怪我とかしてないから
俺がそっと扉を開けると、リビングから顔だけを出してきた妹が走り寄ってきた。
「だ、大丈夫!?」
「大きな怪我はしてないよ」
ちょっと腕が痛むけど、と囁くと心配そうに戸惑う幽霊(または闇)。
彼女はにょろにょろと不定形の体でお玉を持っている。
味噌汁でも作っていたのか、かすかに味噌の破片が香った。
「腕が腫れてるよ」
「特殊メイクしてきたんだ。すぐそこで無料体験やってたから」
「湿布貼るね」
一体どこから取り出したのかわからない湿布を、妹は器用に触手を操って腕に貼ってくれる。ひんやりとした独特の感覚が沁み込む。
闇みたいな幽霊なのか、幽霊みたいな闇なのか。
彼女を見るたびに浮かぶ疑問。解決する気配は一向にない。
両者のどちらの表現が正しいのかは不明であるが、とにかく化け物のたぐいであるので、妹には腕じみた触手がたくさん付いている。
だから同時に複数の作業をこなせるようだ。お玉を持っているのとは別の触手で湿布を貼りながら、少々汚く脱いでしまった靴を別の触手で整えてくれる。
瞼を閉じれば家政婦でもいるみたいな。
まぁ存在するのは血の繋がった妹——いや、繋がっているのか?
頷こうとしたところで、重大な疑問にぶち当たってしまった。
存在の根源的には俺と同じ母親から生まれようとしていたのだから、問題なく実妹に当たるはず。
しかし実際のところ生まれていないので、血は繋がっていない。
けれども目の前にいるわけで。果たして実妹か、はたまた義妹か。
いずれにせよヒロインになりえないから関係ないといえば関係ないのだが、一度気になると止まらなかった。
本人に問いただすのもよろしくないし。そもそも答え知らないだろうし。
事実は永久に闇の中だ……。
「どうして怪我したの?」
「階段から落ちるバイトを募集してて」
「ちなみに時給は?」
「ゼロ」
「詐欺じゃん」
詐欺というか集団自殺の一種だよ。
妹は闇の体をぷんぷんと振るって、全身で怒りをあらわにしていた。
——本日の食卓での話題は「俺の怪我した原因」一色であり、わざとらしく語って逆瀬川さんの印象を悪くしたくなかったので、しきりに追及してくる妹の質問を搔い潜り、痛む右手で里芋の煮っころがしを完食するのには手間取った。
おかげで夜はぐっすり眠れたが。
手軽な入眠方法。化け物を庇って階段から落ちて、化け物の家族に糾弾されながら食事をとろう。
しねぇよ。
◇
「あちゃあ、それは食べにくそうですね」
「流石に左手だとね」
俺の右手にありありと鎮座する湿布。
「どうして湿布を貼ってるんですか?」と肉塊の先端部分を折り曲げる菜々花に、疲れからか、不幸にも階段より落ちてしまったんだと説明した。
彼女はこちらが弁当を食べにくそうにしていることを目ざとく発見すると、やがて何かを思いついたかのように触手を叩き合わせ——ちょうど人間が手を打ち合わせるように——、
「私が食べさせてあげましょうか?」
「うーん」
「あーん」
「まだ結論が出てないから早まらないで」
病院に行って診てもらったら、骨は折れていないと言われた。ところが軽い捻挫のようなものになっているらしいので、できる限り動かさないようにしてくださいと。
食事に関してのみであれば、俺は左手でも何とかできる。
けれども、やはり、習熟している右手とは雲泥の差で……。
しかしそれはクラスメイトに「あーん」をしてもらうのに直結はしない。
というか直結したら困る。菜々花のことが気になっている生徒には、あえて階段から落ちる一大ブームが発生してしまうだろう。きっと。
そして朝刊の見出しは、
『狂気! 大量の自殺者を出した学校、その原因に迫る!』で、
「原因ですか? やはり化野曜ですよね。美少女と名高い草壁菜々花さんが、彼の右腕が使いづらいということで、お弁当を食べさせてあげてたんですよ。それでみんな羨ましくなって階段から落ちたんじゃないですかね」となる。
俺の家には数えきれないほどの迷惑電話が来て、心身を削り切るには過剰なほどの張り紙が自宅にトッピング。
菜々花から「あーん」をされたが最後、最期になってしまうのだ。
「まだ死にたくないから遠慮しとく」
「どういうことですか!?」
彼女は驚愕したように触手を伸ばした。
猫が驚いたときに尻尾を伸ばすのと同じ原理だろうか。
肉塊は不思議な生態をしているものである。
単純に肉塊から「あーん」をされたくないがために適当に考えた最悪の未来だったが、異性から何かを食べさせてもらうという初めての青春イベントを化け物に捧げるのとだったら、どちらがより一層ダメージが大きいのだろう。
悩ましいなぁ。
菜々花のとんでもない発言により、クラスの三分の二程度の視線を受けているようだった。残りの三分の一は耳だけをこちらに向けている。
つまるところ教室中の興味関心の的であり、下手な受け答えをすると銃撃の的になる。あとに残るのは穴だらけになった自分だけだ。
しかし爛々と謎の液体を輝かせている菜々花を否定しても角が立ちそうだし、もしかすると俺に退路はないのかもしれない。
「はい、あーん」
「勘弁してくれない?」
「どうしてですか?」
「また難しいことを聞くね」
どうやって説明すればいいのか。
肉塊だから……殺される。
恥ずかしいから……肉塊に欲情する変態だと勘違いされる。
ちょ、俺とお前はそんな関係じゃねぇーよ……勘違いした男の末路みたいな発言である。羞恥心で死ぬ。
結論。
回避方法なし。
ゲームセット。
対戦ありがとうございました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます