第10話 グレンヴィル家の母

 ガタガタと揺れる馬車の中から、王都の街を眺める。たくさんの人で賑わっている大通りを通過してから少し進んで街を外れ、人が少なくなったところで、その屋敷は姿を現した。

 先程通った、店が建ち並ぶような街とは打って変わり、人が少なく静かな石畳の道の先に荘厳な門が現れる。門番をする兵士に断って馬車が門を通ると、大きな屋敷がその奥にあった。動いていた馬車が止まり、外から扉が開く。


「ようこそお越しくださいました、ウェルズリー嬢。」


 クリスティーナが御者にエスコートされて馬車を降りると、ルイスが屋敷の玄関前で待っていた。


「わざわざお出迎えいただきありがとうございます。」

「いえいえ。こちらが無理を言ったのですから、これくらい当然です。どうぞ中へお入りください。」


 ルイスに言われて入った屋敷は、侯爵家の名に恥じぬきらびやかなものだった。しかしそれでいて派手すぎるわけではなく、白を基調としたシンプルな内装からは上品さが感じられる。


「後ほど仕立て屋を呼んでありますので、それまではゆっくりなさってください。長時間馬車の中でお疲れでしょう。」

「お気遣いありがとうございます。」


 ルイスによって応接間に通されると、給仕人が紅茶を出した。

 クリスティーナはそのカップを取り、出された紅茶の香りを確かめる。毒物やその他の怪しい薬などが紛れていないかどうかをまず香りで確認するのは、クリスティーナの癖だった。

 異常無しと判断すると、そのまま紅茶を一口飲む。味にも問題は無く、紅茶の美味しさと温かさにほっ、と息を吐く。すると自分に向けられている視線に気づき、クリスティーナはルイスを見た。


「何か?」

「いえ、何も。」


 ルイスはそう言って微笑むが、彼が自分をじっと見ていたことは分かっている。クリスティーナは自分の顔に何か付いているのかと思ったが、紅茶に映る自分に可笑おかしい点は無かった。


 そんな時に、コンコン、と扉をノックする音が聞こえ、執事と思われる男が入ってきた。


「失礼致します。奥様が、是非ウェルズリー様にお会いしたいとのことです。」

「母上が?」

「はい。」


 この屋敷の奥様とは、即ちルイスの母であるグレンヴィル侯爵夫人のこと。クリスティーナにとっては将来義理の母になる人物でもあり、挨拶しないわけにはいかない。


「宜しいですか?ウェルズリー嬢。」

「もちろんです。私もご挨拶をせねばと思っておりました。」


 何かしらの機会が設けられると思っていたので、唐突に会うことになるとは思っていなかったが。


「承知致しました。」


 執事が扉を開けると、艶々とした長く明るい茶髪を纏めた、翠眼の貴婦人が現れた。彼女から感じられる上級貴族のオーラに、クリスティーナは立ち上がって頭を下げる。


「お目にかかることができ、光栄でございます、グレンヴィル侯爵夫人。ウェルズリー辺境伯令嬢、クリスティーナと申します。」


 カーテシーで視線を下に向けているクリスティーナには、夫人の表情は分からない。しかし次に聞こえてきた声は、とても明るく若々しいものだった。


「あらあら!そんなに堅苦しくならなくて良いのよ!それよりお顔を見せて頂戴!」


 カーテシーで傾いていたクリスティーナの肩を起こし、夫人はその瞳をキラキラと輝かせながらクリスティーナを見た。


「まぁなんて可愛らしいんでしょう!貴女あなたのような娘ができるなんて嬉しいわ…!」


 そう言って喜ぶ夫人の姿は、夫人自身の見た目が若いのも相まって、まるで少女のようであった。もちろん侯爵夫人としてのオーラのようなものは依然あるのだが、それ以上に子どものように喜ぶ姿の方が、クリスティーナにとっては印象的であった。


「…ゴホン。」


 ルイスが母親を嗜めるように咳払いをする。察した夫人は我に返り、頬を赤く染めた。


「あら、私ったら…。ごめんなさいね、クリスティーナさん。うちには娘が居ないものだから、つい舞い上がってしまって…。」

「いえ、お構い無く。」

「ありがとう。自己紹介が遅くなってしまったわね。ルイスの母のダイアナです。よろしくね。」

「こちらこそ宜しくお願い致します、侯爵夫人。」

「あらまぁ侯爵夫人だなんて堅苦しい…!いずれ家族になるのだから、そんなに縮こまらなくて良いのよ?母と呼んでくれても…。」

「母上、ウェルズリー嬢が驚いてしまいます。程々になさってください。」


 再びルイスに咎められ、またハッとした侯爵夫人ダイアナ。ダイアナはクリスティーナを見るなり、申し訳なさそうな表情を見せる。


「またやってしまったわ…!いきなり母と呼んでなんて、簡単に言うべきでは無かったわね。気を悪くしてしまったかしら?そうよね、婚約もこちらからの急な申し出だもの!今のは気にしなくて良いのよ、クリスティーナさん!」

「とんでもございません。娘だと思っていただけて光栄です。私には母が居りませんので、とても嬉しいです。」


 嬉しいと口では言っていても、クリスティーナはポーカーフェイスを崩さない為、今のところ社交辞令にしか聞こえない。


「そうだったわね…。ウェルズリー夫人は若くして亡くなってしまったもの。クリスティーナさんは、御母様を覚えていらっしゃる?」

「幼かったのであまり記憶がありませんが、朧げに。」

「そう…。貴女あなたに似て美しい方だったのよ。惜しい人だったわ…。」

「…そうですか。」


 クリスティーナにはっきりと残っている母の記憶は、一つだけ。それは彼女の母が亡くなる直前のものだった。



———『アランを守ってあげてね、クリスティーナ…。』




「大丈夫、クリスティーナさん?」


 昔の記憶を思い起こしていたクリスティーナに、ダイアナが話しかける。クリスティーナも気がつき、我に返った。


「申し訳ありません。母のことを思い出したもので。」


 そう言ったクリスティーナを見て、ダイアナは彼女の手を取った。


「クリスティーナさん。先程は気にしないでと言ったけれど、私達はいずれ家族になる。だから貴女の事も娘のように思いたいの。クリスティーナさんも、できれば私のことを母だと思って気楽に接してほしいわ。すぐには無理でも、ゆっくり時間をかけてそういう関係になりたいと思っているのよ。」


 ダイアナはクリスティーナと真っ直ぐに目を合わせて言った。彼女が握る手は、とても温かい。


 母親とは、こういうものなのか。


 そう思われるくらいに、クリスティーナの記憶は朧げで、それでいて寂しいものだった。


「ありがとうございます。それでは義母上ははうえ様と呼ばせていただいても宜しいですか?」


 クリスティーナの言葉を聴いたダイアナは、たちまち笑顔の花を咲かせた。


「本当⁉︎良いの?無理してない?」

「はい。義母上様の言う通り、家族になるのでしたら慣れも必要かと思いまして。」

「そう?嬉しいわ!そうよね、慣れるためにはまず行動だものね!じゃあ私もクリスちゃんって呼んで良いかしら?」

「母上、流石に早いんじゃ…。」

「私は構いません。」

「ほら、クリスちゃんも言ってるじゃない!」

「なら良いですけど…。無理しないでくださいね、ウェルズリー嬢。」

「無理などはしていません。」


 終始変わらずポーカーフェイスのクリスティーナ。しかしその瞳はいつもに比べて和らいでいた。

 それを見たルイスはそれ以上何も言わず、優しく微笑んだ。


「よろしくね、クリスちゃん。」

「はい、よろしくお願いします。」


 こうして、クリスティーナはグレンヴィル家の花嫁となる第一歩を踏み出したのである。

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