第20話 箱庭の少女
「改めましてご機嫌よう、ウィリアム殿下。そしてクリスティーナ様。」
二人の前に現れたのは、アスター伯爵の娘ローズマリーだった。彼女は自身のピンク色のドレスのスカートを掴み、カーテシーで挨拶をする。
「これは可愛らしいお客さんだ。女性のおしゃべりを邪魔するわけにもいかないし、私は失礼するよ。」
そう言ってウィリアムは会場へ戻る。ローズマリーの死角に入ると、クリスティーナに笑顔を向けてピースサインを送った。またこの状況を面白がっているらしい。ウィリアムの背中を見送ると、クリスティーナはため息を吐きたくなった。
「クリスティーナ様…私、ずっとお会いしてみたかったのです!」
「私に?」
「はい!」
ローズマリーはきらきらとした笑顔でクリスティーナを見つめる。しかし、その笑顔に込められた意味が何たるかをクリスティーナはこれまでの経験から察していた。
「あれだけ婚約を渋っていたルイス様が選んだ方がどのような方か知りたかったのです。私はルイス様の妹君シャーロット嬢の友人で、ルイス様とも長いお付き合いですので。」
にこっと微笑みかけるローズマリーに対して、クリスティーナの眼差しは冷たい。
ローズマリーの年齢はクリスティーナより下のようで、社交界にも疎いのだろう。自分より身分が上の者に対しての遠慮や振る舞いを知らないようだ。
しかし、クリスティーナはわざわざ指摘するほど他人に興味が無い。特にクリスティーナの気に触ることも無かったので敢えてスルーした。
「ルイス様は意志の強いお方なので、侯爵様の勧めにも全く応じなかったらしいです。そんなルイス様の御心を射止めたなんて、さすがですわ。」
「そのようなことは…。」
「今まで誰も相手になさらなかった“氷の薔薇”でも、ルイス様には
ローズマリーが、突如としてクリスティーナに牙を剝く。しかしクリスティーナが浮足立つことは無く、それどころか予想通りすぎて
「そうですよね…。ルイス様は次期侯爵で、将来有望な方。それにとてもお美しい方ですわ。誰もが憧れる殿方ですもの、“氷の薔薇”と言われる方が
よくもまあこのような無礼な内容をつらつらと述べられるものである。いくら親しいと言えど彼女は伯爵令嬢。侯爵家の令息についてこのような物言いは失礼であることくらい分かるだろうに。伯爵には好印象を抱いていただけに、娘への悪印象が際立つ。
「そのようなことを仰るのはルイス様に失礼というものでしょう。それに私達は政略的な婚約関係ですので、私の意思はさほど関係ありません。」
「でしたら、ルイス様への愛は無いというのですか?それはお可哀想なルイス様。愛の無い婚約だなんて…やはり婚約しても“氷の薔薇”は変わらないのですね。でしたら他のご令嬢に婚約者の立場を譲ってはいかが?ルイス様の伴侶になりたい女性はたくさん居るのですから。」
クリスティーナはローズマリーの言い分を黙って聴いている。というより、呆れて物も言えなかったというべきだろうか。
愛のある婚約など、貴族にとっては夢物語である。所詮重視されるのは身分や利害関係であり、年齢や人柄は二の次。年齢差のある婚約だって珍しくはないし、相手のことを全く知らないまま婚約するなんてざらにある。そもそも一度婚約してはそう簡単に変えられるものではないし、辞退するにしてもクリスティーナの一存でどうにかなるものではない。
その他諸々の事情をこの“お嬢さん”は知らないらしい。夢物語を現実と同じだと思えるのだから、さぞ今まで幸せに生きてきたのだろう。
この場にアランが居なくてよかったと、クリスティーナは思う。クリスティーナのこととなると盲目になる弟が、ローズマリーを放っておくわけがない。これからも接点が無いことを祈るばかりだ。
「そうですね。私は冷めた人間ですから、
クリスティーナの反撃にローズマリーは驚き、彼女を睨む。最初の笑顔はどこへ行ったのか?人前で敵意を素直に見せるのはおすすめしないが、わざわざ言ってはただの煽りだろう。
「御用がお済みでしたらこれで失礼します。」
クリスティーナはそのまま会釈すると、ローズマリーとすれ違って会場へ戻った。中に入って目でルイスを探す間に、ドリンクを持った給仕に出会い、素通りする。
通り過ぎた後ろから、「一つ頂戴。」という声が聞こえる。彼女の後ろに居た人物はただ一人。何気なく振り向くと、予想通りの人物がドリンクのグラスを持ってこちらへ向かって来ていた。
「きゃあっ!」
わざとらしい叫び声をあげ、ローズマリーの体が傾く。なんとも安直な手法だが、ドレスが汚れるのは必至だ。
クリスティーナは、給仕がバルコニーから戻るのを見て、トレーの上の空のグラスに気が付いた。彼女はすばやくグラスを手に取り、ドレスにこぼれる前に空中のドリンクを受け止める。一滴もこぼさずにグラスに注ぎ、もう一方の手で傾いたローズマリーを支えて立て直して、その場は事なきを得た。
「は?」
ローズマリーが僅かに低い素の声を出す。このような常人離れしたクリスティーナの対応を見れば、そうなるのも無理はないだろう。
しかし、クリスティーナは武人の家系に生まれた令嬢で、その上暗殺者だ。俊敏性と頭の回転の速さには自信がある。子供の考える安易な悪戯など、クリスティーナには何の障害にもならなかった。
「足下にはお気をつけください。」
そう言ってローズマリーを立たせると、その光景を見て呆気に取られていた給仕のトレーにグラスを置いた。ローズマリーはますます憎しみの籠った目でクリスティーナを睨む。
「クリスティーナ。」
後ろから自分を呼ぶ声を聞き、すぐさまクリスティーナは振り返る。その主は今度こそルイスであった。
「すみません、一人にしてしまって。」
「私は構いません。お話はお済みですか?」
「えぇ。それより、大丈夫でしたか?」
「と言うと?」
ルイスが続けようとしたところで、甲高い声がそれを遮った。
「ルイス様!」
先程の睨みが一転、きらきらした瞳でルイスを見ると、ルイスの方に駆け足で近づいた。
「私ったら先ほど
「何事も無くて良かった。お怪我は?」
「大丈夫です。気にかけていただけるなんて嬉しい…!」
さらに近づこうと一歩踏み出した彼女を避けるように、ルイスも一歩下がる。
「クリスティーナも、怪我は無い?」
「はい、問題ありません。」
「それならよかった。もう一人にはしないから。」
口調の変化に一瞬戸惑ったが、仲睦まじい演技の一環だということを思い出し、自分もそれに順応する。ルイスの表情は、本当にクリスティーナを好いているのではないかと錯覚してしまうくらいに優しい。彼はもともと優しい人間なので、素直に心配しているだけだろうが。
「では僕たちは失礼します、アスター嬢。」
この言葉を機に、ルイスははっきりと一線を引いたのではないかとクリスティーナは思った。ローズマリーもそれを察したようで、再び見えない悪意をクリスティーナへ向ける。これが面倒事を呼ばないようにと、クリスティーナは切に願うのであった。
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