第15話 距離が近づく代償

「それでは失礼致します、ルイス様。」

「はい。また婚約式で。」


 こちらに会釈をしてからクリスティーナが馬車に乗り込む様子を、ルイスは笑みを浮かべて見ていた。


 馬車が動き出して姿が見えなくなると、ほっ、と一つ息を吐いて屋敷に戻る。すると入ってすぐの所で、母のダイアナが腕を組んで仁王立ちしていた。その視線は確実に優しいものではなく、ルイスはその表情を固くする。


「私の言いたいことは分かるわね、ルイス?」

「申し訳ございませんでした…!」


 否定なんてさせないとでも言いたげな母の目に、ルイスは大人しく屈服した。

 ダイアナが怒っている原因は、街に出たクリスティーナがドレスを土で汚して帰って来たことであった。


「何をしたらクリスちゃんのドレスが汚れるのよ!」

「そ、それは先程説明した…。」

「だから!どうして貴方あなたが見す見すそうさせたのかと訊いているの!」

「うっ…。本当に、母上にもご迷惑をおかけしました…。」

「私は良いの!クリスちゃんが優しい子だから良かったものの、他の令嬢なら激怒しても可笑しくないわよ!」


 プライドの高い貴族令嬢は多く、上位貴族になるとますます珍しくない。クリスティーナは全く気にしていなかったが、帰って来た彼女を見るなりダイアナが自分の古いドレスを彼女に着せて家へ帰したのだった。


「全くこの子ったら…。今度同じ事をしたらクリスちゃんが赦しても私が赦しませんからね!」

「はい、母上。肝に銘じます…。」


 ダイアナが激怒する事は珍しいこともあり、こっぴどく叱られたルイスは肩をすくめるばかりであった。

 それを見たダイアナは、一度落ち着いて大きく息を吐く。


「…まぁ小言はこれくらいにしましょう。それで、クリスちゃんと少しは仲良くなれたの?」


 今回ダイアナが二人を街へ行かせた目的はこれである。あまりにもルイスとクリスティーナの会話が他人行儀だった為、少しは打ち解けられるように配慮したのだ。屋敷を出る前に念押しされ、ルイスもその事をちゃんと分かっていた。


「そうですね…。少しは良くなったと思うのですが。」

「お互いの呼び方は変えられたみたいだから、少し成長かしら。政略結婚とは言え一生を共にするのだから、最低でもそれなりの関係性を築かなきゃね。」

「分かっています。」


 当たり前だが、仲の悪い夫婦は生活が上手くいかない。貴族はそうそう離婚などできないため、恋愛まではいかずともある程度の仲の良さは必要なのだ。


「私達みたいに愛し合えるようになったら一番良いのだけどね!」

「惚気はやめてください…。」


 ルイスの両親であるグレンヴィル侯爵夫妻はおしどり夫婦として有名で、その仲の良さは息子がうんざりするほどである。


「では私は自室で着替えて来ますので。」

「あら、そうね。その後夕食にしましょう。」


 一度話が始まったらなかなか終わらないことを、ルイスは長年の経験で十分分かっている。母の惚気話が始まりそうになったのを遮って、ルイスは自室へ引き上げていくのだった。



 自分の部屋に入ったルイスは、着ていたジャケットを脱いで無造作にベッドに放り、ループタイを解こうと指をかける。他人に見せるようなどこを見ても完璧な貴公子の姿は消え、先程の笑みは憂いを含んだような暗い表情に変わった。

 解いたループタイをまた放ると、シャツの台襟だいえりボタンだけを外して仕事用の椅子に腰掛ける。机には仕事の書類がまとめて置かれているがそれらには手をつけず、背もたれに寄りかかって天を仰いだ。


「“氷の薔薇”、か…。」


 誰も居ない暗い部屋で、ルイスはポツリと呟いた。

 彼が思い返していたのは、クリスティーナが平民の親子を助けた時の事である。


 実のところルイスは、クリスティーナが親子を助けたところから自分が助けに入るまでの一部始終を見ていた。

 では何故なかなか助けに入らなかったのか?それは、クリスティーナの行動が彼にとって予想外のものだったからである。


***


 ルイスが本屋へ寄ったのは、ずっと買おうと思っていた本を買う為であった。そして店内でそれを見つけたルイスが支払いを済ませた時に、それは起こった。


 道でしゃがみ込む親子に迫り来る馬車。それが目に入ってルイスは外に出たが、それより速くクリスティーナは親子を保護し、道の端に逃げていた。


「…。」


 クリスティーナの動きは、ルイスが呆気に取られるほどにあっという間だった。ルイスは貴族男子として王立学院でも体術に優れた者をたくさん見てきており、彼自身も剣術を心得ている。故にクリスティーナの行動の速さがいかに恐るべきものか分かっていた。

 しかもクリスティーナ本人は動揺の色を一切見せず、涼しい顔で親子を気にかけている。彼女にはそれをす自信と余裕があることがすぐに分かった。


 ただの御令嬢のせる技ではない。

 それに一瞬で気づかない彼ではなかった。


 ルイスは一先ひとまず静観を決め、ロナルドの横暴な態度も黙って見ていた。クリスティーナがどのような対応を取るのかを見たかったのである。

 すると次の瞬間、ルイスはその場のピリッとした緊張感ある空気を感じ取った。


 クリスティーナは淡々と言葉を紡ぎながら馬車を見ている。しかしその視線に篭っていたのは、生半可な敵意ではない。

 彼がクリスティーナから感じたのは、対象への明らかな侮蔑、相手をモノともしない威圧感、そして、今にもその命を刈り取るかのような冷たい気迫。


 あまりに重い殺気に、ルイスの足が自然と一歩引く。まるで本能が危機を察知したかのようだった。だがその空気感に気づく事ができたのは、それを向けられているロナルドとルイスのように敏感な者だけ。特定の相手にしか分からない殺気というのは、普通の騎士でも簡単に纏えるものではない。

 この時のルイスの目には、クリスティーナが麗しの貴族令嬢ではなく、獲物を目の前にした狩人のように見えていた。ここで初めて、彼女の“氷”の姿を見たのである。


 しかしロナルドが馬車から降りてから、その殺気は嘘のように和らいだ。一瞬にして普通の御令嬢に戻るという雰囲気の変わりように、またルイスは驚かされる。

 貴族令息にもはっきりと物を言う毅然とした態度は、まさに気高き“薔薇”のよう。

 “氷の薔薇”という名はあながち間違いでもないのかもしれないと、この時は思った。


 だが仲裁に入ってクリスティーナと話してから、彼女への印象は元に戻った。


 クリスティーナに褒め言葉をぶつけたのは、彼女と逢った初めての日に自分がされた事のお返しだった。もちろんルイスの本心だったのだが、彼女が本当に冷酷な人間ならきっと気に留めないだろうと思っていたのだ。

 しかし結果は、良い意味で期待外れであった。クリスティーナのポーカーフェイスが赤く染まったのを見て、ルイスは初めて彼女の素の表情を見た気がした。


「やはり貴女あなたは、“氷”とは程遠いようだ。」


 本当に冷たい人なら、最初から人助けなんてしないだろう。ロナルドを諫めるのも、ポーレット家の面子を考えてのこと。彼女の言葉や行動は冷たいように見えても、その根本は優しさにある。


 それが、ルイスが最終的に出した結論であった。


***


 正直に言って、ルイスにとってクリスティーナは非常に稀有な存在だった。彼女は今まで会ってきた貴族令嬢のどの型にもはまらない女性で、ルイスはそれを新鮮に思っていた。



 クリスティーナには、絶対に何か秘密がある。もしかすると、自分にとっても危険な存在なのかもしれない。

 近づいてはいけないと分かっているのに、どうしてだろう?彼女なら信じられると思うのは…。


 彼女の事をもっと知りたい。他人に対してそんな風に思うのはいつぶりだろう。知れば知るほど深みにはまっていくと分かっているのに、それでも、彼女に近づきたい。


 たとえ、それが辛い代償を伴うとしても。



 ルイスは椅子から立ち上がり、バルコニーに出るガラス戸から夜空の星を見る。周りに暗い雲が漂う中、月は眩い光を放っていた。


『私達みたいに愛し合えるようになったら一番良いのだけれどね!』


 ふと母の言葉を思い出すと、ルイスは自分の胸に手をあてる。


「そんな事になったら、互いに辛くなるだけだな…。」


 ルイスの呟きは、静寂の中に人知れず消えていった。

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