスの誤算だった。


 彼女は勘が鋭く、少ない情報からの洞察力も凄まじい。にもかかわらず、ルイスはクリスティーナの前で気を抜いた。ほんの一瞬だけ、自分を取り繕うのを止めたのだ。その理由はいかにも単純なもので、ただイブニングコードのクリスティーナに見惚れてしまったというだけなのだが。


 その隙に悟られてはどうしようもない。言い訳もできずに白状したルイスだったが、その後は何事も無いように振る舞うと心に決めていた。実際ダンスの前までは上手くいっていたが、一瞬感じた“発作”の兆候による異変を見抜かれ、今こうして休憩室に連れて来られている。ルイス自身、この度の自分の不甲斐なさに頭を抱えたくなった。


 ドクン、ドクン…。煩いくらいに聞こえる鼓動と、締め付けられるような激しい痛みが、ルイスを襲う。これまで何十回と経験してきたにもかかわらず、この痛みにはなかなか慣れない。いや、多少は慣れてきている。だって作り笑いをする余裕はあるのだから。


 “発作”を起こした時、クリスティーナは珍しく焦っていた。痛みに耐える中チラリと視界の端に見えた彼女は、未だかつてないほどに表情を露にしていて、その瞳には怯えが見えたような気がした。


 安心させてあげたい。でも不安を生み出した原因のルイスが、それを実現できるような状況ではなくて、結局下手な笑みをつくることしかできなかった。

 周りにバレたら面倒なため早く戻る必要があるが、なかなか痛みが引かない。横になれば確実にそのまま意識を飛ばしてしまうとルイスは分かっていたので、クリスティーナの肩を借りて落ち着くのを待つ。自分から頼んでおいてなんだが、オフショルダードレスで素肌を見せていた肩を借りるのは失敗だったかもしれない。というより、なんとなくいたたまれなかった。

 一方で本人は全く気にしていないようで、そのまま微動だにせずルイスの頭を支えている。もう少し危機感を持った方が良いのではないかと、ルイスは切実に思った。

 呑気にそんなことを考えていると、クリスティーナの呟きがルイスの耳に入ってくる。


「…もう少しくらい、自分に気を遣っても良いのに。」


 微かに聞こえる程度の小さな声だった。口調が砕けているところを見ると、誰に向けたわけでもない独り言だろう。しかし、それが自分に向けたものかもしれないと思うと、ルイスは少し嬉しくなった。

 すると、クリスティーナが自分の手を握り始めたことに気がついた。その手には力が入っていて、僅かに震えているようだった。


 この状況を見て、聡明で勘の鋭い彼女が何も気づかないとは思えない。ルイスが自分の体について何かを隠していることは、既に察しているだろう。それでも訊く気配が無いところは、流石というか何というか。他人に干渉をしないスタンスの彼女らしい。しかし尋ねられなければ尋ねられないで少し寂しく感じてしまうのは、自分勝手だろうかと、ルイスは思う。どうせ尋ねられても答えられないというのに。


 しばらくして、少しずつ痛みが引いていく。ゆっくり目を開けると、彼女の手が自分の手をしっかりと握っているのが見えた。

 色白なやや細い手。しかしその掌は、普通の貴族令嬢とは思えないほどに硬かった。ウェルズリーは武人の家系なので、もしかしたら女の身でも訓練を受けてきたのかもしれない。剣を扱う者の強さは手を見てなんとなく分かるものだが、並の兵士より彼女の方がよっぽど強いだろうことは、ルイスの目には明らかだった。


「ルイス様。」

「…っ、はい!」


 突然声をかけられてかけて、ルイスはビクッと肩を跳ねさせた。


「お加減はいかがですか?」

「少し楽になりました。ありがとうございます。肩まで借りてすみません…。」

「いえ、ご遠慮なく。婚約者同士は遠慮しないものなのですよね?」

「えっ。」


 ルイスは寄りかかっていた体を起こす。突然起き上がったルイスに、クリスティーナは首を傾げた。


「どこか間違って解釈しているでしょうか?」


 ルイスの言葉を信じて純粋なまなこを向けるクリスティーナ。あまりにも忠実な彼女に、ルイスはまた変な声を出しそうになった。

 ルイスが言った言葉はクリスティーナの自分に対する態度を和らげるための方便で、彼の本当の考えではあるものの言葉通りに彼女が従うとは正直思っていなかった。予想以上に素直な反応に、先ほどの“発作”とは違う意味で心臓が跳ねた。


 ある時には周りを凍りつかせるほどの殺気を放ち、またある時にはびっくりするくらいの勘の鋭さを発揮するというのに、今の彼女は新しい知識を得てすぐに実践しようとする、幼い子どものようだ。可愛らしいよりも美しいという形容詞が似合う大人びた顔立ちのクリスティーナだが、今の表情はポーカーフェイスながらも純粋で可愛らしく感じられた。


「まだ痛みますか?」

「いえ、だいぶ落ち着いてきました。」

「本当ですか?胸を押さえていらっしゃるので、まだ治っていないと思ったのですが。顔も赤いですよ?」

「えっ?い、いえ、これは…。」


 貴女あなたに心を乱されたからです、などと正直に言えるわけもなく。ルイスは口籠り、顔をさらに赤らめた。


「なんでもありません、大丈夫です。」

「そうですか。でしたら良かったです。」


 クリスティーナは安堵したような表情を見せる。というより正確には、“そんな感じがした”程度だ。

 基本的にポーカーフェイスで、表情豊かとは決して言えないクリスティーナだが、何度か一緒に時間を過ごした経験から、ルイスは少しずつ彼女の感情を読み取れるようになっていた。側から見ても無表情としか思われないが、目や口許の細かい動きから、なんとなくならば喜怒哀楽を察することができる。もちろん読み取れないことも多々あるが、そうしてルイスはクリスティーナの思いを推し量っていた。


「そろそろ行きましょうか。」

「もう行って大丈夫なのですか?」

「はい、あまり時間を空けてはまずいでしょうし。」


 ルイスは腰を上げる前に、クリスティーナに握られた自分の手をちらりと見ると、彼女に微笑みかけた。


「手を握ってもらってありがとうございました。」


 ルイスの手を握っていたことを忘れ、今の言葉で気づいたクリスティーナは、目を丸くするとサッ、と手を引く。


「申し訳ありません。離すのを忘れてしまって…。」


 肩を貸す時は涼しい顔をしていたくせに、自分から触れることは謝るのか。彼女の基準が気になったルイスは、自分の手を彼女の頬へ伸ばした。

 邪な気持ちではなく、ただ確認するだけ。自分にそんな言い訳をしたルイスだったが、その言い訳はクリスティーナの反応の前に崩壊した。


「ルイス様、何を…?」


 ルイスの手が頬のすぐそこまで近づいた時、クリスティーナは目を丸くして顔と耳の先を赤く染めた。彼女本来の色白がみるみる変化した様子を見たルイスもまた、その表情に心を奪われた。


 また一つ、心臓が跳ねる。


 我に返ったルイスは、彼女の頬…ではなく髪に少し触れ、その手を引き戻した。


ほこりがついていましたよ。」


 にこりと微笑みかけると、呆気にとられるクリスティーナの手を取ってソファから立たせる。ずっときょとん、としている彼女に、ルイスは衝動的に口走りかけた。


―――可愛すぎる。


 ルイスは咄嗟に口を噤む。自分が今どんな表情を浮かべているのか、彼には分からなかった。


「どうかされましたか?」

「いえ、なんでもありません。戻りましょう。」


 ルイスは右手をクリスティーナの左手に繋いだまま背を向ける。彼女を連れて部屋の扉の前に来た時に、ルイスは振り返って彼女に言った。


「肩や手を貸すのは、僕だけにしてくださいね。」


 彼女はやはり首を傾げる。それを見ながらも何も言わず、ルイスは踵を返した。



 『妬いてしまうので』なんて言えない。

 自分達に必要なのはあくまで信頼関係なのであって、恋愛感情ではないのだから。

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