夏休み

おーい化野、水族館行こうぜ

 瞼の上に乗せた冷たいタオルを取ると、俺は背もたれに体重をかけていた背中を起こし、じんじんと耳の奥にこもる暑さにため息をついた。現在はすでに終業式も終わり夏休みである。



 あまりの室温に耐えられなくなって冷房こそ付け始めたものの、やはり即座に効果が出るものではない。しばらくは暑さと共生するしかないだろう。



「…………ん」



 そんなこんなでダラダラとしていると、机の上に放置されているスマホが振動。

 連絡をよこしてくる相手に心当たりはない。

 少なくとも人間は。



 体を少し動かすのもだるいし、多分スマホの向こうにいるのも化け物だろうから無視しようか。天使の姿をしたキューピー人形が耳元で「悪魔の誘いに乗ってはいけません」と主張していた。



 ワンコール。

 ツーコール。

 スリーコール。



 じっと椅子に腰を据えて天上を見上げていたのだが、いつまで経っても振動が途切れる気配がない。相手は相当粘り強い方であるようだ。ますます連絡に出たくない。



 俺はゆらりと持ち上げた手を耳に持っていくか、それともスマホに持っていくか悩んで、結局スマホに伸ばした。



「……もしもし」

『あ、化野さん』



 鈴を転がしたような声。

 清涼感に満ち満ちた声である。

 まるで川のせせらぎのような。



 しかし俺は液晶の向こう側に居るのが、伏魔殿の奥の奥から引っ張り出してきたが如き存在であるのを知っている。ゆえに一切感情が昂らない。下がり続けるだけ。



「本日天気晴朗なれども波高し」

『一体どこに攻撃を仕掛けるんですか?』

「画面の向こうの君だぞ、あは」

『うわぁそのキャラ似合ってないですよ』

「知ってる」



 自分で言っていて気持ち悪くなった。

 肉塊を直視したときと同じレベルで。

 もしかしたらそれ以上かも。



 俺は悶えるように背もたれの先端を胸椎に突き刺し、その鈍い痛みで思考の霧を晴らす。スマホ越しに聞こえる声は変わらず明瞭。数カ月分の記憶さえ消せばラブコメをしているようだ。残念なことに記憶はあるからコズミックホラーだが。



『化野さん暇ですか?』

「ちょー忙しい」

『暇みたいですね』

「勝手に読み取ってくるのやめてくれない?」

『私は化野曜検定を持っているので』



 捨ててしまえそんなもの。



 俺は椅子から立ち上がり伸びをした。結構長い間座っていたからか「パチッ」と軽い音が響く。じんわりと血行がよくなったせいで頭が痛んだ。急に重くなった視界に慌てて手をつくと、



「じゃあ宴もたけなわですが」

『始まってすらいませんよ?』

「ここいらで解散ということで」

『かんぱーい』



 完敗である。無理やり話を終わらせようとしたら普通に続いた。コミュニケーション強者なタイプの肉塊。まず通常の肉塊はコミュニケーション不可能であるが。おそらく色違いとかそこら辺なのだろう。1/4096を引くとは運がいいなぁ。



「……要件を聞こうか」

『今は夏休みじゃないですか』

「うん」

『遊びたいじゃないですか?』

「う、ん……?」

『どうして歯切れが悪いんですか』



 アンサー、君が化け物だから。

 


 しかし全日本超絶紳士協会西日本東日本間連合協会国後島支部代表取締役補佐のお茶くみ係をしている俺は、たとえ相手がまともに直視したらSAN値が直葬されてしまうような見た目をしていても、罵詈雑言の類はそっと心のなかに仕舞うことができるのだ。仕舞ったうえで漏れ出た悪意が空気に滲む。



「ほらちょっと方角がさ」

『まだ遊びに行こうって言っただけで、行き先すら伝えていないのですが』

「俺レベルになるとさ、〝わかっちゃう〟んだよね」

『わー格好いい。じゃあ水族館に行きませんか』

「暗いとこ怖いから」

『方角の話どこ行ったんですか』



 菜々花は「ぷんぷん」と自分で言う。

 


「細かいことは気にしない気にしない」

『化野さんはもう少し気にしたほうがいいと思いますよ』

「ケアレスミスの鬼と呼ばれた俺にそんなこと言う?」

『呼ばれてるんですか?』

「ないけど」

『そうですか』



 じゃあ集合は十時、駅前で。と菜々花は電話を切った。通話終了の文字とともに八分三十四秒という文字が表示されている。こちらに本当に用事があったらどうしたのだろう、と思ったが、本当に用事があるやつはあんなくだらない話をしない。多分。



 別に今日の予定はないし、それどころか夏休みの予定もない。

 真っ白カレンダー。ぎりぎりメモ帳に使えそう。

 悲しい。



 だから遊びに誘ってくれるのは嬉しいのだ。これで人間だったら素直に喜んで、勇み立って突撃しただろう。だけど肉塊なんよな。研究室で生まれ育ちましたと言われても信じられるような見た目なのだ。お母さんのお腹から生まれました、と言われるよりも信憑性が高いバグ。



「…………ま、いいか」



 俺はしばらくこねくり回していた思考をあっけなく投棄して、雪花と一緒に出かけたときに買った服に袖を通す。

 未だに〝センスがいい〟と表現される服をこれしか持っていない。それはひとえに自分のセンスが壊滅的であることに所以するのだが、加えて必要がないのも大きい。だって出かけるの大体化け物だし。



 どうして化け物とのお出かけで意気込む必要があろうか、いや意気込む必要はない。



 もはや高校生活は四ヶ月ほど過ぎており、それはすなわち肉塊やらゾンビやらとの生活も四ヶ月が過ぎたということ。人間は適応力が高い生き物。ゆえに俺は化け物耐性が高くなりすぎてしまった。こうして急に決まったお出かけにも抵抗感を感じない程度には。面倒くさいけれども。



 自分の部屋から出るために握ったドアノブは、なぜか物凄く重かった。

 ついでに肩も。

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