第17話 ルイスの誓い

 昨夜自分の弟が“夜会”で大いに暴れた事など知らないまま、クリスティーナは婚約式当日を迎えた。

 婚約式は正午より行われ、それが終わってから昼食、宴会の準備、宴会本番という過密スケジュールである。


 そしてクリスティーナは現在教会の一部屋で式に向けて身支度を整えているところだ。式での服装は宴会の際のものに比べて控えめで、ラベンダー色でロングスリーブのワンピースドレスを纏い、髪は片側のサイドヘアを編み込んで紫色のコサージュで留めている。


 身支度がある程度整い、侍女として同伴していたアンナが最終チェックを行おうとしていたその時、コンコン、と部屋をノックする音が聞こえた。

 アンナが扉を開けると、その隙間に男性の姿が見える。すっかり聴き慣れた優しい声に、クリスティーナは椅子に座ったまま声をかけた。


「ごきげんよう、ルイス様。」


 アンナが部屋に入るよう促すと、ルイスは中に入って優しい笑みを浮かべた。


「突然失礼します、クリスティーナ嬢。今日は一段とお美しい。ドレスの淡い紫がよくお似合いです。」

「ありがとうございます。」


 何の躊躇いも無く世辞を並べるルイスに、クリスティーナは普通に礼を返した。わざわざ褒めるためだけにここへ来たのではないだろう。


「クリスティーナ嬢、良ければここの裏庭を一緒に歩きに出ませんか?式の後は時間が無いでしょうから。」


 案の定、ルイスが唐突に提案した。婚約式直前に散歩に行こうなんて誘いなど普通は無い。何か事情があるのだろうと察したクリスティーナは首を縦に振り、椅子を立った。


「すぐに戻るわ。」

「かしこまりました、お嬢様。」


 アンナが何も訊かず送り出すと、クリスティーナはエスコートの為に差し出されたルイスの手を取り、部屋を出て行った。



 二人は建物の裏に回り、小さな庭に出た。芝生は青々しく、木々も整備された綺麗な庭だ。


「急に申し訳ありません…。どうしても式の前にお話ししたくて。」

「どうぞお気になさらず。それで、何の御用でしょうか?」


 すぐに本題に移ろうとするクリスティーナを見て、ルイスは優しい笑みを浮かべた。だが彼女を見る目は、いつもより真剣である。


「これが最後の確認になります。クリスティーナ嬢、後悔はなさいませんか?」


 何が、なんて訊くだけ野暮だろうと、クリスティーナはその目を見て思った。


 婚約してしまえば、そう簡単に破棄できるものではない。上位貴族であれば尚の事だ。

 婚約や結婚は、人生の一大事。ルイスが度々確認するのは、至極当然のことでもあった。


 しかし体が弱いというだけで、ここまで気にするものなのか?警戒されているという事かもしれないが、それにしては話の進みが速かった。

 ルイスが気にしている事が、クリスティーナの想定と異なるものだとしたら…それは一体何なんだろう。


 ルイスの深緑しんりょくの瞳が、クリスティーナを映す。真っ直ぐ向けられた視線に、彼女もまた鋭い眼差しを返した。


「私の後悔など、関係の無いことです。」


 所詮は政略的な婚約。所詮は家の繋がり。後悔しようがしまいが、全ては家の流れに沿って動く。クリスティーナの役目は、ただその流れに身を任せる事だけだ。


 クリスティーナの答えを聞いたルイスは口許を緩め、ははっ、と笑った。その笑顔はいつものように僅かにでも含みを帯びたそれではなく、少年のように無邪気な笑みであった。


「はははっ……失礼。あまりにも思っていた通りのお返事だったので。」


 クリスティーナがきょとん、として首を傾げると、ルイスはさらに楽しそうに笑う。彼女自身にはその理由がよく分からなかったが、彼のあどけない笑顔に思わずその堅い口許を綻ばせた。


「…おや、初めて笑ってくれましたね。」

「えっ…。」


 確かに、家族以外の前で笑うのはいつぶりだろう。そもそも前回笑ったのはいつだったか、それさえもクリスティーナは思い出せない。

 他人に内心を悟られない為、何が起こっても貫いてきたポーカーフェイスが何故ほんの一瞬の笑みに陥落したのか?その理由も、彼女には分からないのであった。


 クリスティーナが考えていると、唐突にルイスがクリスティーナの方へ手を伸ばした。今にも指先が頬に触れんとするところでピタリと止まり、空気を握って拳をつくる。

 この行動の意図が理解できず、疑問に思いながらルイスに目を向けると、その目は何とも複雑な色を浮かべていた。


「ルイス様…?」

「…。」


 ルイスは何も言わずに、ただクリスティーナを見るだけだ。

 ルイスの瞳と同じ緑色の芝を、爽やかな風が揺らす。太陽に照らされた彼はその瞳を煌めかせ、もともと白い肌が一層白く輝いて見える。その姿は、まるで光に溶けて消えてしまいそうなくらいに儚げであった。


 でもどうして、そんなに切ないをしているんだろう。何かを伝えんとするような芯が確かにあるのに、悲しげな色が覆い隠す。

 もしかして、婚約を断ってほしいのだろうか?

 確かに向こうから持ちかけてきた縁談なので、ルイスが断ることはできないだろう。しかしそんなに単純な話ではないことを、ルイスの瞳は物語っていた。


「…行きましょうか。そろそろ戻らないと、後が大変でしょう。」

「えっ?…はい、そうですね。」


 ルイスの行動や悲しげな瞳の意味が分からないまま、クリスティーナは彼のエスコートのもと建物へ戻る。部屋の前まで来たところで、ルイスはクリスティーナの手に軽く口付けした。


「貴女の幸せの為に、生涯を捧げます。」

「それは一体どういう…?」


 ルイスは答えず、先程と同じ瞳のまま微笑む。

 生涯だなんて大袈裟な。普通はそう思うが、ルイスの真剣な様子から軽く遇らってはならないものだと察した。

 ルイスの傍に長く居れば居るほど、彼が抱える何かが見え隠れする。でもそれに触れてはならない気がして、クリスティーナは気づかないふりをするのだった。


***


 その一時間後に婚約式は始まり、恙無つつがなく進んだ。いよいよ婚約宣誓書に署名するということで、クリスティーナはペンを握る。

 既に記されたルイスの名が目に入り、彼女はその前のルイスの問いを思い出した。


『後悔はなさいませんか?』


 頭の中で思い浮かんだ声に答えるように、クリスティーナは手を動かす。彼女の答えは、何も変わらない。


 署名を終えると、予め用意されていた記念品の指輪と懐中時計が運ばれて来る。出来上がった指輪をクリスティーナが見るのは、この時が初めてだった。

 指輪のデザインは極めてシンプルで、銀色のリングに大きすぎないセンターストーンがただ一つだけ緑色に煌めく。


 ルイスはクリスティーナの手を取り、指輪を右手の薬指に通した。白魚のような指に、深緑の宝石が映える。


 ルイスの瞳と同じ色の宝石。クリスティーナが視線を上げると、ルイスが真剣な眼差しでこちらを見ている。

 生涯を懸けて幸せに。先程ルイスが誓った際の様子が思い出された。



 こうして、クリスティーナとルイスの婚約は正式に成立した。堅い誓いと、互いがそれぞれに抱く暗い影を秘めながら———。

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