あの日の約束を守るために

 父と子と聖霊の御名によってアーメン。

 十字を切る際にはカトリックは左肩、ギリシア正教会では右肩から始める。

 俺は具体的な宗派を持っているわけでもなければキリシタンでもないので、喧伝するように作法を語るのも恥ずかしいのだが、とりあえずは左肩から行くことにした。



 額――父と。

 胸――子と。

 左肩――聖霊の。 

 右肩――御名によって。



「アーメン」

「急にどうしたんですか?」

「祈ったら窮地を救ってくれるかなって」



 不思議そうに首を傾げたSAN値直葬が得意技な美少女系肉塊こと草壁菜々花。彼女に考えていたことをそのまま伝えたら「やっぱり化野さんは変わっていますね」と笑われた。どちらかというと、明らかに肉塊のほうが特異である。こちらは普通の人間であるが、あちらはグラム単位で売っていそう。



「曜くん曜くん」

「ん」

「お外暑ない?」

「ん」



 他称大和撫子の須佐美さんはお淑やかに手を扇いでいた。

 今まで化け物的なムーブを見たことがないが、いつか披露されるのだろうと諦めている。



 彼女は応援部の活動着である学ランから着替え、女子の制服を身に纏っていた。胸元のリボンが揺れる。ついでに体を構成する粒のいくつかが風に舞った。特に光を反射する素材でもなかろうに、夕日に強調されるそれ。



 須佐美さんは常にはんなりとしているが、俺は常にげんなりとしている。

 なぜなら化け物だから。どうして治に居て乱を忘れずが基本なのか。最近日常系の作品が自分にとってファンタジーのように感じられて、いよいよ俺の日常が非日常に移り変わるのも近いと思われる。



「さっきまで涼しゅうとこに居ったさかい、余計に」

「じゃあ解散しようか。熱中症になるといけない」

「まぁそろそろ時間もあれですしね」



 そう言って、菜々花は時間を確認した。 

 革製の細い腕時計だ。本当に時間を確認するためだけの存在。

 何が面白いって何も着ていない肉塊が、腕時計だけを着けているところ。

 怖い。



「楽しゅう時間はすぐに過ぎ去るんやなぁ」

「お疲れ様でしたぁ」

「曜くん帰るん早ぁ」



 完全に気が抜け去った会話をして、俺は二人から離れた。残念なことに菜々花は家の方向が同じだからついてきたが。本当に残念だ。

 須佐美さんに大きく触手を振って、菜々花はこちらに顔を向けてくる。 

 相変わらずの肉貪にくむさぼり益荒男ますらおっぷり。



「もうすぐで夏休みですね」

「気がつけばね」

「夏休み一緒に遊びませんか?」

「ほら、あの勉強とかそこら辺のあれがさ。やっぱり受験もあるし。何かいい感じの大学に合格して、何かいい感じに年収百億になる予定あるし」

「適当な人生設計ですねぇ」



 彼女はぱたぱたと胸元を扇ぐ。



「高校生活で初めての長期休みですか」



 時間が過ぎるのは早いですねぇ、やっぱり楽しかったからでしょうか? と何か意味ありげに視線を――肉塊ゆえにそんなものは付いていないが、ここ四ヶ月の付き合いで読み取れるようになってきた――くれてくる。

 俺は特段口を開くこともなく肩を竦めた。それは自分も時間の経過を早く感じたからかもしれない。まるで化け物との日常が楽しかったと言うようで悔しいから、絶対に何があっても言わないが。



「たくさん思い出ができるといいですね」

「お腹いっぱいだけど」

「まだまだこれからです。まだ二年半もあるんですから」

「二年半もあるのか……」



 おそらく二人の心情は真反対であっただろうが、指し示す思考は同じであった。つまり残りの高校生活に思いを馳せるという。



 家の方向が同じだからといって、まさか通りまでが同じなんてことはない。菜々花とは帰路の途中で別れて一人になった。蝉の声が余計に大きくなったように聞こえる。まったく悲しくないが。



「……………………」



 玄関のドアノブに手を当てて、俺はしばらく目を瞑る。



 掌から伝わってくる熱は脳の働きを促した。じっとりとした暑さが首筋を流れていくのを遠くに感じながら、口元にわずかな笑みを浮かべる。

 想起されていたのは一体何だったか。

 扉を開けたときには忘れてしまっていたが、少なくとも、決して嫌なものではなかった。いいものでもないけれど。



 まぁ、あれだ。

 当人たちに直接言うつもりはない。

 他人に言うつもりもないし、墓まで持っていくつもりだが。



 今の俺の感覚をありきたりな言葉にするとしたら、こうなるだろう。



 ――化け物たちとの日常も、そう悪くはない。



 もちろん見た目に意識を割かなければな。

 割いたら地獄だ。彼岸花が咲く。



 開いた扉の隙間に体を差し込んで、冷房が弱くかかっているのか涼しい空気にため息をつく。自分の頭にはだいぶ焼きが回ってしまったらしい。高校生になる前の自分だったら到底思いも寄らない結論だろう。化け物と過ごしているのに、普通に楽しいだなんて。



 恥ずかしさやら悔しさやらを紛らわすように頭を掻く。

 誰が見ているでもないのに誤魔化すために、何度も何度もため息。

 今でも人間のヒロインの登場は待ち望んでいるが、友達としてなら化け物と過ごすのも悪くはない、かな。



 などと思ってしまっている俺は、きっと端からすれば気でも狂ったのかと判断されるだろうなぁ、と微妙な口の形を作ったのであった。



 ◇



 ――暗い、暗い部屋の中。



 すでにあたりは夜の闇が降りているが、街灯の光すらも窓にかけられたカーテンによって遮られ、何者の視線も拒んでいる。



 その中心に不定形に蠢く黒い影。

 うにょうにょとした触手を揺らめかせ、誰か・・と話すように言葉を空間に放っていた。



「はい、お兄ちゃんは・・・・・・もう大丈夫だと思います。けど、他の人・・・は……」



 現在は丑三つ時。

 人々が寝静まった世界に、闇の住人――あるいは闇そのものが、ぽつぽつと台詞を口ずさむ。



『――――――』

「…………わかりました」



 その闇は話が終わったのか「ぐー」と体を伸ばすと、張っていた気を吐き出すようにため息をついた。

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