少なくとも泳ぎという点においてはサメに軍配が上がる
女は化け物という言葉がある。
すなわち女性は化粧や服装によって物凄く変わるということであるが、俺はこの言葉を目にしたとき、思わず膝を打ってしまったものだ。
なるほど、確かに「女」は「化け物」である。
文字通り。隣で座っている存在とかまさにそう。
日陰になったビーチマットの上に荷物を置いて「さぁ遊ぼう」と、そう言って自分の腕を掴んで波打ち際に連れてきた雪花は、まるで水を怖がる猫のように水を触っていた。
ゾンビと言えばB級映画で、ライバルと言えばサメ。ちょうど現在は海にいるので、童女のごとくしゃがんでいる雪花を観察しながら、「ゾンビとサメはどちらのほうがB級映画の主役に相応しいか」という難問に挑戦した。
答えは出ない。
永遠のライバル。
波は砂浜と海との境界線を曖昧にするように、何度も押し寄せては引き、また押し寄せる。あまりの熱さに履いていたビーチサンダルを脱いだ雪花が、唇を尖らせながらサングラスを外した。
「海の匂いって、ちょっとあれよね」
「そうかな」
「私は山の方の出身だからかもしれないけど……」
何だか不思議っていうか、正直言うと臭くない? と彼女は首を傾げた。俺は子供の頃から海に来ていた――のかはよく覚えていないが、多分来ていたので、そこまで違和感はない。
ラッシュパーカーのポケットにサングラスを入れて、雪花は素足になった指先を開いたり閉めたりして、わずかに入水した体の一部を海水に遊ばせる。
「……ありがとう」
「困りますお客様。当店はお触り厳禁でございます」
「そういうお店じゃないでしょ」
「当店というか当方だね」
ゾンビと触れ合って嬉しいものがいるだろうか、いやいない。倒れ込んできた彼女からは腐臭がした。香り付きの日焼け止めでコーティングされていても、流石に潮風によって正体を暴かれたようだ。
俺は顔にこそ出さないものの、今すぐに叫びだしたいような心地に襲われていた。化け物フェイスが近い。ガチ恋距離の対偶。ガチ冷め距離。冷えるのは感情なのか体なのか気になるところである。
さらりと彼女の体勢をもとに戻して水平線を眺めた。隣から何かもの言いたげな視線を頂戴している気がするが、一切合切を無視して水平線を眺める。
「…………海は広いね」
「よその国に行きたいの?」
「あの曲って作詞をした人も作曲をした人も、海のないところの出身らしいよ」
「それで海の曲が作れるって凄いわね」
本当に。
逆にないほうが素晴らしい曲を作れるのだとしたら、俺が普通の恋愛を求める曲を作ったら素晴らしいものができるのではないだろうか。
ないな。
小さなため息をついて、未だにパーカーを着ている雪花を半眼で眺めた。
「何よ」
「いつまで着ているのかなと」
「あの太陽が核融合をやめるまでかしら」
「百億年くらい待つつもり?」
流石アンデッド。
人間とは時間間隔が根本から違う。
こちらは正常な人間なので帰らせてもらおうかな。
くだらない会話を数分ほど続けたところで、やはり草壁雪花はパーカーを脱ぐつもりはないようだった。しかし彼女から海に誘ってきたということは何らかの目的があったはずである。例えば海水浴だとか、バーベキューだとか。少なくとも後者は準備をしていないのでないとしても、理由はあるはず。
けれども彼女は脱がない――つまり泳ぐ気がないことの意思表示であり、俺は困惑していた。
そんな思考が表情にでも出ていたのか、雪花は恥ずかしそうに顔を伏せたあと、繊細に震える小さな声で言う。
「………………よ」
「え?」
「私……泳げないのよ……」
「えぇ……」
今にも火を噴きそうな――ゾンビだからといって「血を噴きそうな」という表現でないことに留意されたし――色を耳に宿した彼女は、普段は乾燥しすぎて砂漠を思わせる双眸をうるませた。
死体ゆえに血色の悪い体には今ばかりは存分に血が巡っている。ほんのりと赤い頬とうなじ。
……ではなぜ海に誘ったのか?
俺は単純な疑問が喉から出かかっていた。
質問してはいけないことだろうかと数秒考え、別にいいかと口に出す。
「じゃあ何で誘ったの?」
「……お姉ちゃんが水族館に行ったから」
「うん」
「私は海かなって」
「うん?」
「だって化野、魚好きらしいじゃない」
「うーん……」
情報が最初から間違っている点には目を瞑るとして、仮に魚が好きだったとしても海には来ないと思う。もしも魚が好きだから海に行こう、と話が進むのであればそれは九割くらいの確率で釣りだ。間違っても海水浴場には来ない。
「俺が魚好き?」
「お姉ちゃんが言ってたわ」
「まぁ人から言われて初めて気づく特徴ってあるよね」
少なくとも俺は魚を見るために海に来るほど好きではないが。
成績優秀かつ運動神経抜群という評判を聞いていたので、彼女が泳げないとは思っていなかった。ただ日焼けを極度に嫌っているだけかと。というか反応からして海に来たのが初めてだったりするのだろうか。
「その海なし県民を侮蔑するような目をやめて」
「そんな目してた? 後学のためにも自分で確認したいんだけど」
「〝山って珍しいものですよね、まさか三百六十度囲まれてるなんて想像つきませんよ〟みたいな意思が透けて見えるわ」
「逆に気になる」
被害妄想が行き過ぎて、海有り県民を全員殺すタイプの悲しいモンスターになってしまった草壁雪花。しかし島国である日本において海がない県のほうが珍しいので、彼女は数の暴力によって沈んでしまうだろう。R.I.P.
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