第5話 暗殺令嬢と“普通”
“夜会”から戻ったクリスティーナは自分の部屋に戻り、仕事道具をアンナに預ける。血に濡れた銀色の刃を見て、彼女はポツリと呟いた。
「普通…ね。」
「お嬢様、どうかなさいましたか?」
「…何でも無いわ。」
クリスティーナはそのまま寝支度を済ませ、自室のベッドに座る。アンナが部屋から出て一人になると、僅かに入る月明かりを頼りに、自らの手をじっと見つめた。
数日後には、婚約者と対面する。何も問題が無ければ、クリスティーナはその相手と婚約し、ゆくゆくは結婚に至るだろう。それが貴族令嬢として生まれた者にとって普通といわれる幸せの形、らしい。
普通じゃない家に生まれた彼女は、普通を知らない。暗殺者として育てられ、幼少から人を殺める手法を教えられてきた彼女には、一般的な幸せなど考えに無かった。
暗殺はウェルズリー家の人間としての責務。故に後悔は無いし、間違っているとも思わない。しかしそう思っている時点で、自分は狂っているのだろう。
子供の時に初めて人を殺めてから、血で汚し続けた手。そんな手で誰かの手を取ることができるのか?彼女には分からない。
しかしどんなに憂いても、彼女が出す結論はいつも一つしか無い。
『命令だから。』ただ、それだけ。
自分は家を動かす道具。そこに意思は必要無い。命令されれば、どんな内容であろうと遂行する。それがクリスティーナ=ウェルズリーという女だった。
彼女は自らに言い聞かせ、一つ息を吐く。
窓の外の月は僅かに欠けながらも、一点の曇りも無く、ただ澄んだ空に輝いていた。
***
一週間が経ち、遂にその日が訪れた。クリスティーナは宣言通りの青いドレスを見に纏い、自室で髪を整えていた。
「よし、完成です!いつにも増して素敵ですよ、お嬢様!」
「なんかアンナの気合いが違うね〜。」
「もちろんです!未来の旦那様となる方にお会いするのですから、完璧でなければ…!」
今日のクリスティーナの髪は編み込みのハーフアップで、アンナの手で綺麗に結われている。いつもは簡素なハーフアップで終わるのだが、それとは違う気合いの入れ方を見て、アランは愉快そうに笑った。
「アラン。当然のようにここに居るけれど、支度は済んだの?」
「そりゃあもちろん。女性ほど支度に時間かからないから。」
いつも通り朝からちょっかいをかけに来たアランも、今日はちゃっかり正装だ。
「将来の兄さんだからね。実家に居るうちに、しっかり見とかないと。姉さんに男の見る目があるとは思えないし。」
「余計なお世話よ。それに、決めるのはお父様だわ。」
「…はいはい。」
笑顔だったアランが、クリスティーナの言葉を聞いて不満げな表情を見せる。クリスティーナも気づいたものの、理由が分からず首を傾げるだけだった。
「さ、行こ〜。そろそろ時間だし。」
「…えぇ。」
再び笑顔を見せるアランだが、明らかにテンションが下がっている。クリスティーナは原因が分からないまま、先を歩く彼について行くのだった。
予定の時間通りに、侯爵家の馬車はウェルズリー邸にやって来た。中からは侯爵と、噂の侯爵子息が降りて来る。クリスティーナはこの時に、初めて婚約相手の姿を見た。
現れたのは、少し赤みがかった長いブロンドを束ねた、細身の青年だった。透き通るような白い肌で、鮮やかな青緑色の瞳が映えている。
世間で美男子と噂されるアランを見慣れているクリスティーナだが、その姿を見て一瞬動きを止めた。
彼女と目が合った相手は、にこりと微笑む。自分が相手を見つめっぱなしになっている事に気づいたクリスティーナは、ぱっ、と目を逸らした。
ちなみに彼女は見惚れていたわけではなく、その身体的特徴を観察していた。見た相手をすぐに目視で分析してしまうのは、暗殺者としての悪い癖である。
「このような所へ御足労いただきありがとうございます、侯爵。」
「いやいや。こちらこそ、急な訪問で申し訳ない。」
「いえとんでもない…。ここに居りますのが娘のクリスティーナと、弟のアランです。」
「どうぞお見知り置きを。」
大人同士の挨拶で始まり、次は軽い自己紹介。クリスティーナのカーテシーを受けた相手も、軽く頭を下げる。
「長男のルイスと申します。お会いできて光栄です。」
その姿は、まるでおとぎ話の王子様。これでよく今まで縁談を断り続けられたものだ。彼を見た令嬢達は、きっと皆魅了されたことだろうに。
「ではお二人とも、どうぞ中へ。」
客人二人は屋敷に入り、クリスティーナ達もついていく。応接間に入ると、いよいよ本題へと移っていく。
「この度は急な話を受けていただき、ありがとうございます。クリスティーナ嬢もさぞ驚かれた事でしょう。」
「いえいえ。幸い物分かりが良い娘でして、特に問題もありませんでした。」
「それはそれは、羨ましい限りですな。何せうちの
「ほう…。何か理由でも?」
「私はまだ未熟者です。身を固めるにはまだ早いかと。」
とは言ってもルイスの年齢は二十一。結婚には十分な時期だ。彼には婚約者が居るわけでもないし、相手だけでも決めようとする侯爵の意も分からなくはない。
「なかなか真面目な方ですな。うちの
「おや。学院の成績が優秀だとの評判ですが?」
「成績は良いですが、真面目とは言えない性格でして。今の休みの間も好き勝手にやっております。」
「ハハハ。若いですなぁ。」
話題が自分に回ってきたアランは、父による小言が始まると思い、小さく咳払いをする。するとハロルドを睨んだ後、満面の笑みでルイスに話しかけた。
「ルイス卿。せっかくですし、姉と二人でお話ししてはどうです?今日は天気も良いですから、庭でお茶など。」
弟からの不意打ちに、クリスティーナは目を見開く。というか会話の途中で唐突にぶっ込んできたアランの度胸に、彼女はとても驚いていた。
「それは良い!クリスティーナ、ご案内を。」
「…承知しました。ルイス卿、どうぞこちらに。」
「はい。ありがとうございます。」
父の言葉に従うも、クリスティーナは他人にバレない程度に小さくため息を吐く。
そんな姉を見るアランは、してやったりといった満足げな笑みを浮かべていた。
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