大丈夫って何回言ったと思う?

 ものすごい勢いで世界が回る。

 全身を打ち付ける衝撃には、もはや痛みがなく。

 腕の中で逆瀬川さんが呻いているのを、どこか冷静な自分が遠くから眺めていた。



 歩道橋の三十段というのは普通に上る分には問題ないかもしれないが、転がり落ちるとなると長すぎるわけで。

 転がり落ちるのに最適な長さが存在するのかなど知らないけれど、とにかく三十段は長すぎた。



 だから勢いよく地面に叩きつけられたときには、骨が折れているかどうかを心配する気持ちよりも、階段の段数を制限する法律を制定できないものかと考えていた。

 仮に自分が総理大臣になれたらその法を提案しよう。

 別に総理大臣というか内閣が立法権を持つわけではないが、通る確率が高いらしいから。



「痛ったぁ……」



 そんなくだらないことを考えていないと叫んでしまいそうだった。

 心配そうに「大丈夫ですか!?」と揺すってくる逆瀬川さんに、ゆるい笑みを返す。



「大丈夫大丈夫、実はスタントマンの練習をしてて」

「……本当ですか?」

「嘘だけど」

「駄目じゃないですか!」



「死なないでください―!」と泣き声。 

 何だか気が抜けてしまって、俺は腹の底から息を漏らした。

 おそらく骨は折れていないのだが脇腹が痛い。



「よいしょ」



 震える足を叱咤しつつ起立する。

 反射的に駆け寄ってきたと見える逆瀬川さんに手を向け、



「大丈夫だから」

「また嘘ですか?」

「今度は本当」



 服の土汚れを払う。

 言い忘れていたが、もちろん俺も制服ではなく、雪花とのお出かけで購入した「それなりに見える服」だ。

 ゆえに早々のうちに着られなくなられると困る。

 


 心配そうに手を差し出してくる逆瀬川さんには申し訳ないが、ジガバチというからには相応に脚が細いわけで、まともに力の入らない俺が体重をかけようものなら、すぐさま折れてしまう気がする。



 だから身振りだけで断ると背筋を伸ばす。

 鋭い光が背骨から頭にかけて走った。

 しかし骨折をしている感じではない。



「……あの、せめて家まではお送りします」



 いや先に病院に行ったほうがいいですかね。

 彼女は感情の読み取れない虫の顔だというのに、そこら辺の人間よりも表情豊かにオロオロする。



「大丈夫、大丈夫」

「流石に嘘ですよね?」

「本当」

「だって階段から転げ落ちたんですよ? しかも私を抱いて」

「逆瀬川さん凄く軽いから」



 いや本当に。

 嘘偽りなく。

 


 彼女の体は見た目ほどの質量を持っていなかった。

 やはり虫というのは比重が軽いものらしい。

 多分、一人で落ちようが逆瀬川さんと落ちようが、どちらも結果が変わらない気がする。



「――ああもう! じゃあ肩くらい貸しますから」

「……それだったら」



 折れる心配はないだろう。

 今度はありがたく享受することにした。



 悲しいことに高校生になってから化け物に慣れてしまって。

 こうやってジガバチに肩を貸してもらっていても、恐怖はあまり感じなかった。

 感じるのが正常な人間だとはわかっていても。



「…………化野くん」

「ん」

「ありがとうございます」



 詳細な説明はなかったが、何を言いたいのか今までの流れから予想できた。

 ちらりと視線を向けると彼女は恥ずかしそうに触覚を震わす。

 制服越しに感じる逆瀬川さんの肌――肌と表現するか外骨格と表現するか迷った――からは不思議な温度が伝わってきて、決して人間ではないのだが、虫とも断言できない。



「どういたしまして?」

「何で疑問形なんですか?」

「うーん」



 献身をしようと思って献身をしたわけではないからである。

 彼女が足を滑らせたのを認識したら勝手に体が動いていた。

 だから感謝されても的を射ていないような。



 しかし客観的に見れば俺が逆瀬川さんを助けたのは事実であり、大人しく感謝の言葉を受け取るべきなのだろう。

 


 腕を組みながら歩いているせいで、街行く人に勘違いでもされたのか、非常に生暖かい目を向けられながら帰路を進んでいく。

 彼女もそれほど親しくない男とくっつくのは嫌だろうに、文句も言わず、むしろ積極的に「大丈夫ですか」「病院行ってくださいね」と身を寄せてきた。

 昆虫類特有のひんやりとした肌触りのいい外骨格が頬に付着しているのでやめてほしい。なぜか癖になりそう。



 恐ろしいことに俺の心の大事な何かが破壊されそうになったところで、十五年と少しを過ごしてきた自分の家が見えてきた。

 流石に命の危機が訪れたこともあり、気付いていなかっただけで心労が凄かったようで。

 思わず全身から力が抜けてしまい、慌てた様子の逆瀬川さんが力を強める。



「あの、もしかしなくても大丈夫じゃなくないですか?」

「大丈夫」

「絶対駄目なやつですよね」



 必ず病院に行ってくださいよ! 自覚症状がなくても骨が折れてるってことはよくあるんですから! と彼女が怒るのを鍛え上げたスルースキルで聞き流しつつ、さも反省しているかのように頷いた。



 結局、玄関まで送ってもらい、俺の荷物まで持たせてしまった逆瀬川さんと別れる。



「ありがとう、逆瀬川さん。このお礼は必ず」

「どうして私が感謝される側なんですか? 逆でしょう」



 と彼女は笑い、相変わらず重たそうな鈍器が入ったエコバックを片手に下げ、夕日の中で腕を振った。



「それでは曜くん・・・! また学校で会いましょう!」

「うん、じゃあね」



 ぱたりと扉を閉めたところで、ふと疑問。



「…………逆瀬川さんって、俺のこと名前で呼んでたっけ?」



 うーん。

 まぁいいか。

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