私は薄っぺらなクソ女
ずっと傍にいることが当たり前の、家族の様な関係だと、思っていた。
実際、今では珍しい、家族ぐるみの付き合いというものもあったし……
物心ついたころから、私とその人は、何をするにもずっと一緒だったから。
小学生の頃は、よく、引っ込み思案だった私の手を引っ張って
あちこち連れまわしてくれたっけ。
近所の公園では、一緒によく遊んだ。
滑り台とかジャングルジムとか、砂場とか。
よく泥だらけになるまで遊んで叱られて……
次の日には懲りずにまた一緒に遊びに出かけて。
少ないお小遣いを握りしめて、おばあさんがやってた
駄菓子屋さんで、買ったお菓子を一口食べて、とりかえっこしたりもした。
今は無くなってしまった駅前の本屋に一緒に行って
私がすぐに欲しかった本を一緒に探して貰ったりもしたっけ。
結局見つからなくって、店員さんに取り寄せますかって聞かれて、頼んでくれて。
家に帰って、お母さんに、通販で頼んだ方が早いんじゃないのって言われて
それ早く言ってよって馬鹿みたいに一緒に笑ったりしたっけ。
それから、お互いに買った漫画を回し読みしたりして……
あのころは、そんな、何でもない毎日が、楽しかった。
中学に上がってからは、一緒にいるとからかわれることや
茶化されることが多くなってきた。
まあ、小学生の時も、そういうことはあったのだけれど……
恥ずかしがることはあっても、どんな時でもずっと一緒にいてくれた。
普通は、異性の幼馴染って、年を重ねるごとにだんだん疎遠に
なって行ったりするものらしいけど……
私達に限っては、そんなことはなかった。
そのうち、高校受験、というものを意識する年になって
一緒に駅前の学習塾に通うようになって……
偶に、行き帰りの小腹が空いた時に、駅に入っていたバーガーショップで
ハンバーガーを食べたりしていた。
お小遣いが足りないとき、おごってくれたこともあったかな?
その時食べた味は、唯のジャンクフードの筈なのに、今でも忘れられないくらい
美味しく感じられたのを覚えている。
お互い志望校は、当然のように一緒。
結構、レベルの高い進学校だったのだけど……
お互いに、机に噛り付くように頑張ったおかげか、揃って合格することができた。
今思えば、あの人は……私の志望校に合わせたくて、頑張ってたんだと思う。
そんな長く続いた関係も……ある日、あっさりと終わりを迎えた。
他でもない、私自身のせいで。
◇
「おはよう七海、ねえ、聞いた聞いた?」
「おはよう諒子さん……一体、今日はどうしたの?」
朝のHR前の教室、ある程度時間に余裕をもって登校してきた私に
クラスでも一際噂話が好きで、おしゃべりな女の子の友達……軽井諒子さんが話しかけてくる。
よほど話がしたくてうずうずしているのか、目を爛々と輝かせている。
何だろう、よっぽど面白い話題でも仕入れて来たのだろうか。
「いやね、あたしもさっき知ったばっかりなんだけど――
葛谷先輩、六股もしてたんだって!
しかもヤリ捨てとか含めたら、もう数えきれないくらいになるんだって!
ひっどいよねー!
おまけに付き合ってた本命の女の子にそれがばれて、もう無茶苦茶ボロクソ言われてフラれたらしいよ!」
―――え?
一瞬、言われた内容の理解が、追いつかなかった。
言葉も無く、呆然とする私の反応を、意外な話題に驚いているものと
解釈したのだろうか。
先輩にはあたしも憧れてたから……正直幻滅だなー、と目の前の彼女はぼやいた後、べらべらと喋りつづける。
そうだ。葛谷康介先輩。二年生のサッカー部のエースで、学業においても
上位レベル……まさに、文武両道。
しかもそれを鼻にかけることなく、誰にでも誠実で、優しい。
学校内でも主に、女子から莫大な人気を集めている、憧れの素敵な先輩。
それが、葛谷先輩の、皆からの評価だったはずだ。
私は、彼の傍にいて、それを誰よりよく知っている……
と、思っていた筈なのに……嘘、一体、何で?
それに、彼女に振られたって、どういうこと?だって、葛谷先輩は、私と。
その疑問の答え……諒子さんの話の内容を大まかに纏めると、こうなる。
葛谷先輩の本命の彼女は……これまた、二年生で、学内でも才色兼備の有名人。
とはいえ、彼と交際関係にある事を知る人間は、今回の件まで
あまりいなかったようだが。
ある日、彼女の家のポストに、匿名での封筒が投函されていた。
それは、葛谷先輩の不義を告発する為の知らせ。
手始めに、現在進行形で手を出している他校の女子生徒と、ラブホテルに
入っていくところを撮影した写真と動画四人分。
更には、過去弄ぶだけ弄んで、ヤリ捨てた、手遅れになるところまで
堕ちてしまった女の子への……
いい加減な避妊や、ハメ撮り、口にするのも憚られるような所業など……
かなり細かく、生々しく記された調査された結果が、証拠を添えた上で同封されていた。
ただ、最初の四人に関しては、写真にも動画にも
女の子の方にはモザイクがかかっており
相手までは特定できなかったそうだが……
葛谷先輩の本性を知る、というだけなら、十分なものだったらしい。
中身を改めた彼女は、激情のまま葛谷先輩を問い詰めるために
彼の家にまで押しかけて行った。
そこでも、さらに信じられないものを目にすることになった。
丁度、親が留守だった家に、新しい女を連れ込もうしたところに
偶然出くわしてしまったらしいのだ。
彼女の頭からは、事の真偽を改めよう、とか……
そんな考えも全部吹き飛んで、彼を怒りのままに罵倒して、関係を清算した。
少なくとも、彼女はそれで終わらせたつもりだった、らしい。
もう、考えるのも嫌になったのだと。
ただ……葛谷先輩にとっては、本命の彼女、というだけあって
執着の対象ではあったようだ。
翌日、学校に登校してきた彼女を相手に
教室で『誤解を解きたいから、二人で話ができないか』と持ち掛けたそうだ。
告発が正しいとするならば、幾人もの女の子を、落としてきた実績のある男だ。
それも合わせて、自身にはそれだけの魅力があると――
機会さえ作れれば、説き伏せる自信があったのかもしれない。
葛谷先輩にとっての誤算は三つ。
一つは……彼女は、その手の不義理を行う男が、本当に……
大嫌いだったという事。
二つ目は、彼女が彼と付き合い始めてから
少し経ったころに、彼が信用できない男だと
忠告してくれた中学時代からの親友の少女と、それが原因で大喧嘩になった結果
絶縁状態となってしまっており、それを今でも気に病んでいた事。
三つ目は、アクシデントにより感情を暴発させて
一方的に別れを突き付ける形となったせいで、彼女が告発を受けて
今までの彼が行った不義を、既知のものとしていた事を
知る機会がなかったという事。
そうして……今度こそ本当に、彼女は、心の底から怒り狂って……ブチ切れた。
告発された内容も含めて、ここまでの経緯の全てを……
クラスメイトの目があるにもかかわらず、盛大にぶちまけた上で
『顔を見るだけで、反吐が出そうだ。もう二度と自分には関わるな』
と、葛谷先輩にはっきりと突き付けたのだ。
そして……それ受けての反応も、拙かった。
あらゆる意味で、彼女のそれは、想定外の反応だったのだろう。
呆然と……おそらくは、無意識のうちに、こう口にしてしまったそうだ。
『嘘だろ……誰が、どうやってそんなことまで調べて―――』
少し間をおいて、周りの反応から
自分が何を言ってしまったのか、気付いたのだろう。
慌てて取り繕ったが……もう遅かった。
彼女と、それを見ていたクラスメイトの中で……
匿名の誰かに告発された内容は、事実だと、確信が出来てしまったのだ。
その話は人伝いに、それをまた聞きして、或いはそのつもりはなくとも
近くでの会話を盗み聞いてしまったた誰かから、更にはグルチャで……
あっという間に、その日のうちに、二年生の殆どに……
そして、他の学年の一部にも、広がって伝わってしまった。
「――って感じの事が、昨日あったんだって!
でね!あたしも丁度さっき、聞いたんだけどね。
葛谷先輩、今日学校休んでるみたいだけど……
もう二年生の間じゃ、クラスでも部活でも、ろくに相手にされてないみたい。
今日中には他の学年にも、完全に話が回るだろうし……
学校に居場所、無くなるんじゃないかな。
実際にどうなるかは、わかんないけど……
話が話だし、停学か、ひょっとしたら退学になるかもだけど」
「そう……なんだ」
若干、諒子さんの主観でいくらか脚色や誇張はされてはいるのだろうけど……
語られた内容に、愕然とする。
信じたくはないけど……辻褄が、合ってしまう。
道理で、一昨日あたりから葛谷先輩にメッセージを送っても
全く反応がないわけだ。
「後でグルチャとか見てみなよ、本当に今凄いから。その話題で持ちきりだし。
特に男子からは、今までの妬み嫉みとかも
あるんだろうけど、軒並み叩かれてるよ。
女子は女子で手のひら返してボロクソだし、皆、怖いよねー」
「そう、だね……」
たった一日で、学内における葛谷先輩の……いや、葛谷の評価は逆転した。
しかも、考えられうる限り最悪な形でだ。
……正直、皆の気持ちは、よくわかる。
私自身、葛谷に抱いていた幻想が、話を聞いている間
心の中で音を立ててガラガラと崩れていくのを感じていたから。
「あ、さっきの話で、葛谷先輩の相手、一人足りなくないか、って思わなかった?
ヤリ捨てられたって子は置いておいても、他校の子が四人で
本命が一人で六股だと計算が合わないって。
……実はさ、うちの学校の一年生からも、手を出されかけてた
子がいたらしいんだよね。
誰かまでは、伏せられてたみたいだけど……
カワイソーだよね、その娘。
正直あたしでも目をつけられたら、多分引っかかってたと思うし
ご愁傷様って感じ」
「………」
知っている。だってそれは……きっと……私の、事だからだ。
今更ながら……恋人のつもりだったけど、単に遊ばれていただけだったんだ
という実感が、湧き上がってくる。
数か月の付き合いで築いてきたと思ったものは
結局、唯の薄っぺらい憧れの上で成り立つものでしかなかったのだろう。
葛谷と過ごした楽しいと思っていた時間の全てが
今となっては悪夢の類にしか思えなくなってくる。
冷静になって考えてみれば、可笑しな事も多かった。
交際していることを、表立っては出さないように
できるだけ隠して欲しいとか……
当時、お花畑だった私は、大した疑問も抱かずに言い包められて……
葛谷とこっそり付き合っている、ということに、一種の優越感すら
感じていたのだから、救いようがない。
誠実だと思っていた態度も、結局、ほかに欲望の捌け口を持っていたから。
獲物を逃がさないために、焦らず時間をかけて相手を篭絡していた
と言うだけに過ぎなかったのだろう。
実際、私は見事にその手口に嵌り込んでいた。
もし、誰がしかの告発が無かったら、近いうちに……
私は、葛谷に、抱かれて……最終的には、飽きて捨てられて
手遅れになった娘達みたいな末路を迎えていたと思う。
ただ、それを素直に、運が良かったと喜べない。
心にぽっかりと穴があいたような……空しさだけがある。
『七海、お前が最近仲良くしてるらしい先輩なんだけど……
あんまり、関わらないほうがいいんじゃないか』
――あれ……これ、シュウ、ちゃん?
その時、唐突に脳裏に蘇る、幼馴染……
反尾修二から告げられた、いつぞやの忠告の言葉。
ああ、そうだった……いつもいつも、こんなとき
昔から、私の手を引いて助けてくれたのは……彼だった。
だから、今回だって、最初から……何度も、何度も……言ってくれてたのに。
新しい出会いに浮ついていた当時の私は……
怒りさえ見せてその忠告を否定してしまった。
あまつさえ、あんな奴と、当てつけの様に、嬉しそうに、付き合うって……
縁を切られて、当たり前だ。
あの時の言葉は、正しかった。シュウちゃんが最初から、全部正しかった。
関わるべきじゃなかったんだ、あんな奴と。
私にとって一番大事なものは……
シュウちゃんと過ごしていた、何でもない日常の時間だったんだ。
いつも傍にいてくれるのが、当たり前だと思っていたから……気付かなかった。
私はそれを……鍍金を施されたガラクタの輝きに
目がくらんで、自分から捨ててしまった。
何で……こんな事に、なっているんだろう。
何で、私は間違えたんだろう。
ぐるぐると頭の中で、答えの出ない疑問が巡り続けて……気が遠くなりそうで。
誰か……誰か、助けて欲しい。
あの時、シュウちゃんの手を振り払ってしまった私に、そんなものを
求める資格は、ないのかもしれないけれど。
私は、一体、これからどうすれば――
「――っと!ちょっと七海!大丈夫!?」
「……え?」
心配そうな様子で、こちらに乗り出して覗き込んでくる、諒子さんの声により
今更湧き上がってきた後悔で、暴走する思考に
埋没していた意識が現実に戻ってくる。
ああ、そうだ、そうだった。諒子さんと……
葛谷の奴がどうなったか、って話を、していたんだっけ。
正直……頭の中が、後悔と混乱でぐちゃぐちゃのままだけど。
これから、どうすればいいか……ちゃんと、考えないと。
とりあえず、サッカー部のマネージャーは、辞めよう。
あいつに関わる事は……もう、忘れたい。
「もう、急にボーっとして……大丈夫、具合悪いの?」
「ううん、そういうのじゃなくて、その……」
喉から出かかった、シュウちゃんに謝るにはどうすればいいのか
という言葉を、かろうじて飲み込む。
これは、私一人で……やらないといけないんだ。
ちゃんと謝れば……きっと昔みたいに、仕方ねえなって
苦笑いで許してくれるんだ。
それでまた、元通りだ。
大丈夫、ギリギリだけど、堕ちる前に踏みとどまれたんだし……
まだ引き返せる、やり直せる。
だって、私達……子供のころから、ずっと一緒だったんだから。
気が付けば、もう朝のHRが始まる時間になっていたらしい。
諒子さんは、やば、と慌てて彼女の席へと戻り……
私も自分の席にある椅子に座る。
教室の扉を開ける音と共に、担任の先生が入ってきた。
教壇に着いてから、いつものように出席を取り始めた
声を聞きながら、窓の外を見やる。
意識して視線を逸らしておかないと……
どうしても、教室の隅の座席に座っている
シュウちゃんに目を向けてしまいそうだったからだ。
彼と向き合おうと決めた筈なのに……
視線が合うかもしれないのが、ただ怖かった。
◇
確か……何処に入部するかを決める為の、部活動の見学の時だったろうか。
あれと、始めて出会ったのは。
サッカー部で活躍する葛谷の姿に目を奪われていた私に、あいつは、少し人気のない場所で話しかけて来た。
今思えば、鴨が葱を背負ってやってきたようなものだったのだろう。
何も言われたかは……正直、よく覚えていない。
確か、歯の浮くような言葉で、自分の事を助けて欲しいとか言っていたような気がする。
当時、頭がお花畑だった私は、それに惹かれて、サッカー部のマネージャーとして入部することを決めてしまった。
それが……そもそもの間違いの、始まりだったのだろう。
マネージャーの仕事は、思っていたよりも、遥かにきついものだった。
漫画やアニメでよく見るような、華やかなイメージとは裏腹に、休みが少なく、部員に辛く当たられることも多い。
覚えなければいけない事も多かったし、仕事はやって当たり前、余り感謝されることもない。
先輩の女子マネージャーからは、嫉妬のようなものをぶつけられたこともある。
私は、中学までシュウちゃんといつも一緒にいたから、多少の慣れはあったけど……
男の人の、嫌な部分を見ることも多かった。
……だから、だろうか。
陰で、優しくこちらの仕事を労うような態度をとる、葛谷の奴に、私は絆されていった。
やがて、部活に関係のない時でも、あいつと親し気に言葉を交わすようになるまで、そう時間はかからなかった。
更に偶の休日に、遊びに誘われて、それを受けてしまうようになるまでは、もっと早かった。
……今となっては、記憶から消し去りたい、忌まわしい思い出でしかないけれど。
そもそもが部活に私を誘ったのが、葛谷なのだから……冷静になって考えれば、呆れたマッチポンプだ。
このころになると、忙しさからシュウちゃんと
関わる時間は殆どなくなっていて、受けた忠告も右から左へと聞き流していた。
偶に顔を合わせるたびに繰り返されるそれに、思わず……
『シュウちゃんには関係ないでしょ!』
と怒鳴り散らしてしまったことは……正直、思い出すのが苦痛だ。
やがて、すっかり葛谷のやつに絆されてしまった私は……
気が付けば、あいつから告白されてそれを、受けていた。
そして、私は、その流れでシュウちゃんに……
私が、あいつの告白を受けた、と告げた時、シュウちゃんから表情が抜け落ちて……
こちらに対する一切の興味を失ったような、冷たい眼差しで、縁を切ることを告げて来たときの事は、多分、この先ずっと忘れることはできないだろう。
そして、その事に対して、今更後悔している……自分の馬鹿さ加減も。
◇
午前の授業が終わり、昼休みの時間に入り、大きく深呼吸して
覚悟を決めると、シュウちゃんに声をかけようと席を立ったのだけど……
同じく席を立っていた、向かい合う形で出くわした彼に声をかけようとして……背筋が、凍り付いた。
視界に私が入っている筈なのに、こちらを全く見ていない。
いや、正確に言えば……見てはいるのだけど、路傍の石ころを眺めるかのような、無感動なものだ。
こんな目で、シュウちゃんから見られたことは、今まで一度もなかった。
葛谷の奴に告白されたことを告げた時でさえ、もう少し表情に熱があった気がする。
心のどこかで、たかが数か月離れていただけ、と思っていたのではないかと、自分の愚かしさが嫌になってくる。
おそらく、取り返しのつかないかもしれないレベルで……
私に向けていた感情の全てが、冷え切っているのではないかと、思えるほどだ。
いや、実際……そうなっていたって、おかしくないんだ。
固まっていた私を特に気に留めることもなく、その場に置いて
一言さえ発することないまま、さっさとシュウちゃんはその場を去ってしまった。
あ、と思わず、遠ざかっていく背中に手を伸ばしたけど……そんなものに、何の意味もなかった。
彼は、私と葛谷が付き合っていた事を知っている、数少ない人間だし
昨日の騒動を受けて、嫌味の一つくらいは言われるのではないかと覚悟はしていたのだ。
だけど……葛谷の本性が知れ渡った事で、より深く、失望される可能性だって当然、あったんだ。
何かしら、悪感情にせよ、こちらに何かを向けてくれるであれば、そちらの方がまだマシなのだと……
自分の考えが、どこまでも甘いものであった事を、思い知らされた。
「……あれ、七海、どうしたの?酷い顔、してるけど」
「ごめん……なんでも、ない」
絶望したまま立ち尽くす私を、クラスメイトの一人が気遣ってはくれたが……
それに愛想よく返すだけの余裕は、今の私にはなかった。
結局、何処までも私は甘ったれで……どうしようもなく、薄っぺらい女なのだと、再び自覚させられただけだった。
こんな時に、いつも助けてくれていたあの人を……私は、裏切って、あそこまで傷つけてしまったのだ。
……どうすればいいのだろう、どうしたらいいのだろう。
私の胸中の問いかけに、答えをくれる誰かは、そこにはいなかった。いる筈も、なかった。
◇
それから一月の間……私は結局、何の進展もないまま、無為に過ごすことになり……
藁にも縋る思いで、クラスの友人たちに、全てを打ち明け相談した。
笑いものにされるかもしれないと思った。軽蔑されるかもしれないと思った。
けどそれ以上に、今の状況がこれ以上続くことに、私は耐えられなかった。
自分が楽になりたいだけだと言われれば……否定はできないと思う。
「気にすんなよ、悪いのは葛谷のやつじゃん」
「そうそう、七海は騙されてただけなんだし、気にすることないって!」
「ごめん、その、皆……ありがとう。
……それで、シュウちゃんに、ちゃんと謝りたいんだけど、私、もう、どうしたらいいか……」
葛谷の仕出かした事が、あまりにもろくでもなかったせいか、私を責める声は、殆どなかった。
むしろ、私の事を被害者として扱ってくれて、温かい言葉を、かけてくれた。
それでも若干、言葉は無くても、一部から冷ややかな視線を感じるけれど……それは、仕方がない事だと思う。
私は……シュウちゃんに、それだけの事を、したんだから。
「でもさ、別に長谷川が、反尾に謝る必要なんてなくね?
悪い事なんて何もしてないんだから」
クラスのムードメーカーの男子生徒……空木君が、私に向けて、笑顔で……え?
「何だったら、私が七海の代わりに、反尾君に言ってあげるよ。
男のくせにいつまでも細かい事でうじうじしてるな、ってさ!
幼馴染ってだけで、別に付き合ってたわけじゃ訳じゃないんだよね?
だったら何も悪い事なんてしてないじゃん」
ハキハキとした快活さが魅力の、ショートヘアの女子生徒……赤村さんが続いてくる。
待って、本当に、待って。私は、そんなことをして欲しいんじゃない。
「二人とも落ち着きなって……喧嘩腰になってもしょうがないでしょ。
要は反尾君と仲直りしたうえで、付き合いたいんだよね。
大丈夫だって、こっちの方で上手くフォローはするからさ。
悪い事はしてないんだし、堂々としていればいいんだよ」
シュウちゃんと、付き合う。
……それができたら、どんなにいいだろうか。
比較的、柔らかな物腰の……日和さんの提案にだけは、一瞬心を揺さぶられてしまい、自分の浅ましさにうんざりしてしまった。
でも、きっと駄目だ。
それをやったら、今以上に取り返しがつかなくなると……あの冷え切った表情を見た後では、わかってしまう。
「……ううん、やっぱり、自分で何とかするよ。
だから、ごめんなさい。気持ちだけ受け取っておくね。
それと、みんなも……相談に乗ってくれて、本当にありがとう。
おかげで、幾らか気持ちが楽になったよ」
私は、いつも通りの笑顔を作って、極力内心を悟られないように……友人たちにお礼の言葉を言った。
相談に乗ってもらって、感謝しているのは、嘘ではない。
けれど、正直な所、沈んだ気持ちが楽になる事は、全くと言っていいほどなかった。
やはり、この件だけは、他の誰にも……頼ることはできないんだ。
……いや……そうだ、一人だけ、いた。
私と、シュウちゃんの両方を、子供のころからよく知っていて……相談に、乗ってくれそうな人が。
出来れば、知られたくなかったという事もあるけれど……
もう、そんなことを言っている段階では、ないのかもしれない。
◇
「……とりあえず……あんたが、無事で済んで、よかったわ。
もう、高校生なんだから、誰と付き合おうが口をはさむ気はなかったけど……
その結果がこれなんだから、言わせてもらうわ。
次からは、安直に顔がどうとか、スペックがどうとかで判断せずに、きちんと相手の事を見なさい。
外面を取り繕って、甘い顔をして寄ってくる、悪い奴なんて……世の中には、いくらでもいるんだから。
あんたくらいの年なら、特にね。流石に、身に染みたでしょうけど」
「……ごめん、なさい」
私の話を全て聞き終えて、深くため息をついた後……お母さんが口にした第一声が、それだった。
やはり葛谷と付き合っていた、この数か月……心配をかけてしまっていたのだろう。
申し訳なさと情けなさで……胸が一杯になってしまう。
私に謝っても仕方がないでしょう、と返して……お母さんの方から、本題を切り出してきた。
「でも、修二君の事は……もう、諦めなさい。
私も、子供のころから、見て来たし、正直本当に残念だと思っているけど……
話を聞いた限りだと……ほとんど、どうにもならないわ。嫌われるのも、当たり前。
いくら謝ったところで、多分届かない」
「……え、でも、でも!」
縋りつくような私の希望は、お母さんからはあっさりと否定された。
この人の前では、取り繕う意味もない。
みっともなく駄々をこねるように、それでも、と口にしてしまう。
「勘違いしないで欲しいのだけど……あんたの友人がいうような、悪い悪くないの話はしていないのよ。
だって……結局これは、感情の問題だから。
正しいとか、正しくないとかをいくら言っても、意味はないの」
「感情の、問題……?」
ええ、と鸚鵡返しに返してしまった私の言葉に、お母さんは頷いて、言葉を続ける。
「だって七海、あんた……結局のところ、自分の意思と選択で……一度は別の男に靡いたのでしょう。
子供のころから積み重ねて来た、信用も信頼も思い出も……一緒に過ごした時間よりも、そっちがいいと、あんた自身で選んだ。
少なくとも、修二君はそう判断して……きっと多分、馬鹿馬鹿しくなっちゃったのね。
あんたについて、何かを思い煩うこと、そのものが。
そこに小手先の理屈を振り回したところで、感情を……心を、動かせるわけがないの」
「ち、ちが、違うよ、お母さん、わた、私は、そんな……!」
視界が、目から滲み出た涙で、歪む。
必死になって言い募ろうとした私の言葉を遮って、お母さんは、静かに首を振って見せた。
「いいえ、違わない。少なくとも……そこから逃げているうちは……絶対に、無理よ。
七海。あんた、本当は、修二君に謝るだけじゃなくて、やり直したいんでしょう。
でもそれは、きっかけはどうあれ、あんた自身の手で、壊してしまったものなの。
どうしても諦められないのなら、それを認めた上で、一からまた、積み上げていくしかない。
修二君が、そもそも、それを受け入れてくれるかさえ、わからないけどね。
それと……一応言っておくけど、私から修二君に、何かを言ったとしても、逆効果にしかならないわ」
言葉が、出ない。何も、返せない。……ああ、そっか。
心のどこかで……お母さんなら、今からでも、シュウちゃんと私の事を取り持ってくれるんじゃないかって、期待していたんだ。
その甘えを、容赦なく切り捨てて……そこにある現実を突き付けて来た、それだけなんだ。
全部、見透かされていた。当たり前か。
この人は……ずっと、私と、シュウちゃんとの事を、見て来たんだから。
「母親として言わせてもらうなら……半端な覚悟で出来る事ではないし、決して勧められないけど。
少なくとも、高校生にもなって、自分で起こした結果の責任も負えずに、親に泣きつくままなら、無理よ。
今回の事を教訓にした上で、新しい出会いに期待したほうがいいと思うわ。
こう言ってはなんだけど……世間では、よくある事なんだから。
原因になったろくでもない男の事は……さておくとしてもね」
そこで言葉を切ると、お母さんは、私に向けて、視線を合わせて、じっと見つめてきた。
何と答えるか、待っているのだろう。
少しの間、考え込んだ上で、口を開く。
お母さんの忠告に、私の、返した返答は―――
◇
「おはよう、七海!……それと、反尾君!
ちゃんと仲直りできたんだね!よかった!」
シュウちゃんと、友達からまたやり直す、と約束を交わした、その翌日……
私達は、久しぶりに、一緒に登校して、教室までやってきた。
そこに、よく通る声で挨拶してきた女子生徒は……私の友人の一人、赤村さんだ。
「七海の事、しっかり捕まえておくんだよ!
また他の奴に持っていかれないようにね!」
ばしばしと、シュウちゃんの肩を叩いてくる赤村さんに対し、少し、私はびくついた。
まるで、私達が、もう交際関係にあるかのように、押し付け気味に扱っている。
……私が、止めないと。シュウちゃんに、迷惑がかかる。
赤村さん、と制止の為に呼びかけようとした時……
シュウちゃんは、微かにため息をついてから、前に出て、気怠そうに挨拶で返した。
「おはよう。まあ……ぼちぼちやるよ、ええと……赤村さん」
それを見て……ひょっとしたら、と気付いた。
昨日の、私に対してぶつけた言葉は……
一種のケジメというか、シュウちゃんなりの区切りのようなものだったのだったんじゃないかって。
またゼロから……私と、友達からやり直すために、この半年で貯め込んだ鬱屈した感情を、残さず吐き出す為の儀式、と言うと変だろうか。
勿論、これは私が都合よく解釈しただけの、そうあって欲しいという、ただの……願望なのかもしれないけれど。
それでも、確かに、私とゼロからやり直そうとしてくれては、いるんだ。
ここに登校してくる途中も、私と……半年ぶりに、ぎこちないながらも、会話のとっかかりを探してくれた。
なら、それに甘えすぎるわけにも……いかない。
息を吸って、精一杯絞り出すように、口から声を出す。
「あの……赤村さん。私達……そういうの、じゃないの。
その、ただの友達から……また始めようって……決めたんだ。
だから、気を使ってもらったのに、申し訳ないんだけど……
そういうのは、辞めて欲しいの」
赤村さんは、私の言葉を受けて、こちらを向いて目をぱちくりさせていたが……
いくらか間をおいて、私の伝えた内容を咀嚼すると、そっか、と呟いてシュウちゃんに向き直って頭を下げた。
「うん……七海が……いや、二人でそう決めたんなら。私らの出る幕じゃないよね。
反尾君。いらない事やっちゃった、迷惑かけてごめん。
他の奴にも、余計な世話焼かないように言っとくからさ」
「……別に、謝られるようなことは、されてないよ。
話は分かったから……今後気を付けてくれるなら、別にいい」
ぶっきらぼうに……赤村さんの謝罪をシュウちゃんが受け入れて返すと
赤村さんは、本当にごめん、と再び軽く頭を下げてから、自分の席へと戻って行った。
「……七海、その、手間かけた」
「ううん、元々、私のせい、だから……」
ばつが悪そうに、私にお礼の言葉をくれたシュウちゃんに、ぎこちなくだけど、返事をした。
お母さんの忠告に……『それでも、諦めたくない』と答えた時に、言われたことを思い出す。
『そう……あくまでも、もし修二君が受け入れてくれたら、の話だけど……
相手も、あんたと、同じ十代の子供だって事を、忘れないで。
何て言うか、大人ぶっていて、いっつもあんたの手を引いてくれてたけど……
あんたが間違えたように、ベクトルは違うだろうけど……修二君が間違える時だって、きっとある。
いつか、そのときに、あんたがそれを正せるくらいの、仲に……なれるといいわね』
お母さんは、ああ言ってくれたけれど……そこにたどり着くには……
何もかもが、足りない。
捨ててしまったものが、あまりにも重すぎる。
それを取り戻すには……どれだけかかるのだろうか。そもそも、不可能かもしれない。
敢えてお母さんは言葉にしなかったのだろうけど……
私がシュウちゃんを思い出す機会を得ることができたのは、ただの偶然だ。
それがなければ、わたしは……多分……
本当に、最低だ。どの面下げて、シュウちゃんの隣に、いるんだろう。
でも……きっとまだ……私にそんなことを願う資格は、ないのだろうけど。
何時見限られたとしても、文句はいえないのだろうけど。
それでも、いつかまた、シュウちゃんと、何でもない事で笑い合える時が、くればいいなと……そう、思った。
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