あまりに辛すぎる現実よ、さようなら
海で遊ぶというのは存外に体力を消費するもので――想像通りかもしれないが。俺はあまり泳ぐために海へ行くことがないので、正直甘く見ていたところはある――、夕日が出てくるどころか、太陽が天頂に到達したころにはへとへとになってしまっていた。
ざざんざざんと波が生み出す落ち着く音、その間で突っ立っている歩く死体。落ち着けるはずがない。死んだら完全なる沈黙と同化する点に着目すれば落ち着けるのかもしれないけども。
潮風に髪を揺らしながらこちらを眺めている他称美少女、
「……いくら何でも体力なさすぎじゃない?」
「多分それは比較対象がおかしい」
「私だけど」
「おかしな対象ランキング一位じゃん」
ゾンビとか体力が滅茶苦茶あるに決まっている。
だって死後も動くくらいだし。
いわんや生前をや。
彼女は不思議そうに首を傾げ、「そう」と口を開いてこちらに歩きよってくる。一見してホラー映画の導入だ。海から侵略してくるリビングデッド。冷静になると何でこんなのと一緒に海に来ているのだろうか。自殺志願者かな。
「じゃあ休みましょう」
「雪花は遊んでていいよ」
「二人で海に来て、一人きりで遊ぶのって虚しくない?」
「それはそう」
どんな凄惨な喧嘩が勃発してしまったのだろうという感じだ。およそこの世のものとは思えない地獄のような空気が漂っているに違いない。
ある程度の大きさはあるものの、高校生二人が同時に入ると心もとないビーチマット。その上に腰を下ろしながら雪花は髪をかきあげた。腐臭が磯の匂いに紛れていて不快感はそこまでない。〝そこまで〟はなかった。つまり多少はある。
「化野」
「ん」
「私ね、今日の朝から思ってたことがあるの」
そう言って彼女はこちらを見やる。
相変わらず双眸には光が宿っていなかった。
何だか今にも襲われそう。
「覚えがない?」
「覚え?」
「そう。何ていうのかしら……デジャヴみたいな」
「デジャヴ」
デジャヴ。日本語にすると既視感。過去に体験、経験したことがないはずなのに、まるで体験したことがあるような感覚に包まれること。俺の平凡な人生を振り返ってみて、歩く死体と海に来た記憶はない。ゆえに既視感などには襲われていなかった。
「ないけど」
「そう……不思議ね」
「たまにあることだよ」
いつか見た夢みたいな感じなのよ。そういえばこんな夢を見たことがある……みたいな、ずっと前の記憶が蘇るような。そんな感覚が朝からしてるの。実際に海に来たことはないから、本当に不思議なんだけど。
と雪花は首を傾げた。
俺も首を傾げて相居飛車の形。
稀によくあることだ。寝ている間は鮮明に目の当たりにしているはずの夢が、起きたら霞のように掻き消えていて、かと思えばちょっとした拍子に尻尾だけを捕まえることができるというのは。
それが俺と一緒に海に来るなんて異常事態極まりない出来事にともなって発生したのは偶然が過ぎるが、絶対にないことではない。
「ねぇ本当に経験ない?」
「ない」
「やけに鮮明なのよね」
「妄想とかじゃない」
「失礼ね。蹴るわよ」
当然のごとく警告とともに放たれた美脚――英国紳士を見習った形容である――は俺の背をしたたかに打ち付け、若干の息を肺から排出させた。
「一応日本では人を傷つけてはいけない、っていう法律があるんだけど」
「知ってるわ。でも決闘を申し込まれたから」
「決闘罪とかも存在するぞ」
「じゃあ愛情表現よ。愛してるわダーリン」
「一昨日来やがれハニー」
一瞬の沈黙。
波の音が二人の間に入り込む。
座り込んでしばらく経ったせいだろうか、どっと疲れが全身から湧き上がってきて、口を開くのも億劫になってしまった。
「……………………」
「……………………」
どうやら雪花も同様の状況に襲われているようだ。元気いっぱいのスカラベのように開閉していた彼女の瞼が、ゾンビのくせに中々長い
夏というからには結構な気温が襲ってくるわけだが、それすらも海から上がったばかりの俺達には心地よかった。水着を着ていているから余計に。まるで快適な温度の湯に浸かっているような気分になる。
「化野……」
「ん……」
「眠いわ……」
「あいしんくそーとぅー……」
「相当眠そうね……」
優しく撹拌されたプリンのように、あまりに眠りを誘う情景に溶かされた脳が、何かを言葉に発するごと、はたまた呼吸をするたびに鼻から出ていくようだ。肩が上下すればするほど瞼が重くなる。砂浜に敷いたビーチマットに体が沈み込む。
「こういうときって眠ってもいいものなのかしら……」
「まぁ……日本だし……」
隣にゾンビはいるが……。
アメリカの映画みたいな状況ではあるが……。
「ちょっと眠すぎるわ……」
「雪山で遭難した人ごっこする……?」
「遊んでる余裕ないの……」
「現在進行中で遊んでるけどね……」
一緒に海に来て、砂浜で寝っ転がっているなど遊んでいるの代名詞である。ただし相手が歩く死体であるという点には目を瞑る。なぜなら途端に「寝っ転がっている」の意味が狂気を持ってしまうからだ。
そうこう意味のないことを考えて眠気を紛らわせようとしていたのだが、やはり三大欲求のうちの一つである睡眠欲は人間が簡単に打ち勝てるものではなく、先に向こうの世界に旅立ってしまったらしい雪花を眺めながら、俺は霞んでいく視界に体を小さくした。
――願わくは悪い人がいませんように。
まぁ、海水浴場で昼寝をするなどよくあることだけど。
多分大丈夫だろう。
何か盗られてまずいものも持っていないし。
平気平気。
おやすみ。
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